14_羊の国・凍る魚_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。
英雄の旅【イニシエーション】1 試練の道
Q.14-1 ホールデンが歯磨きの空き箱を蹴飛ばすのはなぜか?
キャンベルは、また、神話で英雄に課せられる試練のひとつとして、英雄が自分の過去の幼児期のイメージへと戻っていくことがあると述べている(G)。
通過儀礼において、イニシエートされる者は、いったん、子どもの頃の精神状態へと返り、大人として生まれなおす。クジラの腹の中に入るというのは、赤ちゃん返りをするということ。
村上春樹氏は、アントリーニ先生宅から飛び出した後、ホールデンが「もうどんどん、どんどん、後ろに戻っていくわけですよね。アリーはいいやつだったなあとか、フィービーはこのままでいてほしいなあとか。DBはもうだめになっちゃったとか。要するに、全部、前はよかったなあという話になっています。」(E)と指摘している。
物語の後半に向かうにつれて、ホールデンは子供の頃に自分が過ごしたセントラルパーク、小学校、動物園や池のあたり、博物館をめぐり、子どもの頃をひたすらに懐かしがる。ホールデンが会話する相手も、前半は尼さんや同級生の母親など、大人が多かったのが、後半へ進むにつれて、シーソーで遊ぶ子供たち(206)(これは揺らぐ精神を表してもいる)、フィービー、博物館にいる「二人の小さな男の子」(343)と、年齢が下がっていく。これに呼応するように、ホールデンの精神状態も、西部の森のわきに小屋を建てて、ひっそりと暮らすことを想像するなど自分の内へ内へと向かって行き、「ファック・ユー」の落書きを見るたびにこすって消そうとするしぐさには、汚れたものを受け入れられず、すべてを無垢なものへ還そうとする傾向が顕著になっていく。
傷つき、弱った心は、一時的に無垢なものに触れたり、過去の記憶へ立ち返ったりすることで、癒されることがあるのだろう。ここには、過去において忘れていた、無意識の奥深くに抑圧していた自らの記憶の一部を呼び起こし、意識の側に統合・包摂することが、癒しにつながるということも含まれているだろう。
「フラニー」では、フラニーが洗面所で胎児のポーズをする(40)し、「ズーイ」では、シーモアとバディの部屋が「おおむね子供向きの寸法を持つ部屋の中で、かつての住人たちが二人とも選挙権を持つ年齢に達したことを示すような徴はほとんど——ぜんぜんとまでは言わないが——見つからないはずだ」(261)と表現される。このテーマもまた、サリンジャーがたびたび描き続けているもののひとつ。神話の英雄は、幼児返りから胎児へ戻り、象徴的に死んでクジラの腹から生まれなおす、とつながる物語も多い。
シェイクスピアの『リア王』で、狂気に陥ったリアが娘たちと立場を逆転させ、老人でありながら同時に息子となり、赤ん坊として生まれる悲しみを嘆くことや、『マクベス』で狂気に陥ったマクベスが、妻から子供のようだと再三ののしられることとも結びつくモチーフだ。妻が狂気に陥ったマクベスに「子供の脳味噌をたたき出してみせます」(45)という有名なセリフも、マガジン_13で考察したハムレットの狂気が頭や脳の問題として現れることと重ねて考えれば、狂気に陥っていることはすなわち幼児返りしていること、そのような未熟な精神を克服して大人になりなさいという意味だと解釈できる。(しかし実はこの場面で本当に狂気に陥っているのは妻の方、という反転があるのだが、これについては改めて)(脱線が多くて恐縮だが、脱線しながらでないと、どうも説得力が出ない気がしてあれこれ付け加えてしまう。どうかお許しを。作中でホールデンも脱線は必ずしも悪いものじゃないといっているしね。カッコの花束はもちろん「序章」にあるやつを見習って・笑)
また、キャンベルは、自立できない子供の世界の表象は〈羊の国〉だと述べている(G)。羊の国は子供たちが走り回っているライ麦畑=楽園にも通じるだろう。それはむろん『お気に召すまま』のロザリンドが羊飼いになることともつながっている。
『キャッチャー』では羊のモチーフは、ホールデンが寮の廊下で「コリノス歯磨きの空き箱」を「シープスキンのスリッパ」で「蹴飛ばしていった」(89)と言う描写に登場し、後半ではフィービーが夕食に食べた「ラムチョップ」(301)として現れる。
歯の不具合はエディプス・コンプレックスの象徴(詳細後述)。だから、歯のケアをする歯磨きの空き箱を蹴飛ばすしぐさは、自らの内にあるエディプス・コンプレックスという障害物を、いかに克服すべきか決めかね、持てあますようなしぐさ。
後半では、母親が用意したラムチョップを女神フィービーが食べるという行為によって、聖餐の儀式のように、自分の羊的部分を包摂せよというメッセージが表現されている。母と妹、二人のアニマによって、自分の内にある子どもっぽい部分を消化・包摂し、大人へと成長するための手本が示されているのではないだろうか。
歯磨きやラムチョップは「ズーイ」でも使われているモチーフだ。続きは「ズーイ」読解にて。
Q14-2 ホーウィッツがアヒルではなく魚について語るのはなぜか?
