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29_幸せな難破_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』解釈


こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

前回から、自然史博物館の描写について考察しています。前回の記事を未読の方は、もしよろしければ、28からお楽しみください。

Q.29-1 フィービーが自分に男性の敬称を使うのはなぜか?

 ホールデンは、博物館の展示について「毛布を織っているインディアン女は前屈みになっているので、おっぱいなんかをばっちり見ることができる。僕らはみんなそれをこっそりと、でもしっかりのぞき込んだものだ。女の子たちですら同じことをした。というのはまだみんな小さな子どもだったから、女の子たちの胸だって僕らと変わりなかったからだ。」(204)と語る。この描写は、幼い子どもがまだ両性具有的であることを示す記述。
 博物館の外では、フィービーが自分に「殿Esquire」という男性に対する敬称を使っている(280)こと、髪を「夏になるとぐっと短くカットする。夏には耳の後ろに髪を挟み込んじゃうんだ。」「でも冬が来ると髪はけっこう長くなる。」(116)と語られ、両性具有のイメージを担っている。下記で述べた通り、サリンジャー作品においては、フィービーの年齢十歳が、両性具有的な子どもから大人へと成長する分岐点として描かれる。

 他にも、『キャッチャー』には、ホテルの窓から見える、女装する男性や、カール・ルースによる性別を超えた恋愛の話など、男女の揺らぎと統一のモチーフが散りばめられているのだが、中でも幼い子どもは、身体的に成長していない分、両性具有的な要素が強い。それは、そのまま、幼い子どもの方が、相反する要素が混ぜ合わされ、一体化している次元として語られる神話の世界に近いということ。神話世界は神々のいる世界であり、幼い子どもは、人間界の価値観に疎い分、聖性が高いことを意味する。
 
 さらに、フィービーの両性具有性は、シェイクスピア『十二夜』のヴァイオラへつながる。ヴァイオラは、航海しているときに嵐に遭い、海に投げ出されて双子の兄とはぐれてしまった妹。兄が死んだと思い込んだヴァイオラは、男装し、男として兄の分まで生きようとする。つまり、一人の中に男女両方の性質をあわせ持つキャラクター。
 シェイクスピアの時代には、男装する少女ヴァイオラを、更に少年俳優が演じるという二重の反転があり、劇中のセリフでは、男装したヴァイオラに対して「お前を男だと言う者は/その恵まれた若さを見そびれている。つややかでルビーのように/赤いお前の唇は、処女神ダイアナも及ばない、その細い声は/少女の声のように高く澄み切っている。/すべてが女役を演じる少年俳優そのものだ」(27)と性別の揺らぎが強調されている。
 『キャッチャー』のもととなった短編「I’m Crazy」では、ホールデンの妹にヴァイオラの名前が与えられており、これはおそらく『十二夜』からとられたもの。『キャッチャー』を構想する際、サリンジャーの頭の中に『十二夜』があったことはおそらく間違いない。
 『十二夜』のヴァイオラは、「一人前の男としては幼すぎ、子供と言うには育ちすぎです。実が入る前のサヤエンドウ、色づく前の青リンゴ、子供から大人への潮の変わり目、(中略)乳離れしたかしないかのヒヨッコです」(38)と語られる。男女の境界線上にいると同時に、子どもと大人の境界線上にもいる、イニシエーション期の若者。二つの世界に片足ずつ踏み入れ、揺らぎのただ中にいる存在。それは、ホールデンがさしかかっている子どもから大人へと成長する段階とも呼応するものだ。

Q.29-2 博物館の大講堂とは何か?

『キャッチャー』で、ホールデンは博物館の大講堂の思い出をこう語る。

大昔にインディアンが作ったものを見た。陶器とか麦藁のバスケットとか、そういうもの。そのときのことを思い出すとすごく幸福な気持ちになる。今でもなお、ね。インディアンの展示を全部見たあと、だいたいいつも大講堂に行って映画を見た。コロンブスの映画。そこではいつもコロンブスがアメリカ大陸を発見したときの映画をやっているんだ。船を調達するのに必要な金をフェルナンドとイザベルに貸してもらうためにすごい苦労したり、船員が途中で反乱を起こしたり、そういうなにやかや。僕らはコロンブスがどうなろうが知ったことじゃなかった。でも君はキャンディーやガムなんかをたっぷりと持っているから、場内には甘い香りがぷんと漂うことになる。まるで、外では雨が降っています、というような匂いがした。たとえ実際には降っていなくてもね。で、この世界中で唯一、僕らの今いる場所だけが、からっと乾いて居心地がよくてなごめる場所なんだ、みたいな。僕はその博物館がなにせ好きなんだ。

(202)

