17_誘惑する女_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。
英雄の旅【イニシエーション】3 誘惑する女
Q.17-1 ホールデンが娼婦たちを呼ぼうとするのはなぜか?
キャンベルは、英雄が成長の過程で、生命が持つ本能的な衝動、腐臭を放つ肉体の欲求を制御するという課題に直面する。それは、例えばオイディプスの母のように、誘惑する女として現れると述べる(G)。
『キャッチャー』において、「3 誘惑する女」は、二人の娼婦という形で表れる(111・160)。ホールデンが娼婦と関係を持つことさえままならずに終わるのは、イニシエーション物語として、彼が永遠の少年のまま象徴的に死んで凍結されること、大人になる前の段階にとどまることが重要だったからだろう。
ホールデンがデートをするサリーもまた、誘惑する女だ。ミーハーで俗っぽい趣味を持ち、ホールデンの学校や大人社会への反発には共感できないが、魅力的な顔立ちや、可愛らしいお尻で彼を誘惑し、結婚しようといわせる女の子(223)。
『キャッチャー』のもととなった短編「マディソン・マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」は、ホールデンとサリーの物語。同作はこの二人を豆の片割れ同士、男と女、聖と俗、子どもと大人、ホンネとタテマエの象徴として、その対話と一体化をテーマとして描いた作品だ。これを読むと、サリーがもともと、ホールデンを反転させたキャラクター、ホールデンの影として設定されていたことがよくわかる(詳細別途まとめる)。
「マディソン」でも、『キャッチャー』でも、ホールデンはサリーとデートをしながら、心の中でサリーの俗っぽさを批判するが、同時にサリーの可愛らしさという誘惑に抗えず、サリーに求婚する。英雄ホールデンは、ここでサリーに、誘惑する女ではなく、女神=聖杯としての役割を期待している、つまり、サリーと結婚出来れば、自分は統合された一粒の豆として、新しい芽を出すことができるのではと考えているわけだ。
しかし、良くいえば大人、悪くいえば俗っぽいサリーの資質は、ホールデンが期待するような女神としての役割を満たすものではなく、ホールデンの願いは果たされない。英雄ホールデンは誘惑する女という試練にあえなく屈し、しかし誘惑する女にさえ相手にされないまま、二人は決裂してしまう。
Q.17-2 サリーが黒い服を着ているのはなぜか?
キャンベルは、神話の女神像には、記憶の中の母親が持つ二つの顔、「良きもの」と「悪しきもの」が含まれている。この二つの側面、恐ろしい面と慈悲深い面を併せ持つ女神のイメージは、普遍的な宇宙の母、原初的な母の象徴として現れる。光と闇をつかさどる姉妹、イナンナとエレシュキガルは、善悪二つの側面を持った一人の女神を二人で合わせて表している例。二人の対決は、英雄に与えられる試練として、英雄が自分とは正反対のもの(思いもよらない自分自身)を発見し、それと融合することを象徴していると述べている(G)。
『キャッチャー』では、この二人が、サリーとジェーンという対であらわれる。「マディソン」にあったホールデンと、その影としてのサリーとのやり取りが活かされながら、新たにサリーの反転としてのジェーンというキャラクターが加えられている。サリーが直接登場するのに対し、ジェーンについてはホールデンの口から間接的にしか語られないことが、二人が光と影の対の存在であることを表しているだろう。
ホールデンは、サリーとデートをしながらジェーンのことを考え続け、ジェーンに電話をかけたいと思いながらサリーに電話をかける(254)。これも現実なら失礼な話だが、神話的な設定としてなら筋は通る。
デート中「彼女(サリー)は部屋の向こう側にいる一人の女の子を見ていた」(219)、という描写は、サリーの向かい側に対になる女の子、つまりジェーンがいることを仄めかしているし、サリーが「黒いコートを着て、黒いベレー帽みたいなのをかぶっていた」(209)という服装は、サリーがジェーンの影であるというようにも読める。
直接会える女の子と、電話の向こうの女の子、という構図は、実際に目の前に現れる娼婦サニー(160)と、電話で話すだけの娼婦フェイス・キャヴェンディッシュ(111)に重なる。
「Sunny」は太陽の光、対する「Faith Cavendish」のfaithは、信頼・信仰、あるいはface顔。Cavendishは煙草の一種だから、煙草の煙に隠れて見えない状態を想起させる名前で、二人の娼婦が光と影であることを象徴している。回転木馬のシーンでかかっている音楽『煙が目にしみる』(357)には、「who love are blind 恋は盲目」という歌詞があり、『ロミオとジュリエット』の〈恋は盲目=目隠しをしたキューピッドにハートを射抜かれたことによって狂気に陥った若い男女〉のテーマと重なる。恋に落ちること=狂気=カーニバル=英雄の冥界巡り=ホールデンがニューヨークを彷徨う三日間とは、煙で現実の世界が見えなくなる代わりに、彼岸の世界、普段は見えない隠された真実に目を開くこと。すなわち、サリーの向こう側にジェーンを、サニーの向こう側にフェイス・キャヴェンディッシュを見ること。
竹内氏は、ホールデンが娼婦に10ドル払い、尼さんに10ドル寄付していることから、二人の娼婦と二人の尼さんが聖俗の対比を読み取っている(C)。娼婦に5ドル払い、後から5ドル巻き上げられたという展開は、二人の娼婦と尼さんに対して5ドルずつ払っている、という分身関係の表現。尼さんと別れるときに、ホールデンが「煙をちょっと、相手の顔に間違って吹きかけてしまったんだ」(192)と書かれることも、このテーマに沿ったものだろう。
ちなみに、シェイクスピアの『ハムレット』で、ハムレットがオフィーリアを「尼寺へ行け」と突き放す場面は、当時、尼寺で売春が行われていたことから、「世を捨てろ」に加えて「売春婦にでもなれ」という意味にも読めるという(Wikipedia)。
ホールデンは、尼さんと『ロミオとジュリエット』について語り合うのは、「いささかばつの悪いことだった。ほら、つまりあの戯曲はところどころでけっこう性的な感じになるし」(188)という。この場面にはすでに、サリンジャーが聖俗の一致を描きこもうという意図が読み取れる。したがって、『キャッチャー』の娼婦と尼さんの対比が『ハムレット』の「尼寺へ行け」から着想された可能性も高いだろう。
俗っぽさとホールデンに求婚させるような美しさをあわせ持つサリーは、「バナナフィッシュ」において、シーモアを魅了する美しさと俗っぽさ、娼婦性をあわせ持つ究極の女神ミュリエルにも重なるキャラクターだ。このテーマについては改めて。
Q,17-3 ホールデンが矛盾した行動をとるのはなぜか?
