シェイクスピア作品で描かれる足・脚とは?
こちらのマガジン〈サリンジャー×シェイクスピア読解〉では、J.D.サリンジャー作品を読み解くにあたり、押さえておきたいシェイクスピア作品の解釈を掲載しています。サリンジャー読解と合わせてお楽しみいただければうれしいです(最後にリンクをおきます)。
※以下は過去記事の抜粋に加筆したものです。
1 『ロミオとジュリエット』の足・脚
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は恋物語として知られていますが、テキストを読んでみると実は足・脚にまつわる表現が印象的な作品でもあります。
ロミオは恋煩いの苦しみを、わざわざ「向こう脛の怪我」(31)と重ね、仮面舞踏会で踊りを遠慮するご婦人は足に「マメができているに違いない」(51)とからかわれ、ロミオの男ぶりは「脛ときたら/どんな男より素敵」(101)、「きれいな足とまっすぐな脛と震える太股に賭けて/ついでにその近くのご領地に賭けて」(63)と称えられます。さらに、物語の終盤、悲劇を予感したロレンス神父が墓へ急ぐ場面では、「今夜は何度/この老いた足が墓につまずいたことか」(212)と嘆きます。
シェイクスピア作品において、領地はしばしば心の中の象徴。領地が豊かに実っていれば、心がすこやかだということだし、荒れていれば精神的に荒廃しているということ。シェイクスピア研究者だったT.S.エリオットはここから『荒地』という詩を書いた。その領地が足・脚と並べて語られるということは、『ロミオとジュリエット』において、足・脚もまた精神性を表す部位ということです。
2 大地震と立っち
同作で乳母は、ジュリエットが大地震の日に乳離れした(36)という思い出を語ります。そして、「あのときはもうちゃあんと立っちしてらした。/そこらじゅうヨチヨチ歩いたり走ったり」して転び、おでこにコブをつくったジュリエットに、乳母の夫が「うつ伏せに転びなすったな?/もっとお利口になったら仰向けに転ぶんですよ」(37)「うつ伏せに転びなすったな?/年頃になったら仰向けに転ぶんですよ」(38)と繰り返したというエピソードを述懐します。
領地・領土は精神性の象徴だから、領地・大地が揺れる地震は、精神が激しく揺れたことの表現。また、シェイクスピア作品、それに影響を受けたサリンジャー作品では、精神的な分裂にまつわる記述は〈二度繰り返される〉ことは、下記で考察したとおり。
さらに、神話的なモチーフの引用が多いシェイクスピア作品には、母なる大地(本能)と天の父(理性)という対比も見られます(これについては別途まとめます)。だから、大地震が起こった日に乳離れをしたという記述は、赤ん坊だったジュリエットの心の中でその日、激しい揺れが起こり、肉体的にも精神的にも母体と分離して、自我や自意識を持った一人の人間として自立した、その一つの成長段階を語っていると読めると思うのです。これをオイディプス・コンプレックスが形成されるひとつの段階ということもできるかもしれません。
ハイハイしかできなかった幼児が、母に支えられることなく、自分の足で立ち、ヨチヨチ歩けるようになる。やがて自分の足で自由に歩き、走り回ることに喜びを感じるようになっていく。さらに成長すると、調子に乗って、どのくらい早く走れるか、どこまで高く跳べるか、自分の能力を試してみたくなる。これは、イカロスが太陽に向かって飛んでいくのと同じ状態で、自分の限界を超えるとイカロスが墜落したように、転んで痛い目を見る(下記参考)。
ここから推測できるのは、足・脚の怪我や傷が語られる物語の起源には、幼い子どもが母体から離れ、自分の足で立ち、歩き、走ったり跳んだりできるようになることの喜びがかかわっているらしいということです。(素人の感想ですが)フロイトは、赤ん坊が母体からの分離される瞬間が不安の原点だとしているから、その後に現れる不安定な精神状態が足元の揺らぎとして表現されるのも、心身の自然な感覚に由来するのかもしれません。
