18_精神的な孤児_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』解説
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。
英雄の旅【イニシエーション】4 父親との一体化
Q.18-1 フィービーが孤児の物語を書いているのはなぜか?
キャンベルは、神話の英雄の多くは孤児として描かれ、英雄の旅の主たる目的は、父親捜しとなる、と述べている(G)。オイディプスやモーセ、折口信夫が貴種流離譚に分類したパターンだ。
『キャッチャー』冒頭で言及される、ディッケンズの『デイヴィット・カッパフィールド』は、主人公デイヴィッドが、子どもの頃に両親を亡くし、居場所を求めて親戚や知人のもとを転々とする、孤児の物語。
ラジオ・シティーでホールデンが見る映画のあらすじには、ディッケンズの孤児の物語『オリバー・ツイスト』が登場し、ディッケンズファンの映画の主人公アレックが記憶をなくしてロンドンじゅうを歩き回るというのも、ホールデンがニューヨークを彷徨う様子に重なる。
『荒地』で、橇で滑り降りた思い出を語る女性はリトアニア出身で、「私はとても怖かった」と語る。『荒地』が描く第一次世界大戦時、リトアニアは征服されており、自国を追われて彷徨う者は、学校を追放されてニューヨークを彷徨うホールデンや、精神的に彷徨う魂のイメージにも通じる。
これは少々深読みしすぎ、偶然の一致かもしれないが、覚書としていちおう押さえておくと、『荒地』のタイトルは、元の原稿では、「彼はいろんな声でおまわりさんのまねをする」で、これはディケンズの小説『われら共通の友』に出てくる言葉であり、「彼」スロッピーもまた孤児(W)。サリンジャーがこのことを知っていたかどうかは分からないが、サリンジャーが、エリオットや、ディケンズの描いた捨て子神話のモチーフに共感し、自身の作品に活かそうとしていることは間違いない。(サリンジャーの初期作品「エディに会いな」の主人公はいろんな声を出しておどける、この描写が精神的な傷がもたらす多重人格的な表現となっており、神話のエコー、ナルキッソスを経由して「バナナフィッシュ」へと結びついていく、詳しくは改めて)
さらに、ホールデンが好きだという『グレート・ギャツビー』は、自分の出自に満足できないギャツビーが、実の父親のもとから離れ、父親の代わりとなる人物ダン・コーディのもとで、理想の女性デイジーを手に入れるために力をつけていく物語。
数々の孤児の物語を散りばめながら、しかし、ホールデンは捨て子ではないし、作品内でのホールデンの実父の印象が薄いため、『キャッチャー』に孤児の父親捜しというテーマが隠されているとは気づきにくい。サリンジャーは、なぜこのような書き方をしたのだろうか。
学校から追放され、社会から落下したホールデンは、救済を求めてニューヨークを彷徨う。その姿は、寒さの中で行き場を失うセントラルパークの池のアヒルに重ねられる。これは、ナイル川に流されて拾われたモーセを思わせる設定。Wikipediaによれば、「モーセ」は、ヘブライ語で「引き上げる」の意味。水から引き上げられたことに因んだ名前だという。「引き上げる」はむろん「キャッチする」と重なり合う言葉だ。
さらに、フィービーが書いている物語の中で、フィービーに重ねられた女の子は「いちおう孤児っていうことになっているんだけど、お父さんがちょくちょく姿を見せる」(117)という。これは、ホールデンが孤児ではないのに、まるで孤児のように街を彷徨うことと重なる。
サリンジャーが表現したかったのは、どんな環境で育ったとしても(家族の形、血縁の有無、愛情の大小やその表現方法などにかかわらず)、精神的な成長=イニシエーションの過程=独り立ちしようとする段階で、多かれ少なかれ誰もが精神的・象徴的に孤児であるような感覚になる時期があり、それが伝統的な神話や文学作品で語られているらしいこと。これを表現するために、あえて実際の孤児を描くのではなく、親元で育てられながらも捨て子のような心理状態で街を彷徨うホールデンという主人公を設定しているようなのだ。精神的な傷を表現するために、ホールデンに銃で撃たれたふりをさせ、目には見えない血を流させるのと同じように、孤児ではないホールデンがいかに孤児的な試練を乗り越えるかが大事なのである。
Q.18-2 ホールデンが籠を拾うのはなぜか?
