28_現実を映す博物館_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』考察
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
Q.28 博物館でおはじきが散らばるのはなぜか?
ユング派の神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、太古から人々は、目に見える現実世界・此岸の向こう側に、冥界・彼岸・真実の世界があると想像してきたと述べている。人間が生まれて生きて死ぬ、生物として体感する時間が流れる向こう側に、一瞬が永遠でもあるような神々の世界・異世界を思い描き、それを神話として語りついできたのだという(G・H)。
此岸と彼岸は、ときとして鏡に映したように互いを反射しあうパラレルワールドのように見える。『キャッチャー』では、このような世界観が、自然史博物館を使って表現されている。街=現実世界でホールデンが体験する出来事が、自然史博物館=異世界で繰り返される。
博物館での「越冬するために南に飛んでいく鳥」と「入り口のすぐ手前に、一人のエスキモーがいる。氷結した湖に開けた穴にかがみこむように座って、その穴から魚を釣っているんだ」(204)という描写は、ホールデンが心配する、セントラルパークの池のアヒル(25)と、タクシー運転手ホーウィッツが教えてくれる、池の中で凍り付いている魚(141)に呼応する。
また、ホールデンは子どもの頃の博物館の思い出を、次のように語る。「床は石でできていて、もし君がおはじきをいくつか持っていて、それを落としたとしたら、それはもう気がふれたみたいにぴょんぴょんとはねて床じゅうに散らばり、えらい騒ぎになっちまう」(203)
これは、この日の夜、ホールデンがセントラルパークでフィービーのために買ったレコードを落として、五十くらいのばらばらのかけらになってしまう(260)イメージと重なる。これがオシリス神話で、オシリスが身体をバラバラに切り刻まれてしまうモチーフと重ねられていること、豊穣を願って大地に撒かれる種のイメージにつながることは、上記リンク[01_ライ麦畑の聖杯]で述べた。
ホールデンはさらに、博物館の思い出を、「二列縦隊で、君にはパートナーがいる。僕のパートナーはだいたいいつもガートルード・レヴィ―ンっていう女の子だった」と語り、「ケースの中にはインディアンたちがいて、彼らは火を熾すために棒をこすりあわせている。女が毛布を織っている。」(204)とも語る。
火を熾すしぐさは、この後、ホールデンがサリーとデートをしている最中に、「僕は次から次へとマッチを擦って、火をつけていった。」(219)という行為と重なる。これはホールデン自身が「神経質な癖だよね」と述べている通り、不安神経症を思わせる表現として、『キャッチャー』のもととなった短編「マディソン」ですでに現れているモチーフ。
女が毛布を織っているのは、スペンサー先生がくるまっているナバホの毛布に重ねられる。それがクジラの腹に結びつくことも、下記[08_毛布・コート・包帯][10_クジラの腹の中]で述べたとおりだ。
キャンベルは、クジラの腹で火を熾すことは聖婚(ユングのいう分裂していた精神の統合)の象徴であると述べている(G)。「マディソン」でも『キャッチャー』でも、ホールデンは、マッチに火をつけるしぐさの後、サリーに求婚しているから、ここに聖婚のイメージを込めている可能性は高い。
サリーはホールデンの影としても読むことができる(下記[17_誘惑する女]参照)から、ホールデンがマッチを擦って求婚することは、自分のシャドウ(もう一人の自分)を包摂したいと望むことを示していることになる。それが、博物館の思い出の「パートナー」という言葉に現れているのだろう。パートナー同士は、いうまでもなく、[11_最初の試練・豆](下記)で説明した豆の片割れ同士である。
こうして比較していくと、まるで、ニューヨークの街の中心にセントラルパークがあるように、『キャッチャー』という小説の中心に、自然史博物館が配置されていることが分かる。
逆に言えば、ホールデンは博物館で小さいころから見てきたものたちを、外の世界で追体験している。サリンジャーは、幼いころから親しんできた博物館に展示されているものから想像を膨らませて、ホールデンが街で出会うモチーフを作り上げていったのかもしれない。ホールデンはニューヨークの都市を巡りながら、同時に太古の神話世界をめぐっている。ホールデンがめぐるクリスマス前後のカーニバル化したニューヨークの街は、ホールデンにとってひととき、太古の神話世界へと変容している、という言い方も可能だろう。
以下には私の勝手な想像が入っていて、根拠を探すのはこれからなのだが、ユング派やサリンジャーが考える彼岸というのは無意識の深淵と重なっているし、現実世界である出来事ことが起こっていたとしても、そこから何を選び取って自分の目に移し、耳に聞こえる音として感知し、その他の五感や身体と心を使って何を感じ取るかは、多分に一人ひとりの内面にかかわっているから、彼岸と此岸が鏡像関係になるのは自然なことなのだ。
それは、「バナナフィッシュ」のシーモア・グラス(see more glass)鏡を見る男に象徴されるように、鏡の中に何を見るか、自己の内面と外界とのバランスをどうとるかという問題とかかわってくる。(この続きは「バナナフィッシュ」読解にて)
現実世界の向こう側にある異世界・彼岸というパラレルワールド。そこは、博物館と同じように時が止まったような、一瞬が永遠である世界。「この博物館のいちばんいいところは、なんといってもみんながそこにじっと留まっているということだ」「ただひとつ違っているのは君だ」(205_傍点原文)という一節には、此岸と彼岸の対比、彼岸をめぐる生者ホールデンの姿が鮮やかに表現されている。それは、『キャッチャー』という凍結された物語、三日間を永遠に閉じ込めた『キャッチャー』という小説や、その中に永遠に凍りついているホールデンと、読者の関係とも重ねられる。
サリンジャーは、神話的なモチーフを散りばめるだけでなく、博物館を作品の中心に置くことで、パラレルワールドを出現させ、ホールデンや読者に一瞬が永遠でもあるような神話世界を追体験させることを目論んだのではないだろうか。
続きはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解21~30のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