 麦藁のバスケットが、前述した捨て子を守る籠や箱、〈キャッチャー〉のひとつの形であることは、下記で述べた通り。

 短編「I’ Crazy.」では、妹ヴァイオラのために、兄ホールデンがドナルドダックのぬいぐるみを囲いつきのベビーベッドに入れ、好物のオリーヴを持ってきてベッドの囲いに並べてやる記述がある(36)。
 この場面は、キリスト教のノアの方舟の神話に重ねて読むことができる。ノアの方舟のエピソードでは、洪水が引きつつある吉報を知らせるために、鳩がオリーヴの枝をくわえてくる。これが、ホールデンがヴァイオラに与えるドナルドダックとオリーヴ。ヴァイオラが抜け出そうとするベビーベッドがここではノアたちを乗せた方舟に例えられている。
 ノアの方舟は、上記で示した、神話において捨て子を守る籠・バスケットに連なるモチーフ。同時に、キリスト教の教会の元型ともいわれている(S)。『キャッチャー』の大講堂はこれに重ねられる。雨が降っていない日でも外では雨が降っていて、大講堂のなかだけが乾いて心地いいと語られるのは、ノアの方舟のなかだけが唯一大洪水から守られた場所だから。大雨・大洪水の中を、子どもたちが方舟に乗り、コロンブスのような航海士となって進んでいくイメージが現れる。
 『十二夜』のヴァイオラが航海中に兄とはぐれたように、子どもと大人の境界線上にいる未熟な若者は、船に乗って、海の嵐、襲い来る試練に立ち向かわなければならない(神話の英雄、シェイクスピア作品の登場人物は魚であると同時に、船乗り・漁夫王にも例えられる。詳細は「バナナフィッシュ」読解にて)。
 『十二夜』で、最終的にはヴァイオラと兄が再会し、苦難のひとときが「幸せな難破」(168)と表現されるように、洪水による浄化を経て、分裂していた精神は統合され、子どもは大人へと成長・再生する。大洪水から守ってくれる講堂=船体はクジラの腹。外の降る雨やキャンディーの甘い香りは羊水。母の胎内に回帰しているイメージだからこそ、ホールデンはその思い出を語るとき、幸福な気持ちになる。これは、もちろん『キャッチャー』の最後、回転木馬の場面でホールデンの上に降る大雨と、そこに満ちる幸福感へとつながっていく。大雨・洪水・浄化については下記参照。 

 ホールデンの姓〈caulfield〉の〈caul〉が、胎児が生まれるときに頭にかぶってくる羊膜・胞衣を意味し、それが水難除けのお守り、幸運の帽子ともいわれていることは、竹内氏が指摘している(C)。神話の英雄=永遠の少年=魚や漁師・船乗りは、洪水でいちど〈field母なる大地や海〉へと呑み込まれ、そこから〈caul胞衣〉をかぶって生まれなおす、再生するように、という願いが込められているのだろう。

Q.29-3 カヌーに呪い師が乗っているのはなぜか?

 ホールデンは、展示について、二十人くらいが乗り込める、インディアンの戦闘カヌーについて、「みんな戦いのための顔料を顔に塗りまくっている。カヌーの最後尾にはすごく気色の悪いやつがいる。仮面なんかつけてさ。呪い師(witch doctor)なんだよ」(204)と説明する。顔に顔料を塗っているインディアンは、顔に白いにきび薬のようなものを塗っているアックリー(81)を思わせるし、呪い師は、「アン・ルイーズ・シャーマンっていうすごい嘘っぽい女の子」(109)を思わせる。
 「シャーマン」という名前の女の子は「ズーイ」にも登場し、サリンジャーが意識的に書いていることは明らか。キャンベルは、太古におけるシャーマンの役割を、現代では精神科医が担っていると述べている(G・H)。神話において、船に乗る者が迷える魂の象徴であることは前述のとおり。シャーマン=精神分析医は、迷える魂=神話の英雄=精神分析を受ける者たちを、冥界・彼岸・無意識の領域へ連れていき、そこにある傷やトラウマを癒す役割を担う(このテーマについては後述)(二極の価値観に引き裂かれる心、統合失調症などにもつながる精神の分裂傾向、無意識に抑圧したトラウマを思い出し癒すことを同時に語るのは、心理学や精神分析学では問題あるのかもしれませんが、ここは素人考えで、神話やシェイクスピア作品、サリンジャー作品を読むときには、重ねてしまってもいいのではないか、というスタンスで読解しております、ご容赦を)。
 
 前回、ニューヨークの街の中心にセントラルパークがあるように、『キャッチャー』という小説の中心に、自然史博物館が配置されているイメージがあることを考察した。これは、私たちが普段、自分の意識や思考だと思っている心のさらに内側に、自分には見えない無意識の世界がうごめいていることとも呼応しているのではないだろうか。
 それは、神話において、迷える魂が船旅で嵐に巻き込まれ、沈んでいく海の底とも呼応している。例えば、博物館の展示で、船に乗る者が、シャーマンに連れられて行くところ。例えば「バナナフィッシュ」でシーモアがピアノを弾いているといわれる「オーシャン・ルーム」といわれる無意識の深淵。過去の記憶や抑圧したトラウマが眠る場所。オイディプス・コンプレックスを引き起こす固着のもつれがわだかまるところ。
 子どもから大人へと成長するときに、消し去ったはずのもう一人の自分の影がいるところ。『十二夜』で、嵐によって海へ落ち、離れ離れになった主人公の双子は、そんな自意識とシャドウ(影)の象徴。シャーマンは、そんなもう一人の自分を迎えに行くことで、心の傷を癒すための導き手。
 彼岸・神話世界・一瞬が永遠であるような博物館へ行くことは、無意識の深淵へ降りていくことと同じ。そこで、子ども時代の思い出に浸ることが、半ば狂気にとりつかれているといってもいいホールデンの精神を癒していく。
 また、博物館の展示と同じことがニューヨークの街中で再現されることで、日常空間であるはずのニューヨークの街が非日常化・カーニバル化、すなわち彼岸化・神話世界化しているともいえる。ホールデンが語る三日間の出来事そのものが、無意識の中で起こった出来事のような感覚で語られると捉えるなら、ホールデンがシャーマンとなって読者をひとときフィクションの世界へ引きずり込み、疑似的に子どもの頃の感覚を呼び戻すことで、現実世界で疲れた心がしばし癒される感覚をもたらすかもしれない。
 小説、映画、ゲームなど、あらゆるフィクション作品に、似たような働きがあるだろうが、『キャッチャー』はそれがひとつのテーマとして、特に意図的に、幾重もの仕掛けによって描きこまれている作品ではないだろうか。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解21~30のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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