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19_教師・兄・父_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』解説


こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。

英雄の旅【イニシエーション】4 父親との一体化 

Q,19-1 ホールデンが二人の教師を訪ねるのはなぜか?

 ホールデンは、子どもじみた振舞いを「とくに父親に」指摘され(19)、「僕の父さん、知事なんだ」(53)と踊ってみせ、女の子に「父親が今夜何をしているのか」しつこく尋ねられ(129)、「うちの父親は僕にイェールとか、それともプリンストンみたいなところに行ってもらいたがっている。でもなにがあろうと、たとえ死の瀬戸際に立たされたって、アイビー・リーグのカレッジになんか行くもんか」(146)と心の中で反発する。さらに、フィービーを相手に、弁護士でありながら、困っている人を弁護するよりも、お金を稼ぐことや社会的な名誉を得ることにとらわれた実の父を非難する(291)。
 実の父が、自分が理想とする大人像とは異なることを認めると、ギャツビーが実家を飛び出したように、ホールデンも街へ出て、自分が目指すべき理想の大人像を探そうとする。教師や先輩のもとを訪ね歩き、兄DBについて思いを巡らせる。次々に理想の大人候補に会っては相手の悪い面を否定しながら、同時に彼らの良い面について思案し、自らの内へ包摂していく。
 これが、キャンベルが述べる英雄の旅の父親捜しにあたるだろう(G・詳細下記参照)。

 ちなみに、象徴的・精神的孤児による父親捜しのテーマは、「笑い男」でも似た書き方がされていて、サリンジャーが意識的だったのは間違いない(詳細は「笑い男」読解にて)。
 
 キャンベルは、神話の英雄が父親を捜すのには、自分のルーツを探る意味があるという。また、象徴的父親と対決し、父を殺すことは逆説的に父親と一体化することも示すのだという(G)。
 父親殺しのモチーフは、「お父さんに殺されちゃうんだから」(279・281)というフィービーのセリフにさりげなく示されている。これも何ということのない言葉だが、『キャッチャー』のもとになった短編「ぼくはちょっとおかしい」から使われており、サリンジャーはおそらくかなり意識的にこの言葉を選んで描きこんでいる。だからこそ、フィービーは三度以上しつこいほどこの言葉を繰り返す。
 いうまでもなく、オイディプス王をはじめ、神話において、父親殺しは普遍的なテーマ。少々分かりにくいのだが、戦闘場面を描かずして、戦争の真実を表現しようとする、父殺しを書かずして、父殺しを仄めかすのがサリンジャー作品の特徴のひとつ。『キャッチャー』でも、フィービーの「お父さんに殺されちゃうんだから」が父殺し、父との対決の表現だと思うのだ。
 
 短編「エズメ」には、「父たちと教師たちよ、『地獄とは何か?』と私は問う。私は思う、それは愛することができぬ苦しみだと」(173)という『カラマーゾフの兄弟』の言葉が引用されている。父殺しを描いた『カラマーゾフの兄弟』で、父と教師が並列にされているように、『キャッチャー』では、ホールデンが反抗する対象、フロイトが説明したような、人間社会のルールや秩序・規範・常識や価値観など、広い意味での〈法〉を押し付けてくる存在として、教師および学校が中心となって出てくる。その向こう側には、弁護士の父が扱う実際の法律や、知事に象徴される政治的権力が透けて見えるようになっている。
 ホールデンが最初に訪ねるスペンサー先生は、護符を与える賢者であるとともに、第一の父親候補としても登場しているといえるだろう。ホールデンはスペンサー先生に対し、尊敬や信頼、親しみと、苛立ちや憎しみ、年老いて弱った姿を見下すような思考など、相反する複雑な感情を抱く。ホールデンはここで、父親候補に投影された自らの弱さや醜さを否定=抹殺し、乗り越えつつ、学ぶべき点を自己のうちに吸収し、成長しようとしているのではないだろうか。

Q.19-2 アントリーニ先生とDBが似ているのはなぜか?

 後半で、アントリーニ先生は、ホールデンの父親と「ランチをご一緒したよ」「お父さんが君のことをずいぶん気にしておられた」(315)という。アントリーニ先生とホールデンの父親が直接的に結び付けられ、アントリーニ先生がホールデンの父親の代理でもあるのだと十分に示されたうえで、象徴的父と息子は向かい合い、対話をする。
 前半で、スペンサー先生に心の中で強く反発していたホールデンも、アントリーニ先生に対してはかなり心を開いている。
 アントリーニ先生は、「君が今はまりこんでいる落下は、ちょっと普通ではない種類の落下だと僕は思うんだ。恐ろしい種類の落下だと。」と述べ、深夜に訪ねてきたホールデンが緩やかに死に向かっていることを察知して、落下をくい止めようと言葉をつくす。ヴィルヘルム・シュテーケルの言葉を引用してホールデンに考えを改めさせようとする。その言葉も誠実なもので、〈語り手ホールデン〉は、そのメモを、数か月経った今も手もとに持っているのだと話す。「今夜は先生と奥さんに命を救ってもらったみたいなものです」(324)というホールデンの言葉は心からのものであり、アントリーニ先生が、ジェイムズ・キャッスルのみならず、ホールデンのこともキャッチしたといえるだろう。

