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07_黄色を青に見間違えるのはなぜ?_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』解説

Q. シーモアが黄色を青に見間違えるのはなぜか?
今回考察するのは、「バナナフィッシュにうってつけの日」のこの場面。

(シーモア)「きみのその水着、いい水着だね。ブルーの水着っていうの、こんなに好きなものないな」
シビルは大きく目をみひらいて相手を見つめ、それから少し突き出た自分の腹に視線を落すと「これは黄色よ」と、言った「これはキイロ」

(23)

これも、ずいぶん不思議なやり取りですよね。正常な視力を持っている人なら、青と黄色を見間違えることはまずありえない。では、シーモアが明らかに異なる色を見間違えるのはなぜでしょうか。

本稿の解釈はこう。
A. この世を見る目を閉じて、あの世を見る目を開きつつあるから。
 以下に理由を述べます。




J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

1 見えないものが見える人

サリンジャーの中編「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」の冒頭では、漆黒の牡馬を栗毛の牝馬だと報告した、表面的な特徴ではなく魂の姿を見抜く目利きについての道教の説話が語られます。
 
また、『ナイン・ストーリーズ』収録の「テディ」では、「草は緑なんてことさえ僕は教えない。色は名称にすぎないからね。つまり、もしも草は緑だと教えると、子供たちは初めから草をある特定の見方——教えたそのご当人の見方——で見るようになっちまう——ほかにも同じようによい見方、いやもっとはるかによい見方があるかもしれないのにさ」(289)と記されています。
 
これらは、「バナナフィッシュ」でシーモアが黄色と青という明らかに異なる色を見間違える場面と同じ考え方を表現したものといえるでしょう。
 
現実世界の色が見分けられなくなることは、此岸の価値観から離れ、彼岸の世界に半分足を踏み入れているということ。死の世界に引き寄せられつつあることは、青か黄か、善か悪かといった現世的な二項対立の迷いから解放されつつあること。二項対立の迷いについては下記参照。

「バナナフィッシュ」にも引用されているエリオットの『荒地』には、神話の人物ティーレシアスが登場します。ティーレシアスは、盲目になる代わりに未来を見透かす能力(テディや「ハプワース」のシーモアが持つ能力と同類のもの)を得たといわれるキャラクター。この世・此岸を見る目をとじると、あの世・彼岸の側にあるものが見えてくる、という神話的な発想は、サリンジャー作品にも受け継がれています(詳細下記参照)。色が分からなくなったシーモアもまた、この境地に至りつつあるといえるのではないでしょうか。

2 黄色と青

『キャッチャー』読解でも触れた通り、サリンジャー作品で使われる色彩は、基本的にキリスト教絵画の伝統的な意味と重ねて読み解けます。古今東西の神話や宗教美術で使われてきた色彩の意味を細かく見ていけば、むろん地域や宗派によってさまざまに異なる意味が見出せるでしょう。が、サリンジャーはどちらかというと、古今東西に共通する、普遍的なモチーフを使って作品を描こうとした人。だから、サリンジャー作品を読解する際には、むしろ大雑把にそれらを自然界の色彩と結び付けてしまった方が分かりやすい、と個人的には考えています。黄色と青の意味はだいたい下記のようになるでしょうか。

◆ 黄色の意味
聖書にあるイエス・キリストの受難のエピソードで、裏切り者のユダが黄色を纏っていることから、西洋では黄色は裏切りや卑劣さなどのイメージがあるといいます(Wikipedia)。金銭への執着や卑しさを連想させる色彩ともいえるでしょう。同時に、伝統的な宗教絵画では、神が放つ光や明るい希望を示す黄金にも近い色。卑しい黄色は、何かのきっかけで黄金に変容しうる可能性を秘めた両義的な色ではないでしょうか。
 
