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27_大事なことは二回ずつ_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』解説


こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。

英雄の旅【帰還】2 外からの救出

Q.27-1 ポールの反対側にあるものとは何か?

 ホールデンは、スペンサー先生と自分の精神的距離について、「僕らはポールの反対側にいた」「僕らはポールのまったく逆の側にいる」(29)と語る。ポールの反対側とは、[15_落ちる落ちる落ちる]で見た神話の円環の右端と左端、あるいは下降の線と上昇の線ともいえるだろう。ホールデンが「エレベーターで上にやられたり下にやられたりしなくちゃならない」(220)と話すことも、神話の円環と重ねていいかもしれない。

 『キャッチャー』は円環の上昇と下降を示すように、前半と後半にあえて、いくつかの同じモチーフが置かれている。
 例えば、年老いて野暮ったく貧しいスペンサー先生と、若々しくおしゃれで生活に余裕のあるアントリーニ先生。この二人は、ホールデンを落第(落下)させた人と、ホールデンの分身ジェームズ・キャッスルをキャッチした人でもある。二人ともバスローブを着て、赤ん坊=再生のモチーフが書かれていることは[20_再生の部屋]で述べたとおり。

 また、スペンサー先生が英雄の旅へ下降するホールデンを送り出すときにいう「グッド・ラック」(30)と、フィービーの学校の百歳くらいと思しき女性が、ミイラの展示室の最深部へ、その先の再生へとホールデンを送り出す際の「グッド・ラック」(342)。年老いた二人の賢者には、ホールデンが神話の英雄であることが見えている。だからこそ、冥界巡りへ、さらにその奥深くへと潜り、再生しようとする英雄への護符として、幸運を祈る言葉を授けるのではないだろうか。賢者については下記参照。

 さらに、ハンサムなストラドレイターの下手な口笛(49)と、一見退屈な人間の見事な口笛(209)。前半で英雄がクジラの腹に入ったこと、いまから冥界巡りが始まることを示す、寮でのあくび・眠気(42)と、後半での最終的な英雄の眠り=象徴的な死へとつながるあくび・眠気(323)。前半、階段でホールデンの足を滑らせる試練として現れたピーナッツの殻が、アントリーニ先生宅では、滋養になる食べ物=芽を出す種として現れることや、偽の戴冠と本物の戴冠については既にみたとおり。[01_ライ麦畑の聖杯](上記リンク)、[04_狂気の人撃ち帽](下記リンク)参照。

 スペンサー先生宅でミイラについて言及する時には、ホールデンは、教師(大人)から教えられる生徒(子ども)の立場だが、いくつもの試練をくぐり抜けた後、終盤のホールデンは、博物館で、子どもたちにミイラについて教えてやる年長者の立場へ成長している。
 寮から出ていくときの「どっかの馬鹿が階段じゅうにピーナッツの殻をばらまいていたせいで、あやうく首の骨を折っちまうところだったよ」(92)と、後半で、自宅から出ていくとき、ホールデンは「エレベーターを使わずに階段を歩いて降りた。裏の階段を使ったんだ。そこには一千万個くらいのゴミ缶が置いてあって、おかげで僕はもうちょっとでつまずいて首の骨を折っちまうところだった」(306)もそう。
 他にもあると思うが、きりがないので。
 
 この書き方もまた、おそらくシェイクスピア作品の真似。例えば『ハムレット』の前半で、ハムレットが現王(義父)と先王(実父)の差を「俺とヘラクレスほどの差」だと表現し(30)、後半では「ヘラクレスにはしたい放題させておけ」と述べる(242)、また「人類最初の死者」(28)「人類最初の罪」「兄弟殺し」(157)と聖書のカインとアベルのエピソードがやはり前半と後半に対置されている。前半と後半にあえて同じキーワードやモチーフを配置し、意味を与えて神話の円環構造の下降と上昇、主人公の退行や成長といったテーマを表現している部分がシェイクスピア作品にもみられる。サリンジャーはこれを参考にしているのではないだろうか。

Q.27-2 DBと一緒にNYに帰るのはなぜか?