 年齢の離れた配偶者と結婚しているアントリーニ先生は、ホールデンが反抗する社会規範もある程度超越した存在。だが、本作の中心テーマである、キャッチャーとしての資質を持つアントリーニ先生でさえも、完ぺきではない。アントリーニ先生は、休んでいたホールデンの額を触り、ホールデンは驚いてその場から逃げ出してしまう。アントリーニ先生の仕草は下記[13_天邪鬼と狂気]で示したとおり両義的に読めるように書かれている。


 上記で見たように、他人への評価は、結局自分がどう考えるかでいかようにも揺らぐもの。ここにあるのは、他人を批判せず、自分を磨くよう努力せよ、という極めて常識的な道徳観だ。(サリンジャー作品には基本的にこの思想があるのだが、『キャッチャー』では、ホールデンがインチキを批判しイノセンスを称揚する声が大きすぎて、これが伝わりにくい。だからこそ、「ズーイ」ではしつこいほどこのことが語り直されているようだ)
 ホールデンは、父親捜しとして、スペンサー先生、上記[13_天邪鬼と狂気]で見たカール・ルース、アントリーニ先生らを訪ね、相手のある部分には反発・否定し、別のある部分には憧れを抱く。そうして、これから大人になろうとする自分に必要ない部分を切り離し、これからの自分が身につけ、受け継いでいくべき資質を包摂して成長しようとする。これが父殺しと一体化、イニシエーション儀式になっているわけだ。
 
 ホールデンは、アントリーニ先生について、「知性というよりはむしろ機知が勝っているみたいな感じが見えてきて、そのへんはDBにいくぶん似ているかもしれない」と語り、アントリーニ先生夫妻は「DBの短編小説を全部読んでいて」(307)、アントリーニ先生のしゃべり方について「やっぱりときには神経にさわることだってあるじゃないか」「DBにもときとしてやりすぎる傾向はあるんだけどさ」(309)と、アントリーニ先生とDBを重ねていく。こうして、教師や先輩を経由したホールデンの父親捜しのゴールは、DBへとつながっていく。

Q.19-3 DBが姿を現さないのはなぜか?

 DBもまた、ジェーンやフェイス・キャヴェンディッシュらと同様、ホールデンの口から間接的に語られるだけで、直接は登場しない人物。また、DBだけが、去年のクリスマス前後の数日間ではなく、〈語り手ホールデン〉がいる現在、枠構造の外側に登場する点からも、DBは他の父親候補たちとは別格に位置付けられているといえるだろう。
 DBは第二次世界大戦で「Dデイに敵前上陸もした」(236)とあり、サリンジャーがDBに自分を重ねていることは先行研究で指摘されている(F)。村上春樹氏も、ホールデンに作者サリンジャーが重ねられているという前提で、「お兄さんのDBが、療養中のホールデンをサナトリウムに訪ねてきますよね。(中略)考えようによっては、彼はみずからを訪ねていっていることにもなる」そこには「分裂した人格の対話みたいなもの」「実体と影とのかかわりあい」のようなものがある(E_39-41)と語っている。
 ノイマンによれば、神話における象徴的父は、場合によっては、自分自身が作り出した心の中の敵や、自分を支配し動かそうとする社会規範の総体のようなものの投影(Q)。つまり、もう一人の自分。
 サリーの分身(影)であるジェーン、サニーの分身(影)であるフェイス・キャヴェンディッシュが直接登場しないのと同様(下記[17_誘惑する女]参照)、DBはホールデンの分身(影)だからこそ、間接的にしか語られないのだという読みも可能だ。

 父殺し、兄弟殺しは、神話、『聖書』、シェイクスピア、ドストエフスキーと、サリンジャーが参照している古典や作家たち共通のテーマ。サリンジャーも、初期作品「すぐに覚えます」「新兵に関する個人的な覚書」「最後の休暇の最後の日」「エスキモー」「笑い男」などでは、父と息子のテーマを中心に据えている。『キャッチャー』もその流れを受け継ぎつつ、象徴的父と息子の葛藤が、兄弟間の争いとも混ざり合いながら語られている。このあとに書かれるグラス家サーガでは、長兄シーモアが、ときには兄として、ときには象徴的父として弟妹たちの前に立ちはだかり、弟妹たちがシーモアをいかに乗り越え成長していくかが語られていくことになる(この続きはグラス家サーガ読解にて)。
 だから、『キャッチャー』におけるDBは、ホールデンの実兄であると同時に象徴的父として、つまりホールデンの理想/反理想の大人像、ホールデンに最も近いロールモデルとして現れたキャラクターといえるだろう。
 ホールデンは、DBが書いた『秘密の金魚』という短編集は「掛け値なしに最高の本だった」といいながら、今はハリウッドで「身売りみたいなことをしている」ことを憂い(6)、相反する感情を語る。DBは豊かな才能を持ちながら、今は社会的なルールや規範に縛られ、ある部分では屈している存在。それを否定的に見ているホールデンは、DBの真似をするのではなく、DBを乗り越え、ここから自分なりに大事だと思う価値観を守りながら、新しい大人像を構築していかなければならないのだ。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


■参考文献
E_『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』村上春樹 柴田元幸、文春新書、平成15年

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