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11_最初の試練・豆_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解

こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。

英雄の旅【イニシエーション】1 試練の道

Q.11 ピーナッツの殻に足をとられているのは誰か?

 ピーナッツや豆が、豊饒神話の種となる重要なモチーフであることはQ.1で確認した通り。サリンジャーは、デビュー作「若者たち」からピーナッツを描きこんでおり、この頃から豊饒神話を題材としようしていたことが分かる(続きは「若者たち」読解にて)。
 今回は、豆に込められた意味を、別の角度から検証してみたい。
 
 キャンベルは、英雄が経験する試練の例として、ギリシャ神話のプシュケが恋人キューピッドを探す場面を挙げている。「息子のキューピッドを花嫁から隠そうとする嫉妬に燃えた母親ヴィーナス」は、プシュケに「小麦、大麦、キビ、けし粒、えんどう豆、平豆、インゲン豆を大量に持ってきて、それを全部混ぜ合わせて山にし、夜までにえり分けるよう命じた」(Q)というのが試練の内容。
 これは、楽園にいたアダムとエヴァが知恵の実を食べること、赤ん坊が言葉や知識を覚えることと重ねて考えられる。豆や種の種類や姿かたち、名前を覚え、それをより分けられるようになることは、AとBの違いを知り、選ぶのを楽しめるようになること、同時に、常にAかBかと迷い揺らぐ心を手に入れること。つまり、AとBに、心が分裂すること。自分=Iとあなた=Youの分裂、実像と鏡像の分裂(もちろんシーモア・グラスのテーマ、続きはグラス家サーガ読解にて)、意識と無意識の分裂、さまざまなレベルでの分裂を経て、善悪、男女、聖俗といった区別を覚えながら人は成長する。それは、何も知らない赤ん坊が、楽園から追放されること、落下すること、母体から引き離されて、自分の足で歩くよう促されること。
 選ぶ楽しさよりも、迷う苦しさが勝るとき、自分の足で立ち歩く喜びよりも、おぼつかない足元の不安が大きくなるとき、東洋西洋含め、多くの神話は、AかBかで迷う心を捨てて無識別の境地へ至ることを目指すようになる。二項対立で迷い揺らぐ心を統合することが、精神的な豊饒への道だという教え。
 東洋西洋その他の文化圏にかかわらず、よほどのサトリを得て、一切の物事の区別に頓着しない境地に達した聖者、あるいは人間界の言葉や知識を知らずに森の奥で獣たちと暮らしている野性的な人(がいたとして)以外は、基本的に誰もが、毎日、毎分、毎秒、ピーナッツの殻に足をとられ続けているのだということもできるだろう。(サリンジャーってスフィンクスおじさんなんですよね。なぞなぞを出すだけじゃなく、読者の中にいるオイディプスを目覚めさせる)
 
 キャンベルは、仏教において、「イニシエーションを受ける者は最初の冒険で男と女は『豆を二つに割った片割れ同士』だと知る」(G)と述べている。二つに割れる〈豆〉は、東洋でも西洋でも、男女の婚姻や子孫繁栄の象徴でもあるのだろう。
 二つに割れた豆は、精神であれ、男女であれ、統合されてこそ芽吹くことができる。それが、東西の神話で究極の目的として語られるテーマ。
 
 シェイクスピアは『テンペスト』の冒頭、嵐により船が沈没する場面で「真っ二つだ」と五回繰り返し、「この船が胡桃の殻よりもろく」(12-13)と、二つに割れる木の実のイメージを重ねる。これは、オシリス神話のオシリスとセトの争いを思わせる、プロスペローとアントーニオの争いにより、兄弟が離れ離れになることの象徴。そして同作後半の劇中劇で、豊穣の女神シーリーズは、「あなたの豊かな田畑には/大麦、小麦、カラス麦、ライ麦、ソラマメ、エンドウ。/草萌える丘陵には、牧草をはむ羊の群れ……」(121)と語る。
 弟の陰謀により兄が島流しとなり、兄弟が離れ離れになったこと、兄弟が胡桃のように割れて真っ二つになったことが国土を荒廃させ、兄が弟を赦して再び国へ戻り、割れた種が統合されたとき、大地=精神は豊かさを取り戻すのだ。
 また、『お気に召すまま』では、恋人ロザリンドとの約束に遅れてやって来たオーランドーについて「恋の真心となると空っぽだわ、蓋のしてある杯か虫に食われた胡桃と同じ」(松岡和子訳、ちくま文庫_124)と記されており、これの前には、「麦畑/春たけなわ、ものみな番うとき(中略)ライ麦畑のあぜ道に」(180)という祝婚歌が記されている。虫に食われた胡桃=空の聖杯(この話の直前にユダの裏切り、イエスの受難につながるモチーフへの言及があることから、ここでの「杯」は聖杯と読んでもよいだろう)は大地の荒廃を招き、番=豆の片割れ同士の婚姻は、春に新芽が芽吹く喜びと豊饒のライ麦畑につながることが示されている。
 『キャッチャー』構想の際、サリンジャーはこれらの作品からも影響を受けた可能性が高いのではないだろうか。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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