15_落ちる落ちる落ちる_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。
英雄の旅【イニシエーション】1試練の道
Q.15 ホールデンが落下し続けるのはなぜか?
『キャッチャー』では、〈落下〉が繰り返し描かれていることは07で述べた。
ホールデンがニューヨークへ移動した後も、ライ麦畑の崖から落ちそうになる子供、落として割ってしまうレコード、レコードの中で歌われている女の子の階段からの落下、ジェームズ・キャッスルの投身自殺という形で、落下のイメージが繰り返される(C)。
物語終盤、二日目の夜、深夜のセントラルパークで「もうちょっとで池の中に墜ちてしまうところだった」(261)というのは、自分の無意識のさらなる深淵へもぐりこみたいという思いの現れであり、それはグレートマザーに還りたい永遠の少年の弱さであり、英雄の象徴的な希死感情のようなものへもつながっている。
アントリーニ先生はホールデンに、「君が今はまりこんでいる落下は、ちょっと普通ではない種類の落下だと僕は思うんだ。恐ろしい種類の落下だと。落ちていく人は、自分が底を打つのを感じることも、その音を聞くことも許されない。ただただ落ち続けるだけなんだ。」(318)と言い、アントリーニ先生宅を飛び出した後、ホールデンは「こんなに落ち込んだことはないというくらい、真剣に落ち込んでいた」(330)「気持ちはますます深く落ち込んでいった」「ますます落ち込んで」(331)「僕の気分は逆に落ち込んでしまった」(332)と繰り返し、「もうこの通りを向こう側まで渡り切ることができないんじゃないかっていう気がしたんだよ。ただどんどん沈んでいって(I’d just go down, down, down)、僕の姿はそのまま誰の目にも見えなくなっちまうんだ」(335)とさらに強く下降する感覚に襲われ、自然史博物館の洗面所で気を失う。
ノイマンは、神話における英雄の死は墜落として描かれることが多く、それは、退行の道であり、意識・認識の光・眼が失われることだと述べている(Q)。
ノイマンのいうとおり、ホールデンは落下を繰り返しながら精神的に徐々に退行し、アックリーの前では帽子を目の下までおろして目が見えないとふざけて見せ、フィービーが眠るDBの部屋で真っ暗闇を彷徨うなどしながら、博物館の洗面所で意識を失い、生まれる前の段階にまで、時間的には短くても、象徴的・精神的に戻ったと読める。神話において、英雄が象徴的に死ぬことは、生まれる前の段階まで退行することともいえるだろう。
ホールデンがいう「I’d just go down, down, down」は、『荒地』の「ロンドン橋が落ちる、落ちる、落ちる London Bridge is falling down falling down falling down」とも重なる。このテーマについては「バナナフィッシュ」読解参照。
キャンベルは、英雄の旅を、下記のような円環構造として説明している(G)。

ホールデンの落下=ノイマンが説明する墜落は、キャンベルが示す円環構造に沿っており、物語の中で何度も落下を繰り返しながら、自然史博物館の洗面所で気を失うシーンでその最底辺に達する。
竹内氏も説明しているとおり、洗面所は浄化の象徴(C)(詳細後述)。このあと、「そいつは不思議な感じだったな。いちど気を失っちゃうとさ、なんかすっと気分がよくなったんだよ。」(345)と、ホールデンは、帰還へ向けて円環を一気に上昇していく。
「バナナフィッシュ」では、「今世紀唯一の大詩人」(14)としてリルケが示唆され、リルケの詩からのモチーフの引用が複数あるが、下記はリルケの一節。『キャッチャー』を書くとき、サリンジャーがこれを読んでいたことも、ほぼ間違いないだろう。
われわれはみんな落ちる この手も落ちる
ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ
けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある
永遠の少年とは、急上昇して、そこから落下する者。だから、落下する自分をキャッチしてくれる救世主の手を求める(詳しくは「バナナフィッシュ」読解にて)。
少々長くなったが、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解マガジンの11から15までを英雄の旅の「イニシエーション_1 試練の道」の解釈としたい。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