バナナの皮や、バナナフィッシュ、『ちびくろさんぼ』の虎の黄色はいずれも、肥大した永遠の少年の自我と欲望の表象。同時に、永遠の少年が成熟すれば、黄金のりんごや金の輪として現れる聖杯を手にできる可能性を秘めています。フレーザーが『金枝篇』で示した「金の枝」(関連後述)、『キャッチャー』で描かれる豊饒の大地に輝く黄金の麦畑にも結びつく色、つまり神話の英雄が探究する究極の色彩ともいえるでしょう。神話の王子(息子)が王(父)へと成長することは、しばしば黄色が黄金に変容することと同義なのではないでしょうか。

◆ 青の意味
青は聖母マリアが身にまとうように、聖性や清らかな心の象徴。母なる海にも通じる色彩です。だから、海の名前を持つミュリエルもブルーのコートを持っていますね。ミュリエルは、永遠の少年イカロス=シーモアを呑み込む母なる海、グレートマザーでもあるわけです。

イカロスについては下記参照。

フィービーが纏うブルーのコートについては下記参照。

3 ブルーなメロディー、イエローのドレス

サリンジャーの短編「ブルー・メロディー」には、「黄色のワンピースを着て、髪に黄色のリボン」(136)をつけた黒人女性歌手が、ブラインドが上げられ、部屋に日射しが入るのに合わせて「そして、主はおっしゃった。光あれ」という場面があります。彼女は美しい歌声で少年少女に光を与えたのち、人種差別により若くして命を落としてしまいます。
 
この悲しい物語のタイトルに、悲しみの音楽を表す「ブルー」が使われ、黄色と青が対比されている。金原瑞人氏の訳者あとがきによれば、同作にサリンジャーがつけた元々のタイトルは「雑音だらけのレコードに落とした針」。(これは『キャッチャー』に出てくるレコードにも通じるモチーフ(下記参照)。記憶の装置でもあるレコードに何度も針を刺すうちに、大切な思い出が傷だらけになって擦り切れてしまうような痛みを、作者は強調したかったのでしょう)

元のタイトルが違っていたとしても、この作品全体にブルースの悲しいメロディーが響いていることは変わりません。ここでの青は、歌手リダ・ルイーズが亡くなったときに流される悲しみの涙から、彼女を包み込んで浄化・再生へ導く水・海やクジラの腹へ連なるイメージとして読めます(下記参照)。同時に、卑しい黄色は、青で浄化されたのち、黄金に輝く。「光あれ」はその瞬間のためにこそある言葉ではないでしょうか。

サリンジャーは、この頃から反対色である黄色と青の対比を使っていて、それが「バナナフィッシュ」にも活かされているんですね。

4 悪い子と良い子

「バナナフィッシュ」のシビルは、表面的には犬をつつき、シャロン・リプシャツにあからさまな嫉妬を向け、バナナフィッシュを見たと嘘をつく悪い子。対するシャロンは犬に意地悪をしない良い子。けれど、色を見間違えることで、シビルの内面にもシャロンと同じ純粋な部分があることが仄めかされている、とも読めます。
 
さらに、シーモアがシビルに対して「シャロンをきみだと思うことにしたのさ」(25)ということで、シビルとシャロンが善悪の役割が投影された分身関係であることがわかります。直接登場するシビルに対し、シャロンは二人の会話で間接的に現れるのみ。これは、『キャッチャー』で俗っぽいサリーが実際に登場するのに対し、(ホールデンの記憶では)純粋なジェーンが回想や会話の中でしか語られないのと同じですね(下記参照)。

シビルとシャロンの分裂は、女神のような美しさと娼婦性を併せ持つキャラクターとして描かれるミュリエルの双面性(下記参照)や、シーモアの実像と鏡像への精神的な分裂とも響きあいます。

また、シェイクスピアの『テンペスト』では、「黄色の砂浜」(42)という表現が海と対比されます。つまり、陸=此岸=黄色と、海=彼岸=青。死に引き寄せられているシーモアが陸と海に半分ずつ足を踏み入れている状態なのは、下記でみた通り。『テンペスト』の「バナナフィッシュ」への影響については改めて。

今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございます。
「スキ」をいただけたらうれしいです。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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