オシリス神話の英雄オシリスは、ユング派の神話の元型における永遠の少年。永遠の少年は、グレートマザー=太母神に愛される豊饒神・穀物の神の顕現として死と再生を繰り返す。
ユング派の研究者、河合隼雄やフォン・フランツらが述べる永遠の少年像は、ホールデンにも当てはまる。例えば、自らの無為を合理化、正当化して堕落した生活をおくり、社会や国に悪の責任を押し付ける、理想ばかり語って現実になじもうとせず、文句ばかりを並べ立てる、自分は本来の人生を生きられていないという態度、ちょっとした失敗ですぐに諦める弱さ、背後に常に死の影が存在している、発言や思考が子どもっぽい、母なる存在や理想的な年上の女性像を求める、スーツケースが重いなどという文句に大人になることの重責を背負いたくない未熟さをにじませる浅はかさ、気分の急上昇と急降下を繰り返す傾向などである(P・Q・T)。(「バナナフィッシュ」のシーモアもまた永遠の少年、その後のグラス家サーガでは、バディやズーイやフラニーが永遠の少年として現れる、詳細「バナナフィッシュ」読解にて)
神話における未熟な若者=イニシエートされる者=永遠の少年は、大人社会のルールに従うことに反発し、現実世界で生き抜くことを拒否して、グレートマザーの腕のなかへ戻ること、すなわち、死んで大地に還ることを望む、あるいは運命づけられる。
ホールデンが深夜のセントラルパークで凍えそうになるという、はたから見れば自傷・自殺未遂にも見える行動をとり(261)、「もうこの通りを向こう側まで渡り切ることができないんじゃないかっていう気がしたんだよ。ただどんどん沈んでいって(I’d just go down, down, down)、僕の姿はそのまま誰の目にも見えなくなっちまうんだ」(335)というのは、母なる大地に還りたい、人間社会のルールや言葉を覚えて迷いを抱え込む前の、母と一体で万能感に満ちていたあの頃に戻りたいという気持ち。オシリスが八つ裂きにされて大地に撒かれるように、このときホールデンは、永遠の少年として母なる大地のほうへ引き寄せられている表現として読める。
タクシー運転手ホーウィッツがセントラルパークの魚について語る場面、「もしあんたが魚であれば、母なる自然(Mother Nature)があんたを助けてくれるんだ」(142)は、そんなホールデンの気持ちを投影したものだ。(ホールデンはアヒルであると同時に魚でもある、この説明は後述)
深夜のセントラルパークで「もうちょっとで池の中に落ちてしまうところだった」(261)というのも、ホールデンが無意識に死を求めている描写と読める(サリンジャーはしばしばフロイトが述べたような無意識の失策行為や言い間違いを書いている)。母なる自然が守ってくれるなら、真冬の深夜のセントラルパークのような厳しい現実でがんばるよりも、いっそ池の中に落ちてしまいたいと、心が弱っているときの永遠の少年は思うわけだ。
神話において、若く未熟な青年=植物の神は、象徴的に死に、母なる大地に還ったのちに再生する=春に芽をだす。母なる大地・海は、Q.21で述べたマリアの青いコートにもつながっている。これはキリスト教のピエタ像にもつながるイメージで、「バナナフィッシュ」で母なる海=ミュリエルに抱かれるように死ぬシーモアや、「ズーイ」での母ベッシ―とズーイの関係にも重なる。これが「モンテカルロのルーレット台の上で、あなたの腕に抱かれて死んだ」(「ズーイ」_78)の種明かし。
永遠の少年の急上昇と急降下のイメージは、ホールデンが「エレベーターで上にやられたり下にやられたりしなくちゃならない」(220)都市生活を嫌うことや、ジェーンのボーイフレンドであるアル・パイクの高飛び込み(228)としても描きこまれている。アル・パイクについては後述。ピエタ、永遠の少年の急上昇と急降下、エレベーターについては「バナナフィッシュ」読解にて。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
■参考文献
P_『影の現象学』河合隼雄、講談社学術文庫、1987年
T_『永遠の少年』M-L・フォン・フランツ、松代洋一・椎名恵子訳、筑摩書房、2006年
