04_砂の城とは?_ J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解
Q. ハベルさんと砂の城が表すものとは?
「バナナフィッシュにうってつけの日」で、シビルの母親であるカーペンター夫人は、娘に「ママはホテルに戻って、ハベルさん(Hubbel)の奥さんとマティーニを飲んでくるからね」と言い、母親から解放されたシビルは、「水に浸されて崩れた砂の城(castle)を踏みつけるために足を止め」てから、シーモアのもとへ向かいます(22)。
海辺で繰り広げられる母と幼い娘の何気ない会話や行動ではありますが、ここにもさりげなく重要なモチーフが描きこまれていると思うのです。それは何でしょう?
本稿の解釈はこう。
A. バベルの塔のこと。
以下に理由を述べます。
J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
1 砂のお城
カーペンター夫人のセリフに出てくる「ハベルさん(Hubbel)」と、シビルが踏みつける「水に浸されて崩れた砂の城(castle)」というキーワードは、聖書のエピソードのひとつ、〈バベルの塔 Tower of Babel〉の崩壊を指しているのではないか、というのが本稿での推測です。Hubbelはスペルが変えられていますが、see more からSeymourへの変更と同程度で許容範囲としていいかと。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」には、「L・マニング・ヴァインズだったのである。いや、ハインズだったかな L. Manning Vines. Or Hinds.」(18)という記述があります。VとHの混同は、HをBにして読め、というサインかもしれません。
バベルの塔のエピソードを簡単に紹介すると、自分たちの力を過信した人間たちが、天に届く高い塔を建てようとする。これが神の怒りにふれ、神は人間たちの傲慢さを戒めるため、塔を崩してしまう。それ以来、人々が話す言語も民族によってバラバラになってしまった、という物語。
2 「ブルー・メロディー」のハベルさん
「ハベルさん」という名前は、初期短編「ブルー・メロディー」にも登場します(スペル未確認)。この作品は、優れた黒人歌手が人種差別によって命を落としてしまう物語。「ハベルさん」というキーワードには、そんな愚かな考えや行動がなくならない世界は、傲慢で間違っていて、いつ崩れるかわからないバベルの塔のようなものだと批判する意味が込められているのではないか、というのが私の解釈です。
このことからも、サリンジャーが描くハベルさんとはバベルの塔のことであり、「バナナフィッシュ」でもそれが使われているのではないかと思うのです。
3 言葉の崩壊
「バナナフィッシュ」で、シーモアが戦地ドイツから送ったリルケの詩集についての、ミュリエルと母親との会話、「でも、あれはドイツ語ですよ!」「なんなら翻訳を買うとかなんとかして読んだらいいじゃないかって」「まあ、ひどい」(14)というやりとりは、バベルの塔にある、言語が異なるためにコミュニケーションがままならない様子の表現として読めますね。
『ナイン・ストーリーズ』のなかの「エズメに捧ぐ」には、英語にフランス語を混ぜる場面があるし、「シーモア-序章-」では、語り手バディが九か国語を話せると述べ、イタリア語やフランス語など、複数の言語が作中に散りばめられています。これらも同様に、バベルの塔の崩壊と、言語の違いについての表現と読むことができます。これは、小説家としてサリンジャーが追い続けたテーマのひとつだと思うんですね(詳細各作品読解にて)。
「バナナフィッシュ」のシビルが「パパが明日ヒコーキで来るの」(23)という場面では、シビルが「airplane」を「nairiplane」と言ってしまう。シビルの幼児語が微笑ましく表現されているだけとも取れますが、「エズメに捧ぐ」において、やはり幼いチャールズの綴り間違いが言語の崩壊を象徴していることを考え合わせれば、シビルの鼻(これも重要なモチーフですね、詳細後述)にかかった言い間違えも、言葉の音と意味が崩れる予兆と読んでいいのではないでしょうか。
同じ空間にいながら言語が異なるためにコミュニケーションがままならないことが、精神の荒廃を招く。これはエリオットの『荒地』でも描かれたテーマ。5章 雷神の言葉の「ヒーロニモーはまた気が狂った」という一節に示されており、ここでは掘り下げませんが、言語の崩壊は「気が狂う」ことにつながるというのがこの一節からもわかります(K)。
言語の城の上にこそ、個々人の考え方や思想、世界観は構築されるものだから、バベルの塔=言語の城の崩壊は、個々人(ここではシーモア)の内面的な世界観の崩壊、幼いころ、物心がついてから現在までに構築してきた自意識や思考体系が崩れることのメタファーといえるでしょう。
4 バベルの塔とイカロス
バベルの塔の神話は、前々回見たイカロス神話のテーマを、規模を拡大して語ったものともいえます。イカロスがある一人の青年の過剰な自信とその失墜を描いた物語だとすれば、バベルの塔は集団で力を合わせた人間たちの、神に挑もうとする過剰な自信と、その崩壊を語った物語。自分(たち)の力を過信し、傲慢になって天ばかり目指していると、死や破滅の危険があると戒め、地に足の着いた大人になれと諭す物語です。
脆く崩れやすい砂の城は、溶けやすい氷と同じだし、それはガラスのように脆いシーモア〈glass〉の心とも重なり合う。だから、「バナナフィッシュ」で、シビルは巫女として、もろく崩れた砂の城を踏むことで、肥大して実像と鏡像に分裂し、正気を失って狂気に乗っ取られたシーモアの自意識や自我がまもなく崩壊するであろうこと、主人公が死ぬ運命にあることを預言しているのだ、と思うのです。
5 スカイスクレーパー
バベルの塔を通して、マディソン・アヴェニューの高層ビルのイメージと、前々回(下記リンク)でみた、エレベーターでの急上昇が結びつきます。
空へ突き上げるようにそびえたつスカイスクレーパーは、サリンジャー作品において、イカロスの翼やバベルの塔と同様、永遠の少年の過剰な自信や傲慢で未熟な人間たちの精神が、太陽=神=天へ向かって挑もうとする姿の象徴。ニューヨーク=此岸とフロリダ=彼岸が鏡合わせの関係なら、シーモアがエレベーターで上昇するホテルのビルが、マディソン街の高層ビルと重なってくる。
傲慢な心が建てたニューヨークの摩天楼=広告的イリュージョンに満ちた拝金主義は、蜜蝋でできた翼や砂の城と同様、やがて神の意志によって溶かされる=巫女に踏まれて崩れ去るかもしれない。広告マンが宣伝で生み出すイメージ、高級ブランド品に付加する価値、そこから生みだされる金銭は、幻想、イリュージョンであり、時間がたてば氷のように溶けてしまう実体のないものかもしれない(下記参照)。ここには、広告産業やニューヨークでの都市生活に潜む精神の荒廃(『キャッチャー』でphonyと呼ばれたものであり、エリオットの『荒地』にも通じるテーマ)を戒める意味も読み込めるでしょう。
さらに、自分の大切な人の命や生活を守るためといった大義名分はあっても、同時に金銭的な豊かさや支配欲を満たす行為に通じる侵略戦争に対する批判の意味もあるでしょう。マディソン・アヴェニューが生みだした広告手法は、シーモアが従軍し、彼の精神的な崩壊の大きな原因になっている第二次世界大戦への士気高揚にも大いに利用されたはず。
サリンジャーは、太古から受け継がれた神話の教えと、自分の戦争体験、当時、アメリカに数多くいた帰還兵たちが抱える精神的な問題を重ね、独特の方法で表現しているのではないでしょうか。
今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。
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つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
