04_狂気の人撃ち帽_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』解釈
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
Q.04-1 ホールデンがクレイジーな帽子をかぶっているのはなぜか?
『ロミオとジュリエット』において、ロミオの〈恋〉は、〈狂気madness 〉と表現される。正気に対する狂気は、日常に対する非日常。バフチンが述べるカーニバルとは、日常生活に対して街が祝祭に包まれる非日常期間のこと。ゆえに、狂気とカーニバルもイコール。『ロミオとジュリエット』では、ジュリエットが仮死状態で埋葬されるなど、二人の恋がイエスの受難とも結び付けられている。すなわち、狂気=カーニバル=豊饒祭祀=イエスの受難=イニシエーション儀式。サリンジャーはこれを踏まえて短編「僕はちょっとおかしい I’m Crazy」を書き、後に『キャッチャー』へ発展させた。
そもそも、『キャッチャー』はイエスの降誕を祝うクリスマス前後の、土・日・月、三日間の物語。これがイエスの磔刑から復活までの三日間と一致するのも、しばしば指摘されること。また、クリスマスは、サトゥルヌス祭という古代ローマの豊饒祭祀が起源だともいわれる。ホールデンがさまよう年末のニューヨークの街は、一種の祝祭空間=カーニバルの場。ここを彷徨うホールデンもまた、一種の狂気=I’m Crazyな精神状態にある。短編のタイトル「I’m Crazy ぼくは頭がいかれてるんだ」(211)は『キャッチャー』ではサリーに会ったときにさりげなく記される。アーネスト・モロウの母親について「僕は女性に目がないんだ」(94)と年上の友人の母親に対して魅力を感じていることを仄めかしながら、「脳にちょっとした腫瘍みたいなのができている」(101)と嘘をつくのもこのためだろう。ロミオ同様、美しいガールフレンドや女性に夢中になることが、狂気と重ねられている。これが、〈クレイジーなハンティング帽 crazy hunting hat〉(348)と結びつき、これをかぶっているとき、ホールデンが狂気の状態にあることが示されているわけだ。
狂気は頭、すなわちブレインの問題。シェイクスピアは、『リア王』でリアが狂気に陥ったとき、薬効があるといわれる薬草で冠をつくって頭に戴くこと(180)。『リチャード二世』で、「こめかみをぐるりと囲む虚ろな王冠のなか」で王のうぬぼれ=狂気が「いい気になって膨れ上がる」(114)と語られる。サリンジャーはこれを受けて、「逆さまの森」の最後に、レイモンドの狂気を「ブレインだよ」という言葉で語り、「バナナフィッシュ」でシーモアに、こめかみへ弾丸を撃ち込ませる(続きは各作品読解参照)。
さらに、「I’m Crazy」「The Inverted Forest 逆さまの森」というタイトルが示す通り、サリンジャー作品において、狂気に陥っていることは倒錯していること。反転した鏡像を見ていること。だから、崖から落ちそうな子どもたちをキャッチする人になりたいと望み、逆に自分がキャッチされたいと望みながら、銃で撃たれたふりをするホールデンはここで、狂気の象徴である赤いハンティング帽について「人間撃ち帽なんだ」(42)と反対のことをいう。
竹内氏は、フィービーがホールデンに赤いハンティング帽をかぶらせる場面(358)に戴冠の儀式を読み取っている(C)。バフチンは「カーニバル劇の主流は、カーニバルの王のおどけた戴冠とそれに続く奪冠である。」(X)と述べている。カーニバル=道化祭り(ホールデンの道化性については後述)では、はじめに道化が自分の頭に冠をのせ、偽の王を名乗ることで、日常空間、広場や街がカーニバル化した非日常空間へと変わり、居合わせる人々はみな、道化芝居の登場人物となる。カーニバルの最後は、偽の王、道化の頭から冠が奪われ、本来の王へと返されることで、カーニバルが終わり、人々は日常に戻る。
物語のはじめに、ホールデンが自分で赤いハンティング帽をかぶる場面は偽の王の戴冠であり、ここからカーニバル=英雄の旅=ホールデンの狂気がはじまる。物語の後半、ホールデンは一度、偽の王の座をフィービーに譲る。そして改めて、フィービーから冠を被せてもらう。
この意味は両義的だ。フィービーへの思いやりから家出を思いとどまった点にホールデンの成長を認め、一度脱いだ偽の冠を、今度は本物の冠としてキャッチャーの資格を持つ者=大人へと成長した者として戴く、と読める。これで、ホールデンの狂気は終わり、日常へと戻るわけだ。同時に、依然として赤い帽子であることに注目するなら、ホールデンはまだ成長の途上にあり、これから大雨による象徴的な水死と浄化を通り抜け、病院での療養を経なければ、再生できない。これから待ち受ける試練への護符としての冠でもあるのかもしれない。
Q.04-2 ホールデンの精神を荒廃させるものとは何か?