 神話の円環構造の極めつきは、物語冒頭と最後に現れ、枠を作っているDB。
 冒頭でDBが作家、芸術家としての才能と、ハリウッドで身売りをするような商業的な性質の二つに引き裂かれていることが述べられ、それがホールデンの中にある子どもと大人、イノセンスとインチキさ、ホンネとタテマエなど様々な分裂と重なっていく。英雄として一連の試練を乗り越え、最後にDBのもとへ戻るとき、DBの中の分裂、ホールデンの中の分裂とともに、実兄=象徴的父=ホールデンの分身でもあるDBと、ホールデンの分裂も統合されていく。
 さらに、最後まで通読した後で、改めて冒頭を読み返してみると、「DBは今ハリウッドに住んでいて、そこからこのうらぶれた場所まではそんなに距離はないから、だいたいいつも週末になると僕を訪ねに来てくれる。来月あたりうちに戻るときには、車に一緒に乗っけてってくれるってことだ」(6)とあるとおり、まるで全体が円環構造になっていることを示すかのように、DBの導きによってホールデンが病気療養のためにニューヨークからハリウッド近くへ行き、またニューヨークへ戻ることが仄めかされる。東海岸から西海岸へ移動し、再び東海岸へ戻る動きが、そのまま、彼岸・異世界へ行って、此岸・現実世界へ戻ってくる英雄の旅と重なりあう。
 
 キャンベルは、英雄を冒険から連れ戻すのに、外からの助けが必要になることがあると述べている(G)が、DBは、ホールデンが帰還する際の「外からの助け」の役割も果たしているといえるだろう。
 [06_聖杯伝説の構造](上記リンク)で全体像を捉え、[07_冒険への召命]以降、順番に追いかけてきた、聖杯伝説的な構造に沿った『キャッチャー』読解も、これで一周したことになる。

Q.27-3 DBと映画への愛憎が語られるのはなぜか?

 DBがハリウッドで映画産業に携わっていることも見逃せない。
 ホールデンは、「僕は映画ってものを毒のように憎んでいる」(53)「みんなくだらない映画のせいだ。映画って人を駄目にしちゃうんだよ」(177)など、映画への嫌悪を語る。が、アックリーらと映画を見に行こうとしたり(65)、ラジオ・シティーでひとり映画を見たり(231)、フィービーが気に入っている映画について話したり(116)し、ことあるごとに映画についての好悪を語る。[13_天邪鬼と狂気](下記)でホールデンが、同じ人を褒めたりけなしたりする心の揺れについてみたが、同じ愛憎が映画に対しても綴られている。

 映画への愛憎は、二極に揺らぐ精神的な分裂傾向の象徴であるとともに、現実世界と虚構の世界との揺らぎをも表現する。それが、兄DB=自分の分身への愛憎とも重なりあう。
 
 初期短編「イレイン」では、知的障害を持つと思われる美しい少女が、大人へと成長を遂げようとする途中で、恋人との結婚を取りやめ、母と祖母とともに映画を見る日々へと還っていく物語。ここで、サリンジャーは、母に象徴される、物心つく前の赤ん坊がいる原初的世界と、映画の世界を結びつけている。サリンジャー作品においては、未熟な若者が母なる大地へ還ることが、映画=虚構の世界に引きこもることと重ねられている(詳細は「イレイン」読解にて)。
 だから、永遠の少年ホールデンが映画の世界に惹きつけられるのは当然のこと。現実逃避をして、虚構の世界に入り込みたいと思う気持ちは、英雄ホールデンが冥界巡りをすること、神話の円環を下降していくことと重なる。
 しかし同時に、映画は商業主義、インチキな大人社会の象徴だという反対の価値観もある。DBがかかわるハリウッドのビジネスは、ホールデンが逃げたい現実世界の最たるものであり、そこにある拝金主義や名誉への欲望と、芸術的な価値の分裂がそのままDB=ホールデンの葛藤となっている。
 現実と虚構、此岸と彼岸、金銭的価値と芸術的価値という揺らぎは、ホールデンの中の大人と子どもといった分裂、さらにはDBとホールデン、『キャッチャー』におけるクリスマス前後の三日間のホールデンと、それから数か月後〈語り手ホールデン〉がいる現在のホールデンという二重性にも響きながら、主人公の心と足元をぐらつかせている。

Q.27-4 ホールデンが同じことを二度ずついうのはなぜか?

