03_NYの広告マンとは?_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』解説
Q. NYの広告マンがホテルの電話を独占しているのはなぜか?
「バナナフィッシュにうってつけの日」はこんな文章ではじまります。
ホテルにはニューヨークの広告マンが九十七人も泊まり込んでいて、長距離電話は彼らが独占したような恰好
小説の出だしといえば、読者を作品世界へと引き込む、大切な一文。ですが「バナナフィッシュ」の最初の一文って、いったい何を言いたいのか、いまいちわかりにくいと思いませんか? 今回はこの文章について考察したいと思います。
本稿の解釈はこう。
A. シーモアが鏡の世界にいることの表現。
以下に理由を述べます。
J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
1 名前のない男
サリンジャー研究者の竹内康浩氏は、本作の後半で、主人公が一度も名前で呼ばれることはなく、「young man 若い男」としか記されていないことを指摘しています。「Seymour」という綴りは、後から付け加えられた前半でのみ、彼の名前として登場します。後半では、シビルによる「see more glass? もっと鏡を見る?」という問いかけとして、音は同じだけれど、意味と綴りの異なる言葉として、繰り返されているだけなんですね(B)。
サリンジャー作品では、名前や登場人物たちが名のる偽名にも、一つひとつ意味が込められています。だから、もともとはそれだけで完成とされていた後半で、シーモアが「若い男」とだけ呼ばれているとしたら、サリンジャーは当初、あえて彼を名前のない男として設定したと考えるのが自然です。
『キャッチャー』で、ホールデンが、現実にいながら異世界的なパラレルワールド(ニューヨーク)へ移動し、冥界めぐりをする際に名前を変えたことは下記で示しました。『ナイン・ストーリーズ』収録の「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」や「エズメに捧ぐ」にも同様の表現が見られます。
だから、「バナナフィッシュ」のシーモアも同じように、異世界へ入り込んだことで、名前を失って「若い男」になっているのではないか、というのが本稿の読みです。
では、シーモアのいる異世界とはどこか。それは、〈glass 鏡〉の世界のことではないでしょうか。名前の欠如は、彼が現実には存在していないこと、虚像=鏡像であることを示しているのではないでしょうか。
2 鏡の中の男
シーモア・グラスという名前の男が主人公であるにもかかわらず、「バナナフィッシュ」の作中に、シーモアや他の誰かが鏡を見る場面は一度も出てきません。巫女シビルが、鏡を見たか、と繰り返しているだけ。水際にはいるものの、ナルキッソスが見た泉とは違い、シーモアがいるのは海辺。そこに彼の姿は映りません。
巫女が「more もっと」といっているということは、若い男=シーモアはこの時点で既に鏡を見た後、あるいは、鏡を見ずして鏡を見ている状態だということ。もともと現代版ナルキッソスとして構想した「若い男」の物語に前半を付け加え、名前を与えることになった際に、巫女の神託「シー・モア・グラス」をそのまま彼の名前としたというのが私の推測です。
では、鏡を見ずして鏡を見ている状態とは何か。それは、水に映った自分の鏡像に心を奪われて動けなくなってしまったナルキッソスと同じ状態。現実の世界の物事をまっすぐ見つめて、事実を正しく認識する能力・理性を失い、虚構の世界に入り込んでしまっている精神状態のこと。
作中、シーモアはシビルの黄色い水着を青と見間違えます。これは、シーモアが現実の世界の色彩を見分ける能力を失いつつあることの表現。それは、彼がすでに現実世界から、虚構の世界へと移行しようとしていること、此岸を離れ、彼岸に引き寄せられつつあることを意味すると思うのです。
実像を見失って鏡像しか見えなくなったナルキッソスとは、正気を失って狂気にのっとられた者。これは、前半でミュリエルの母が、「シーモアは完全に自制力を失ってしまう可能性がある」(15)という表現とも符合します。
3 マディソン・アヴェニュー
前半でミュリエルは、ホテルのバーで知り合った人に、夫シーモアについて「マディソン街にお店を出してる」「婦人帽のお店」の親戚ではないか(18)と尋ねられたと電話で話します(18)。サリンジャー作品において、〈帽子〉が狂気にとらわれているしるしであることは、下記で述べた通り。
