05_二項対立から三位一体へ_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
Q.05 フットボールの思い出が別れの実感を湧かせるのはなぜか?
前回、二項対立が精神を荒廃させる原因だと述べた。では、二つのものごとの間で迷い、荒廃した精神を救済してくれるものは何なのか。
磔刑にかけられたイエスが復活したのは、神・イエス・精霊の三位一体から成る特別な存在だから。
三つ目の要素によって、善悪といった相反する二極を結びつけ、三位一体となること。あるいは、善悪といった物事を識別する知恵を捨て、無識別の境地へ至ること。それこそが救済の道であるという思想。
キリスト教では、知恵の実を食べる前の楽園へ戻ること。仏教では、これは解脱や悟りの境地にあたるのだろうか。サリンジャーは、西洋・東洋の宗教神話や文学作品などに共通の思想を見出し、作品へ描きこんでいるようだ。
フェンシングとフットボールの二項対立ゲームを否定したあとで、ホールデンは、以下のようなペンシーの思い出を語る。
十月に僕とロバート・ティチナ―とポール・キャンベルの三人が、後者の前でフットボールの投げっこをしていたときの情景だった。二人とも、とくにティチナーの方は、いいやつなんだ。夕食時間のちょっと前で、あたりはもうかなり暗くなっていた。(中略)生物教師のミスタ・ザンベジが校舎の窓から顔を出して、おい君たち、そろそろ夕食の時間だから寮に戻りなさいと言ったからだ。そういうことさえすらっと思い出せれば、必要に応じて別れの実感が湧くものなんだよ。
「十月」は作物を収穫し、豊穣を祝う季節。植物や豊饒の神は秋から冬に死に、春に再生する。夕暮は、昼と夜が混ざり合う時間、二つの相反する要素が溶けあって一つになることを象徴するひととき。サリンジャーは「序章」でも、夕暮れを彼岸と此岸が混ざり合う時間として描いているし、それは前述の『荒地』において夕方が「すみれ色の時刻」として、人々が家路につくひととき、つまり離れ離れになっていた夫と妻が再び出会う時刻として描かれていることや、『ロミオとジュリエット』が夜明け(夕暮れの反対)とともに幕を閉じること、『マクベス』で「三人の」魔女たちが会うのが「日暮れ前」(9)であること、「三人」の暗殺者が会うとき「西の空では昼の名残りが縞模様となっておぼろに光っている」(91)こととも呼応する。
サリンジャーは、同じフットボールを使いながら、二項対立のゲームを否定し、夕暮れのひとときに「三人で」ボールを投げあった思い出を美しいものとして示すことで、迷いに満ちた二項対立のゲームから抜け出し、三位一体の精神的な安定へ至るという思想を描いている。
また、ジョーゼフ・キャンベルは、神話において、現世(此岸)が二項対立の世界として、描かれるのに対し、冥界(彼岸・神々の世界)は、善悪といったあらゆる価値観が混ざり合う、混沌とした無識別の一元世界として表現されると述べている(G)。
二項対立に満ちた現世は、肉体に縛られ、あらゆる生物が一秒ごとに老いて寿命が来れば死ぬ、一般的な時間が流れる世界。対する三位一体・無識別の混沌世界は、知恵の実以前の彼岸、楽園、肉体に縛られない、あらゆる一瞬が永遠でもあるような、神話的世界観である。(そんな世界が本当にあるかどうかは別として、そういう世界を語ることが、太古から切実に必要とされてきた、それが神話や文学の役割のひとつだったということ)
だからこそ、夕暮れの彼岸と此岸が混ざり合う時間にいたホールデンたちを、現実へと引き戻すのは「生物教師」。彼岸の一元世界へ行っている三人を、此岸へ呼び戻すことができるのは、時間制限のある肉体を持つ生物に詳しい現世の指導者。サリンジャーの初期短編「最後の休暇」(これも『荒地』の影響がみられる作品、詳細は同作品読解でまとめる)も、神話の世界に逃げ込もうとする主人公ベイブを、戦争のある現実に引き戻すのは、大学で「生物学」を教えている父親である(53)。
生物教師のミスタ・ザンベジという名前は、アフリカのザンベジ川を思わせる。オシリス神話はナイル川の物語であり、神話の世界にいるホールデンたちと、現実の世界、別の川にいる生物教師を対比させているのかもしれない。
また、ボールを投げ合うことは、互いに「キャッチ」しあうこと、相手を救うことで自分も救われる、互いが互いの聖杯になるという本作のテーマに通じる。
さらに、キリスト教の三位一体を表す絵画で、神は「神の右手」で表現される。『キャッチャー』において、ホールデンが、右手のこぶしを強く握ることができない(77)と書かれるのは、ひとつには、キャッチする=されることを求めながら、彼にその能力がないことを示すためだ。
このように、『キャッチャー』の1章には、イエスの受難の物語、二項対立の揺らぎと精神的荒廃がもたらす死から、三位一体を経て再生を予感させる部分までを重ねて読むことができる。さらに、2章では、スペンサー先生宅でエジプトのミイラについて語ることで、イエスの受難の起源であるオシリス神話までさかのぼっていく。
「ぼくはちょっとおかしい」では、この後、再生の予感がノアの箱舟神話で吉兆を知らせるオリーブに託して、もう少し明確に表されているのだが、『キャッチャー』では、その要素は後半にまわされ、別の書き方になっている(後述)。
それも含め、3章以降、ホールデンは本格的な聖杯探究の旅、神話的な英雄の旅へと導かれていく。1・2章はその予告のようにもなっている。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