3 うつ伏せと仰向け
乳離れしたばかりの幼いジュリエットは、まだほとんど知恵を持っておらず、母体や母なる大地、本能的な領域との親和性が高いから、転ぶときにはうつ伏せに転ぶ。やがて、「お利口になったら」つまり、知恵をつけて、ものを考えるようになったら、大地から離れ、イカロスのように高みを目指すようになる。仰向けに転ぶのは、太陽・神・父へと挑もうとする過程で、つまり、理性的な悩みで足をとられることが増えていくことを預言しているのではないでしょうか。
4 額のコブ
また、シェイクスピア作品では、しばしば、妻に浮気をされた夫が精神的に不安定になる姿を、額に角を生やすという表現で茶化します。ジュリエットは幼い女の子ですが、おでこにコブをつくるという表現は、精神的に未熟で不安定であることを仄めかしているのかもしれません。心の不安定さが、足元の揺らぎとなって表出し、その結果足をとられて傷ついたしるしが、額に刻まれるというわけです。
サリンジャーの「シーモア-序章-」では、シーモアもまた一角獣だと表現されています。この説明は改めてまとめますが、精神的に不安定になることは幻の獣になることだし、それは正気・実像を失って狂気におちいり、鏡像・イリュージョンの世界に入り込むことにつながるのではないでしょうか。
5 『トロイラスとクレシダ』のアキレウス
シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』は神話のトロイア戦争を描いた戯曲。ここに登場するアキレウスは、無類の強さを誇り、いくつもの戦いに勝利した戦士。けれど、踵だけが彼の弱点で、敵軍にそこを狙われて死んでしまう、アキレス腱の名称の由来となったキャラクターです。
注釈によれば、アキレウスの踵が弱点になったのは、アキレウスの母である海の女神が、息子を不死身にするために川に浸したとき、手でつかんでいた足首の部分は水に浸からなかったため(ちくま文庫・注釈_139)。
オイディプスは父によって足を不自由にされた神話の人物ですが、アキレウスは母によって足に弱点を持った神話の英雄。これらの神話では、象徴的父や母と息子との関係、子どもが両親から自立しようとする過程での精神的なもつれや傷が、足の傷として表されているんですね。
他のシェイクスピア作品同様、『トロイラスとクレシダ』もまた、親世代と息子世代の対決がひとつのテーマ。シェイクスピアは、おそらく親子の葛藤と足の傷の関係を分かったうえで、アキレウスをこの戯曲の主要な登場人物に選んでいるのでしょう。
この作品では、親世代にあたる年長者たちが、若いアキレウスの傲慢な態度や精神を繰り返し批判し、どんなに優れた力を持っていたとしても、それを驕り、調子に乗るのは浅はかな若者の滑稽な過ちであると諭します。さらに、アキレウスの傲慢さは、彼のライバルのアイアスの傲慢さと鏡写しにしても語られており、同作のひとつの大きなテーマとなっています。これは、シェイクスピアが他の作品でも繰り返し描き続けている、イカロスやバベルの塔の神話に見られる未熟者の傲慢さとも同じものといえるでしょう(この詳細は改めて)。
そんなアキレウスの慢心が、トロイア戦争の神話においては足の弱点によって戒められます。『ハムレット』や『尺には尺を』など、シェイクスピアは父親世代が息子世代の若者を手の内で操り、制御しようとするさまを、複数の作品で〈足枷〉をはめると表現しています。そのうえでの『ロミオとジュリエット』の記述。
だから、シェイクスピアがトロイア戦争を題材に『トロイラスとクレシダ』を戯曲にしたとき、アキレウスの踵が弱点であることにもおそらく意識的だったはずだし、そんなアキレウスの傲慢さを劇中でことさらに強調する理由もそれと結びついている可能性が高い。逆にいえば、アキレウスが神話において、足・踵に弱点を持つキャラクターだったからこそ、シェイクスピアは、彼の傲慢さを劇中でことさらに強調しているのだ、とも考えられると思います。