ゴルゴタの丘で磔刑にかけられたイエス・キリストは、午後の三時に息を引き取ったとされている。
『キャッチャー』の「その日の午後三時くらいに、僕(ホールデン)ははるかトムセン・ヒルのてっぺんにある、独立戦争の時に使われたっていうクレイジーな大砲のわきに立っていた。」(7)という記述が、それになぞらえられているであろうことも、有名な話だ。
この後も、「どんな手続きを踏んだら修道院に入れるんだ?」(88)、(感嘆詞として)「ジーザス・クライスト」(193)「イエスがほんとうに気に入るのは、きっとそこのオーケストラでティンパニーを叩いているひとなんだよ」(232)など、キリスト教や『聖書』にまつわる言及が複数見られることも、周知の事実であろう。
イエスの受難の原因は、イエスを信じる者とパリサイ人との対立。これは、さまざまな二項対立にまどわされて右往左往する人々の象徴である。
イエスは人々の原罪を贖うために磔刑にかけられたともいわれるが、原罪とはさかのぼれば、アダムとエヴァが知恵の実を食べたこと。知恵を得るとは、生死、善悪、男女、貧富、聖俗といった、物事の区別がつけられるようになること。物事を知ること、AとBの違いが分かるようになることは、常にAとBどちらにするべきかという迷いを抱え込むことだ。AかBかで迷うことは、知恵を持つ人間だけが持つ、生きる楽しみでもあるのだが、同時にそれは精神を荒廃させる原因にもなる。
サリンジャー研究の第一人者、ウォーレン・フレンチが指摘して以来、サリンジャー作品には、〈nice 素敵な〉と〈phony インチキな〉に代表される二項対立とその一致が描かれているといわれてきた。『キャッチャー』にも、生と死、男と女、聖と俗、暑さと寒さなど、いくつもの二項対立が見られる(詳細後述)。
サリンジャーが影響を受けていると思われる(詳細後述)神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、神話において、私たちが生きている現世(此岸)は二項対立の世界として現れると述べている(G)。二項対立の中で揺らぎ、迷う心が精神の荒廃を招く、狂気へ導く、クレイジーにするという考え方もまた、神話から続く文学の伝統的テーマ。
『ハムレット』の「to be or not to be」をはじめ、サリンジャー作品にも引用の多いシェイクスピア作品にも、登場人物たちが二項対立に迷う姿が何度も描かれている。
例えば、『ロミオとジュリエット』は、モンタギューとキャピュレット、二つの名家の間で揺れ動く若い恋人たちの物語。ロミオとジュリエットは、両親から受け継ぐ旧来の価値観と、若者としての恋心のどちらを優先すべきかで揺れまどい、悲劇へ至る。オセロゲームの名前の由来といわれる『オセロー』では白と黒に象徴される、夫の妻への純潔を信じたい気持ちと不貞の疑い・嫉妬、深い愛と憎しみの揺らぎが悲劇の原因となる。
『キャッチャー』1章では、この二項対立は、「(丘の上)からは、競技場全体を見渡すことができた。いたるところで二つのチームがぶつかりあっていた。」(7)というペンシー対サクソンホール校のフットボールの試合として描かれる。ホールデンは自分の学校を応援しようとはせず、中立の立場を象徴する丘の上から試合を見下ろす。「大砲のわき」という記述は、この二項対立の戦いを戦争に重ねたものだろう。
このテーマは、2章、スペンサー先生宅で語られる「人生はゲームだ」という思想にホールデンが強く反発する場面(17)や、「僕らはポールのまったく逆の側にいる」(29)という相反と乖離の感覚へ、さらには、シーモア・グラスという名前のとおり、実像と鏡像、正気と狂気というグラス家サーガにおける精神分裂のテーマへとつながっていく。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
■参考文献
G_『千の顔を持つ英雄』ジョーゼフ・キャンベル、ハヤカワ・ノンフィクション文庫