ホールデンは、スペンサー先生に向かって、自分が落第するのは仕方がないと話しながら、「頭の中でぼんやりとぜんぜんべつのことを考えていた」セントラルパークにいた「アヒルたちはみんなどこに行くんだろう」(25)と読者に向かって告白する。そして、「世間で生き延びていくためには、心にもないことだってある程度は口にしなくちゃならないんだ」(150)と解説してみせる。ここには、声に出して話す内容と思考、タテマエとホンネの乖離の感覚がある。
さらに、ホールデンは、アックリーが明かりの前に立つのを嫌がった(39)あとに、自分も明かりの前に立ってストラドレイターに嫌がられる(56)など、言動と行動が明らかに矛盾した行動をとる。サニーとフェイス・キャヴェンディッシュの光と影を思わせるモチーフを使って、この矛盾を強調してみせている。
また、ニューヨークへ向かう電車の中で「ろくでもないパイプにしょっちゅう火をつけてやったりする」小説(93)を批判したすぐあとに、アーネスト・モロウの母親に会い、彼女の煙草に火をつけてあげる(97)場面は、ホールデンの矛盾した行動、心の中で思うホンネと、社交で見せるタテマエの乖離を描いたシーン。ホールデンが、同級生の母親に対して「歳は四十か四十五というところだけど、すごくきれいな人だったね。僕は女性には目がないだ」(94)とわざわざ添えるのは、作者がこの場面で、誘惑する女神との戦いと、未熟な若者の心の揺らぎという神話的な試練を重ねて描こうとしているからではないだろうか。
ホンネとタテマエは、子どもから大人へと成長していくときに、心の中で起こる最も基本的な精神分裂。本能の欲求に従って、我がままをいいたい放題だった子ども心は、成長するにつれて、社会の求めるルールに制御され、この乖離が大きくなっていく。
ある程度社会になじんで生活している人なら、誰もが持っているこのような精神的分裂と乖離の感覚が、『キャッチャー』ではホールデンの二項対立に揺れる心や、意識と無意識、最初と最後に登場する精神病院のような場所にいる〈語り手ホールデン〉と、ニューヨークの街を彷徨う何か月か前のホールデンという作品全体の枠構造にまで響き、幾層にも重なりながら語られていくのが本作のひとつの読みどころ。これが[Q.13-2 ホールデンがハムレットについて語るのはなぜか?]で示した、ハムレットとホールデンに共通する優柔不断な未熟者の表現と結びついている。
電車の中で会ったアーネスト・モロウの母親の手は「宝石だらけ」(96)で、雑誌『ヴォーグ』を読み、テニスを好む(102)。裕福で美しい女性の周りで宝石が煌めくイメージは、エリオット『荒地』の二章チェスゲームに出てくる上流階級の女性を思わせる。雑誌『ヴォーグ』やテニスという貧富や、勝敗を争うスポーツ、あるいはチェスの二項対立ゲームは、俗っぽい価値観に左右される未熟者の証。『ヴォーグ』やテニスは「エスキモー」でも語られたテーマだ。
『キャッチャー』で、ホールデンは、二人の尼さんに会ったとき、眼鏡をかけている方の尼さんについて、「列車の中で会ったアーネスト・モロウのお母さんのことをふと思い出してしまった」(190)と述べ、ホンネとタテマエ、貧富、勝敗のような二項対立の迷いを克服して、聖俗一致の境地を目指すべきだという思想をさりげなく描きこんでいる(これについては改めて)。
むろん、ホンネとタテマエのバランスを上手にとりながら生き抜いていくのが理想的な大人としての在り方だけれど、ときには無理をしてホンネを隠し、精神的な乖離の感覚が大きくなることだってある。『キャッチャー』は、そういうときに包帯となって読者の気持ちを包み込むようなものを目指して書かれた作品なのではないだろうか。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