この戯曲でのアキレウスは、神話で伝えられているとおり、戦意を喪失してテントの中に引きこもっています。ふとしたきっかけで自信過剰になって驕り、かと思えば、わずかな出来事で精神的に落ちこんで、自分の内側に閉じこもる不安定な精神状態は、永遠の少年の典型。これが、神話からシェイクスピア、サリンジャーへと引き継がれる伝統的なテーマであることは、サリンジャー読解でも再三述べているとおりです。
6 『じゃじゃ馬馴らし』の足・脚
『じゃじゃ馬馴らし』は、夫ペトルーチオが、ひどいじゃじゃ馬だった妻キャタリーナを調教して、夫に従順な妻に変えてしまう物語。シェイクスピアは、そんな妻の様子を、足を使ってアイロニカルに表現しています。
キャタリーナは、周りから見ればひどいひねくれ者。だけれど、そんな妻の性格をものともせずに調教してみせる夫ペトルーチオから見れば、そんな欠点は取るに足りない些細なこと。ペトルーチオは、ひどいじゃじゃ馬の妻に向かって、「なぜ世間ではケイト(キャタリーナ)の脚がねじ曲がってるなんて言うんだ?」(中略)歩いてみせてくれ。軽やかな足取りで」(86)といい放ちます。
シェイクスピアはここで、オイディプス王やアキレウスの神話に示されたような、オイディプス・コンプレックス、幼いころの精神的な葛藤に由来する精神的なひねくれ、天邪鬼な性質や根性の悪さを、〈脚がねじ曲がっている〉ことに例えています。
キャタリーナとは関係のない場での、ペトルーチオに対する「足もよく動いているし」(111)という言葉や、ペトルーチオの「ブーツを脱がせろ」「俺の足をねじ切る気か」(133)というぼやきも、この戯曲において足が鍵になっていることを示すもの。
また、この戯曲において、キャタリーナとペトルーチオの物語は劇中劇であり、その外側には、彼等の芝居を楽しむスライという人物が設定されています。キャタリーナの〈足・脚〉のテーマは、枠の外、戯曲の冒頭、おかみがスライに言い放つ「足枷だ A pair of stocks.」(9)という言葉にすでに現れているんですね。
さらに、この後スライが見せられる絵画「ダフネがイバラだらけの森をさまよい歩く絵」「とげに刺された両脚には血がにじみ」(22)はそのまま、足から血を流すイメージが語られています。
ところが、最初に引用したセリフからわかるように、ペトルーチオは、キャタリーナの脚=精神のひねくれ、心の傷を治してやるどころか、そんな傷はないのだと言い放ち、見えないことにして、さらなる調教をくわえる。心の傷は目には見えないから分かりにくいけれど、足に例えるなら、すでに怪我をして血を流している(=じゃじゃ馬になって傍若無人に振舞っている)人に対して、その傷や血には目もくれず、さらなる傷を与えるべく、痛めつけていくのと同じこと。
戯曲の最後に、一見従順になったかに見えるキャタリーナの心の内では、おそらく精神的な傷やひねくれはさらに深い傷となって血を流しているに違いない。そんなわだかまりを残しながら、シニカルな笑いの内に幕を閉じる。そんな物語において、〈足・脚〉は、精神的なひねくれや傷を表す記号として使われているわけです。
これら、神話から引き継がれたシェイクスピア作品における足・脚の表現が、サリンジャー作品にも影響を与えていると思われます。これらをおさえておくことは、「バナナフィッシュ」で足を見られて激高するシーモア、『キャッチャー』のホールデンのおぼつかない足元、「コネティカットのひょこひょこおじさん」の足、「シーモア-序章-」で語られる足など、さまざまな作品の読解のヒントになるはず。この続きはぜひ、下記のサリンジャー読解をご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
