09_境界を越える_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。
英雄の旅【出立】3 最初の境界を越える
Q.09 ホールデンがルドルフ・シュミットと名乗るのはなぜか?
キャンベルは、英雄が異界へ旅立つ際、その入り口で境界の守護者に出会う、と述べている(Q)。
ホールデンはニューヨークへ向かう電車の中で会った同級生の母親に、ルドルフ・シュミットという偽名を名乗り、これは学校の寮のjanitor門衛(用務員・管理人)(95)の名だと説明する。
ホールデンはここで、名前を変えることで異世界へ移行し、同時に、自らが門衛となって異世界の扉を開き、中へ入っていく。
物語の主人公が名前を変えて変身し、電車などの乗り物に乗って異世界へ入っていくのは、小説や映画でしばしば見られるパターン。サリンジャーも「フラニー」の冒頭で再び同様のモチーフを使っている。
これが英雄の旅の項目「3 最初の境界を越える」にあたるだろう。
ルドルフは〈高名な狼〉の意味とのこと(Wikipedia)。サリンジャー作品において、主人公が異世界・彼岸・あちら側に移動することは獣になることと同義(詳細後述)。
シュミットはドイツ語で〈鍛冶屋〉を意味するという。神話で考えるなら、炎と鍛冶の神ヘパイストス(ウルカヌス)だろうか。ヘパイストスは、父ゼウスに地上へ投げ落とされ、足が不自由になったが、鍛冶屋になり、真鍮の三脚器をつくって自分で歩くことができるようになった人物。父により足が不自由になったことはオイディプス王につながるモチーフ。
オイディプス・コンプレックスが足の傷として表現される理由については下記[Q.01-5 ホールデンがピーナッツの殻に足をとられるのはなぜか?]参照。
また、父に地上へ投げ落とされることは、『キャッチャー』で崖から落下する子どもたち、学校からの放校=楽園追放=The Fallによってオイディプスとなり、神話の英雄として異世界を巡るホールデンと重なる。『キャッチャー』に描かれた落下については下記[Q.07 ホールデンが放校になるのはなぜか?]参照。
ホールデンがホテルのナイトクラブで会った女の子たちに名のるもう一つの偽名「ジム・スティール」(126)は、鍛冶屋が鍛えた鉄であろう。熱せられ、打たれて強く鍛えられた鉄は、象徴的父に足を折られたヘパイストスが、試練に耐えて、自分の力で生きていく大人へと成長したことの象徴。
ストラドレイターに殴られては立ち上がり、エレベーターボーイのモーリスに殴られては立ち上がり、試練をくぐり抜けて大人へ成長しようとするホールデンとも重なる。
「ズーイ」で「人間はみんな鉄でできているとか思っているみたいだけど」「人間がみんな鉄でできているなんて思っちゃいないよ」(279)と繰り返され、「ハプワース」では「心臓が鉄でできてるわけじゃない」という記述があるのも同じこと。また、シュミットは、英語のスミスにあたり、これは、『NS』の「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」という人名とタイトルにも使われている。「ドーミエ」も、象徴的父母との三角関係で揺れるオイディプス・コンプレックスを抱えた息子であり、異世界へ移行して地獄めぐりをしたのち、迷いを克服する息子の物語である。
「バナナフィッシュ」でミュリエルがアフロディーテと重ねられていることは同作読解で示した通り(準備中)。神話でヘパイストスが醜い容姿でアフロディーテと結婚したことは、グラス家サーガのシーモアとミュリエルの姿に重なる。
また、ヘパイストスが斧で頭を叩き割るエピソードは、「テディ」で描かれる「頭を叩き割る」というモチーフと重なる。
サリンジャー作品において、鍛冶屋ヘパイストスは、足の不自由なオイディプスや、試練に耐えて成長を遂げる神話の英雄として、しばしば主人公に重ねられるイメージといえるだろう。
さらに、二日目の深夜、セントラルパークを経て、自宅へ向かう場面で、「玄関のドアがとてつもない音で軋む」(264)という描写が、異世界のさらに奥へ進む扉を、アパートメントのエレベーター係の男(265)が境界の守護者を表している。
ホールデンはこうして、フィービーが眠るDBの部屋という、最も奥深い場所へと入っていくことになる。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