 ホールデンには、スペンサー先生との精神的な距離について、「僕らはポールのまったく逆の側にいた」「僕らはポールのまったく逆の側にいる」(29)といったり、ホテルで娼婦を呼ぶときに、「結婚するとか、そういうときのためにさ」「結婚したりするときのためにさ」(158・159)といったり、同じことを即座に二度ずつ繰り返していう癖がある。前者は、神話の円環に通じるモチーフ、後者は聖婚と分裂した精神の統合に通じる内容で、さりげないが、いずれも本作の重要なテーマにかかわることを二度ずつ繰り返して強調しているともとれる。
 また、「両親はきっとそろって二度ずつ脳溢血を起こしちゃう」(5)「二度しか殴り合いのけんかをしたことがないんだけど、どっちのときも負けちまった」(80)ストラドレイターが二度ひげをそる(55)、アリーのお墓に行ったときに「二回とも——二回ともだぜ——雨が降りだした」(263_傍点原文)、「二度」と直接書かれている部分も多い。
 さらに、ストラドレイターに殴られて倒される、モーリスに殴られて倒される、「腹に銃弾をくらったふり」を二度する(177・253)、自然史博物館へ二度行く、フィービーが二度回転木馬に乗る(359)など、二度繰り返す行動も複数ある。
 ホールデンはアックリーについて、「こいつはいつだって、相手に同じことを二度言わせるんだよ」(38)と語り、アックリーもまた「明日の朝早く起きてミサに出なくちゃいけないんだ」(83)「明日の朝はミサがあるんだ」(86)と同じことを繰り返している。

 饒舌でスピーディな文体のリズムを整えるテクニックととられがちな表現だが、『キャッチャー』のもととなった短編「ぼくはちょっとおかしい」にも、「ジャネットは何でも繰り返して言う」(32)とあるように、これも初期から意図的になされた書き方のようだ。
 元をたどれば、オシリス神話でオシリスが二度殺されて蘇ることなども、同様の表現といえるだろうか。
 シェイクスピアでも、『ハムレット』で、先王の「亡霊が二晩連続で出てくる」といわれることや、「わが国の関節がはずれ、解体した」(23)「この世の関節がはずれてしまった」(68)と似た表現が前半で二度繰り返されることなど、似た表現が多い。『ロミオとジュリエット』では「うつ伏せに転びなすったな?/もっとお利口になったら仰向けに転ぶんですよ」(37・38)というセリフが二度繰り返される。
 『ハムレット』の関節がはずれるという言葉は、オシリス神話に結びつく内容だし、『ロミオとジュリエット』のうつ伏せに転ぶか、仰向けに転ぶかは、幼いころには母なる大地に引き寄せられ、言葉を話すようになると、天の象徴的父との関係に悩んで足をとられることの比喩で、オイディプス・コンプレックスに関する記述と読める(この詳細については、シェイクスピア読解で説明する)。シェイクスピアもまた、成長に伴って抱え込む精神的な分裂や揺らぎを表現する際に、あえて同じセリフを二度繰り返して書いており、サリンジャーはやはりこの技を真似ているようなのだ。
 ホールデンの饒舌な語り口は、当時の若者のおしゃべりを再現したものとして語られることが多く、むろんそこにも魅力があることは間違いないのだが、その背景には、神話やシェイクスピアなどの古典から受け継がれた伝統が息づいているといえるだろう。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解21~30のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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