『キャッチャー』のもととなった初期短編には、「ぼくはちょっとおかしい I’m Crazy」というタイトルの作品があります。これは『キャッチャー』のなかでホールデンが赤い〈クレイジーなハンティング帽 crazy hunting hat〉(348)を被っていることとも結びつきます。
また、『キャッチャー』のもととなったもうひとつの短編のタイトルは、「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗 Slight Rebellion Off Madison」。ニューヨーク育ちのサリンジャーが、作家活動の初期から、マディソン・アヴェニューという通りの名を短編のタイトルに使うほど意識していたことは間違いありません。
マディソン・アヴェニューは、1920年代から広告産業の代名詞として使われており、富裕層を対象とした高級ブランド店が立ち並ぶ通りでもあるそうです(Wikipedia)。この短編が書かれたのは戦前の1941年(戦争が激化したため雑誌掲載は1946年まで伸びた)。
『キャッチャー』と、そのもとになった二つの短編は、ホールデンがある種の狂気にとらわれている様を描く物語であり、ホールデンがかぶっている帽子はその象徴(詳細は『キャッチャー』読解にて)。サリンジャー作品において、帽子、マディソン・アヴェニュー、その街から生みだされる広告産業のイメージは、〈狂気crazy〉状態にあることと結びついている。
「バナナフィッシュ」のシーモアもまた、どうやら同じ狂気にとりつかれている。シビルに「もっと鏡を見た?」と問われて、母親が「もう気が狂いそうよ absolutely crazy」(21)と答えるのは、鏡を見ることがナルキッソスのような狂気におちいりかねない危険な行為だから。それは、心が現実世界を離れて、異世界に入り込んでしまう危険と同義です。
4 宣伝係と氷屋
初期短編「ロイス・タゲットのロング・デビュー」は、主人公ロイスが宣伝係のビルとの結婚に失敗した後、別の人と恋をしたり、再婚したりしながら、精神的に大人へと成長していく物語。この中に、最初の夫ビルについて「宣伝係などというのは氷屋と似たようなものだ」(137)という表現が出てきます。
この物語で、ビルは最初お金のために、裕福な家庭の生まれであるロイスと結婚するのですが、結婚後にロイスに深い愛情を抱くようになる。しかし、幸せな結婚生活は長くは続かず、ビルの愛情は次第に歪んだ形で表現されるようになっていく。それで、ロイスは離婚を決意します。
同作では、ビルがお金のために装った偽りの愛情も、結婚後に抱いた倒錯的な愛情も、氷のようにはかない幻影であり、それは宣伝係が生みだすイリュージョンと似たようなものなのだ、ということが表現されているように思います。さらにそれが、ビルの狂気とも結びついている。氷もまた、サリンジャー作品にしばしば登場する、異世界・冥界・彼岸にいることの表現ですね(この詳細は改めて)。
5 独占された電話
広告マンが大勢泊まり込んで電話を独占しているということは、フロリダで何らかのイベントが行われているということでもあるのでしょう。それは、バフチンのいうカーニバル状態であるということ。場がカーニバル化すること、非日常化することは、シェイクスピア作品・サリンジャー作品において、狂気であること、現実にいながらにして異世界へ足を踏み入れることと同じことです。
また、サリンジャー作品において、直接会話に対し、電話や手紙などを通した間接会話は、ユングのいう集合的無意識を通じたコミュニケーションを意味します。それはときとして、此岸と彼岸、現実世界と異世界をつなぐようなイメージとしても現れます。「ズーイ」の最後に兄が妹へかける電話を思い出せばわかりやすいでしょうか(この詳細も改めて)。
だから、本作冒頭の「ホテルにはニューヨークの広告マンが九十七人も泊まり込んでいて、長距離電話は彼らが独占したような恰好」という表現は、シーモア、ミュリエル、シビルが宿泊しているホテルおよび海岸一帯が、彼岸=広告のようなイリュージョン=虚像世界=鏡の中の世界であることを示しているのではないか、と思うのです。
すると本作では、主人公シーモアが本来生活している拠点、ミュリエルが電話をかけている向こう側のニューヨークが此岸=現実世界=正気の領域、フロリダは彼岸=異世界=虚構世界=狂気の領域として対比されているのかも。そう考えることで、いろいろなことが腑に落ちる気がするんですよね。
今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。
「スキ」をいただけたらうれしいです。
下記が今回の参考資料です。ぜひあわせてご覧ください。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