『聖書』で、後に英雄となったモーセは、〈籠〉入れられて川のそばに捨てられていたところを拾われたといわれている。〈籠〉は捨て子神話の重要なモチーフで、イエスが降誕時に置かれた飼い葉桶や、ノアの箱舟などと同様、神から救済される箱形のものとして、教会の元型ともいう(S)。〈籠〉は捨てられた赤ん坊を外界の脅威から守り、英雄へと育む捨て子のお守り、救世主の御手、クジラの腹に通じるモチーフだろう。
『ロミオとジュリエット』では、ロレンス修道僧が籠に薬草を集めており、これに、ジュリエットが仮死状態になったときに埋葬される棺や、ロミオとジュリエットが本当に死んでしまったときに、二人の再生を願うゆりかごのイメージが重ねられている。
また、『荒地』の二章「チェス遊び」は、もともとは「籠の中 in the cage」という題だったという(M)。詩の中で、籠は、ナイチンゲールに変身させられた、フィロメーラ姫が閉じ込められた鳥かごを象徴し、さらにそれが、精神的に堕落し荒廃した上流階級の女性が閉じ込められた、宝石が煌めく鏡のある部屋と重ねられている。ここで、籠は、本来の神からの救済を象徴するモチーフから、荒廃した精神を閉じ込めるアイテムへと役割が反転している。(『荒地』の倒錯については後述)また、『荒地』のエピグラフ、クマエの巫女(が閉じ込められいる「甕の中」にも通じるだろう(「バナナフィッシュ」読解にて)。
ホールデンが出会った二人の尼さんの片方は〈麦藁のバスケット〉=豊穣のライ麦畑から収穫された麦の穂で編まれた捨て子のお守りを持っている。尼さんはそれを「床に落としてしまって、僕(ホールデン)はかがみこんでそれを拾ってあげた」(186)。ホールデンはここで、象徴的に捨て子を拾うキャッチャーになる。
さらに、ホールデンは、自然史博物館で、子どものころに、「インディアンが創ったものを見た。陶器とか麦藁のバスケットとか、そういうもの。そのときのことを思い出すとすごく幸福な気持ちになる。」(202)と語り、精神的な孤児だった子どものころに、甕や籠のようなものを求めていたことが仄めかされている。だからこそ、ホールデンはフィービーに「すごく好きなもの」を挙げてみてと言われて、「うらぶれた麦藁のバスケットを持って寄付を集めている例の二人の尼さん」を思い出す(287)。
また、ホールデンがアックリーにトランプのカナスタをやろうと誘う場面(82)があるが、Wikipediaに、カナスタはスペイン語で〈籠〉を意味するとある。この場面で、ホールデンは象徴的な捨て子として、自分をキャッチしてくれる〈籠〉を求めるが、アックリーに断られてしまう。
ちなみに、カナスタには、フリーズ、フローズンなど、凍結や氷を意味する言葉も使われるようで、これはセントラルパークの池の中で凍りついている魚=ホールデンのイメージにもつながる。
サリンジャーは初期短編「ヴァリオニ兄弟」で、捨て子を守ると同時に精神的な檻にもなる、両義的な〈籠〉をモチーフとして使っている(詳細は「ヴァリオニ兄弟」の読解でまとめる)。また、「ズーイ」にも、〈二つの空っぽの鳥かご〉が登場する。
Q.18-3 ホールデンがスーツケースの思い出を語るのはなぜか?
尼さんたちは、籠のほかに安物のスーツケースを持っている(185)。ここから、ホールデンはスーツケースにまつわる思い出を回想する。ルームメイトと自分のスーツケースの違いが、実家の財力を象徴するという世俗的なエピソードだ(185)。
〈スーツケース〉は、短編「ぼくはちょっとおかしい」ではホールデン自身が持っている〈トランク〉(英文未確認)として書かれている重要なモチーフ。(『キャッチャー』ではホールデンのバッグはグラッドストーンのバッグに変更されている、これについては後述)
シェイクスピアの『オセロー』には「空き箱のような体を悪魔が飾り立てるAre empty trunks, o’er-flourish’d by the devil.」(132)とある。注釈によれば〈trunk〉には、胴体、身体という意味と、彫刻や絵をほどこしたエリザベス朝のタンス(chest)のイメージが重なるという。シェイクスピアもイエスの受難とオシリス神話を結び付けて書く作家だから(詳細は別途まとめる)、人体=木の幹=箪笥=棺のイメージのつながりがあるだろう。
ドストエフスキーは『罪と罰』でトランクをイエスの受難や、おなじく『聖書』のエピソードであるラザロの復活において、彼らが埋葬される棺と重ねて描いている(『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー 五大長編を解読する』亀山郁夫、NHK出版)。
サリンジャーは、「エズメ」や「最後の休暇」で、ドストエフスキーの象徴表現を引用している(詳細「エズメ」読解にて)から、「ぼくはちょっとおかしい」『キャッチャー』の〈トランク=スーツケース〉に、ドストエフスキーが〈トランク〉に込めた、イエスの受難の際の棺のモチーフを読み込むのにも無理はないだろう。
スーツケースが高級品かどうかを気にするルームメイトは、知恵の実を食べ、現世においてお金持ちかどうかという二項対立に惑わされる人間の姿そのもの。サリンジャーはここで、そんな迷いは、死んで神話の世界・冥界・彼岸へ行ってしまえば、まったく関係がなくなってしまうのだといっているのだろう。
これはさらに、物語の最後、フィービーがホールデンの古いスーツケースを引きずって現れる場面へとつながる(348)。フィービーが持ってくるのは、英雄ホールデンを再生させるためのクジラの腹、ホールデンのための棺なのだ。
「テディ」でも、スーツケースが印象的な使われ方をしている。「テディ」のスーツケースは、捨て子=迷える魂を守る箱形のモチーフという意味で、テディが最後に落下するプールにも通じるし、これはDBの短編小説「秘密の金魚」の水槽にも通じるだろう。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
■参考文献
M_『T.S.エリオット『荒地』を読む』越沢浩、勁草書房、1992年
