10_クジラの腹の中_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』考察
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。
英雄の旅【出立】4 クジラの腹の中
Q.10-1 ミイラの棺とは何か?
キャンベルは、境界を越えた英雄は、クジラの腹の中のような領域へ入り、いちど死に近い体験をしたのちに再生する。クジラの腹は英雄が一度象徴的に死に、より高次の存在へと生まれ変わるための、第二の子宮であると述べる(G)。
すぐに思い浮かぶのは、ピノキオやヨセフが巨大魚にのみこまれて脱出する物語や、赤ずきんが狼にのみこまれて生還する話などだ。また、繰り返しになるが、オシリスが二度にわたり弟セトに殺されながら、一度目は棺に閉じ込められていたところを妻イシスに救出され、二度目に八つ裂きにされたときには、妻イシスが包帯でつなぎ合わせたことによって蘇ったこと、イエスが磔刑にかけられて命を落とし、いちど埋葬されたのちに復活を遂げることも同様。オシリスの棺やミイラの包帯、イエスがおさめられた棺もまた、クジラの腹のひとつの表れである。
『キャッチャー』に描かれたオシリス神話のモチーフについては後述するが、ここでは、ホールデンが物語終盤に赴く自然史博物館のミイラの展示室が、本作における英雄の旅の「4クジラの腹の中」にあたることを押さえておきたい。この墓所からホールデンは洗面所へ移動し、そこで気を失う(346)。これがキャンベルの言う、英雄の死と重なる。
また、ホールデンが訪ね歩くスペンサー先生の自宅の部屋、「ぼくは一時間くらいバスルームの中にいた」と語られるホテルの浴槽(178)、フィービーが眠る兄DBの部屋、アントリーニ先生の家の部屋およびカウチもまた、クジラの腹のバリエーション。ポール・オースターが、子宮(wombウーム)部屋(roomルーム)墓所(tombトゥーム)と韻を踏んで言及したイメージ(『孤独の発明』新潮文庫)。サリンジャー作品でも、「ズーイ」や「大工よ」などで繰り返し描かれていくモチーフだ。
これらは、Q.18-19で読解した賢者が授ける毛布やコートにもつながっている。すなわち、英雄の傷を癒し、再生へと導く〈聖杯〉のひとつの表現でもある。キリスト教の異端派信仰では、マグダラのマリアが聖杯と結び付けられている(『マグダラのマリアと聖杯』マーガレット・スターバード、和泉裕子訳、英知出版、2005年、『レンヌ=ル=シャトーの謎 イエスの血脈と聖杯伝説』マイケル・ペイジェント、リチャード・リー、ヘンリーリンカーン、林和彦訳、柏書房、1997年)が、これはイエスが磔刑の後復活したときに、マグダラのマリアがそばにいたことともつながる。聖母マリアが赤ん坊のイエスを生んだ母なら、マグダラのマリアは一度死んだイエスが生まれなおす際に力を貸した第二の母なのだ。
オシリス=ミイラを包んだイシスの包帯、イエスが復活した際にそばにいるマグダラのマリアはさらに、ラザロが復活した際に身体にまとっていた布、フィービーが最後に回転木馬の場面で纏う青いコート=聖母マリアが纏う青いコートを経由して、錬金術師が使うフラスコ、ユングのコンテイナー、精神分析のカウチにもつながるのだが、これについては改めて。
Q.10-2 ホールデンが死について考え続けるのはなぜか?
キャンベルによれば、神話の英雄は、一度、死に近い体験をくぐりぬけたのちにこそ再生するという(G)。ヨハネ伝第十二章二十四節には、「一粒の麦地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし」とある。春に植物が芽吹くためには、冬に一度枯れ果てなければならないというのが、豊穣神話の基本的な考え方。
神話の英雄は、次の実りのために、いけにえにならなければならない。より高次の存在へと生まれ変わるために、象徴的・精神的にいちど死ななければならない。イニシエーション儀式において、未熟な若者は、大人へと成長するために、傷つき血を流さなくてはならない。
『キャッチャー』には、「killed me まいったよ」「drop dead くたばれ」「shoot bull 嘘をつく、撃ち殺す」「commit suicide 死にたくなっちゃったよ」など、死を連想させる言葉が何度も出てくる。
ホールデンはストラドレイターにハーフネルソンをかけて、「その気になれば窒息しさせることもできる choke him to death」(55)と述べ、ジェーンとデートすると聞かされて、「僕はもうちょっとでほんとに死んでしまうところだった I nearly dropped dead」(56)という。デートから戻って来たストラドレイターと殴り合いのけんかになり、床に倒される(80)。ニューヨークへ行ってからも、娼婦を斡旋したエレベーターボーイに殴られて床に倒される(176)。
竹内康浩氏が指摘している通り、ホールデンはジェームズ・キャッスルと服を交換することで一体化する。ジェームズ・キャッスルにタートルネックのセーターを貸してもらえないかな、といわれたとき、ホールデンは「あやうく息を引き取ってしまうところだったよ」(289)ということで、死のイメージが強調され、その後、ジェームズ・キャッスルがホールデンの服を着たまま本当に自殺してしまうことで、ホールデンも同時に象徴的に死んでいる(C)。
二日目の深夜には、セントラルパークで凍えそうになりながら、「僕は不安になってきた。このまま肺炎になって死んじまうんじゃないだろうか。僕の葬式にろうくでもないやつらが何百万人も押し寄せてくる光景が頭に浮かんできた」(261)という。
さらに、アントリーニ先生宅を逃げ出した翌朝、駅の待合室でホールデンは雑誌記事を読んで、「自分は癌に冒されているんだと考え始めた。(中略)余命せいぜいあと二カ月というところだろう。僕は真剣にそう思った。疑いの余地はないとさえ思ったんだよ」(332)とさらに自分が死ぬイメージを重ねる。
「僕にはもうこの通りの向こう側まで渡り切ることができないんじゃないかっていう気がしたんだよ。ただどんどん沈んでいって、僕の姿はそのまま誰の目にも見えなくなっちまうんだってね。(中略)僕はもう正気じゃないみたいに汗をかき始めた。シャツとか下着とか、なにしろぐしょぐしょだった。(中略)「アリー、僕を消したりしないでくれ。頼むぜ、アリー」」(335)というところまで追いつめられて、博物館の墓所に一人取り残され、自分が墓場に埋められたところを想像し、洗面所へ行って気を失う(345)。この場面がホールデンの象徴的な死といえるだろう。
『キャッチャー』は、表面的にはホールデンの甘ったれた中二病的な語り口が際立っているためわかりにくいが、深層ではホールデンが緩やかに真剣に死に向かっていく、雪の降りしきる極寒のニューヨークを凍えそうになりながら彷徨う青年の、緩慢な自殺の物語として読むこともできる作品だ。
物語の後半で、アントリーニ先生は、ホールデンの死を本気で心配しているし、『キャッチャー』のもととなった短編「ぼくはちょっとおかしい」では、ホールデンは自分にさよならをいい続けている(21)。
本当は死にたくないくせに死ぬ死ぬと繰り返すホールデンの口調に幼稚なところがあるのは確かだが、深層では、死にたいほど追い詰められたとき、それでも厳しい現実のなかで生き抜き、成長していくために、例えば物語の中で、あるいは毎晩の眠りの中で、象徴的・精神的に小さく死んで蘇るという神話の教えが示されてもいる。ホールデンはより多くの実りを願って大地に還る一粒の麦として、読者の再生を促すためのいけにえとして、死を語るのではないだろうか。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
