23_凍結された結末_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』解釈
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。
英雄の旅【帰還】1 帰還の拒絶
Q.23-1 ホールデンは大人になれるのか?
神話では、試練に打ち勝ち、大地に豊饒をもたらす妙薬や、不老不死の薬、あるいは女神などの聖杯を獲得した英雄は、戦利品を携えて帰還の途につかなければならない。しかし、英雄はしばしば、不死の女神がいる楽園に留まる、または終わりなき眠りを選ぶなどの方法で、帰還を拒むことがある、とキャンベルは説明する(G)。冒険のために訪れている異世界が、楽園のような居心地の良い場所に感じられるとき、英雄は帰還せず、俗世から遠く離れた場所に引きこもることを選ぶことも珍しくないという。
容易には回復できないような心身の傷を負ったようなとき、現世で生きることに疲れ果てたとき、英雄は再生を望まず、母なる大地に抱かれて、そこにとどまりたいと願う。
『キャッチャー』で、ホールデンは、真っ白くきれいに雪化粧していたからという理由で、車や消火栓に雪玉を投げるのをやめ(66)、大人になったジェーンに会おうとせず、幼いころの美しい思い出に浸り、自然史博物館では、すべてがガラスケースの中に閉じ込められて、時間が止まっているみたいに、みんなそこにじっと留まっている(205)ことに安らぎを見出す。 「ある種のものごとって、ずっと同じままのかたちであるべきなんだよ。大きなガラスケースの中に入れて、そのまま手つかずに保っておけたらいちばんいいんだよ」(206)と語り、汚れた大人社会への参入を拒み、純真な子どもたちだけがいる、汚れない楽園にとどまっていたいという気持ちを表現する。
「サリンジャーはインタビューで、ホールデンは「a frozen moment in time」でしかないと表現した。」(『J.D.サリンジャー文学の研究』_50)という。
セントラルパークで、「もうちょっとで池の中に落ちてしまうところだった」「髪がこんな氷だらけみたいになってしまって」(262)と描写され、博物館のガラスケースに展示された、「氷結した湖に開けた穴にかがみこむように座って、その穴から魚を釣っている」エスキモー(204)、フィービーがノートに記した「アラスカ南東部」の「たくさんの缶詰工場」「鮭」(271)のイメージを経由して、ホールデンはホーウィッツが語る、セントラルパークの池の中で凍りついている魚と重ねられていく。前回考察したように(下記リンク)、最後の大雨を洪水神話と重ねて読むなら、ホールデンはセントラルパークの回転木馬から池のなかへ流れ込み、凍りついた池の中の魚になるのかもしれない。
凍り付いた池の中は、クリスマスから数か月後、〈語り手ホールデン〉が入院している精神病院の病室につながっているだろう。
『キャッチャー』は、「たくさんの人が僕に、九月に学校に戻ったら身を入れて勉強するつもりかって質問する。」「そんなこと今からわかるわけないだろう。」「まあたぶんちゃんと勉強するだろうって思ってるよ。でも先のことは先のことだ。」(360)と語られて終わる。ホールデンの病は癒え、大人へと成長し、現実の世界へ戻ることが仄めかされてはいるものの、確実に戻るとは言い切られない、あいまいな締めくくられ方だ。
むろん、『キャッチャー』よりも前に発表された短編「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」に登場するホールデンを『キャッチャー』のホールデンと同じと読むなら、彼はやがて学校へ戻り、第二次世界大戦へ出征して戦闘中に行方不明になる運命にある。しかし、『キャッチャー』だけを読むとき、ホールデンは、精神病院の病室にいて、ここから出ていくかもしれないし、出ていかないかもしれないという両方の可能性だけが残る。
これをキャンベルのいう「帰還の拒絶」として読むことも可能だろう。ホールデンが永遠にハリウッド近くのある病室で凍結され続けているというイメージは、読者の心の中で『キャッチャー』という物語に永遠性を付与する効果があるようにも思う。
Q.23-2 フィービーが熱をつくろうとするのはなぜか?
英雄の帰還拒否は、エリオットの『荒地』の有名な冒頭、「四月は残酷極まる月だ」「冬は人を温かくかくまってくれた」にも通じる。精神的な弱さを抱える永遠の少年にとっては、迷いや汚れに満ちた大人の社会で傷だらけになりながら生きていくよりも、氷の中に凍結されていた方が、ずっと楽で心地いい。
だが、サリンジャーの他の作品と同様、『キャッチャー』もそれだけでは終わらない。帰還の拒絶と同時に、英雄の再生への道筋も深層には仄めかされている。
ストラドレイターが「外がどんなに寒いか、ぶうぶう文句を言いながら部屋に入ってき」て開口一番「まるで死体置き場みたいじゃないか」(72)ということ、放浪の二日目の夜に訪れたセントラルパークは「冷え込んでいて人影がない」(265)こと、フィービーの友達の母が「ぞくぞくしないか」と何度も尋ねた(276)こと、母親がフィービーに「寒かったの?」(299)と尋ねることなどを通して、ホールデンが旅をしている異世界・彼岸・冥界が凍り付きそうに寒い場所であることが、繰り返し強調される。氷は、「ロイス・タゲット」「逆さまの森」「エスキモー」「大工よ」でも、未熟な若者が冥界巡りをしていることを示すために使われる、サリンジャー作品おなじみのアイテムだ。
これに対し、二日目の夜、洗面所で頭から首にかけて濡れたホールデンは、ラジエーターの上に腰かけて、「ラジエーターはほんのりと温かくて気持ちよかった。それでやっと一息つくことができた。というのは僕の身体はとにかく震えまくっていたからだ」(257)「やっとラジエーターから降りて、クロークに行く頃には、僕は泣き出していた」(258)と語る。寒さが緊張や恐怖を強いるのに対し、温かさが凍り付いたホールデンの気持ちを溶かし、安心やくつろぎを与えていく様子が描写される。
極寒のセントラルパークを通り抜けてたどり着いた自宅では、フィービーが「わたしのおでこに触ってみて」「すごく熱くなってると思わない?」「熱を作ってるの」「あぐらを組んで、息を止めて、何かすごくすごく熱いもののことを考えるの。ラジエーターとかそういうもののことをね。そうするとおでこがどんどん熱くなっていって、誰かの手をやけどさせちゃうことだってできるんだ」(298)という。
これは、女神であるフィービーこそが、英雄を閉じ込めている氷を溶かして、再生へ導くことができる存在であることを示すものだろう。
この場面で、ホールデンは熱の変化を感じられなかったと断りながら、兄らしい思いやりで、「そういえばちょっと熱くなってきたかな」と嘘をつく。
フィービーとホールデンがぶつかり、一体化する表現が暗闇の中だったように、彼岸・神話世界・無意識の領域で起こる出来事は、現実の視覚や触覚では感じられない。だからホールデンは、現実世界では熱を感じることができない。けれど、深層では熱を感じているからこそ、フィービーがクリスマスのお小遣いを差し出したとき、出し抜けに泣き出してしまう(304)のかもしれない。フィービーの熱は、凍り固まっていたホールデンの気持ちをわずかに溶かしたのではないだろうか。
また、ホールデンがフィービーのおでこを触る(298)行為は、ホールデンの母がフィービーのおでこを触る(300)行為から、アントリーニ先生がホールデンの頭を触る(326)行為へと引き継がれ、繰り返される。「フィービーが気に入ったただひとつの場面は、ハムレットが犬の頭をとんとんと撫でるところだった」(199)という思い出話も同様のしぐさ。
[13_天邪鬼と狂気](下記リンク)で考察したように、頭に手をあてる行為は、キリスト教の洗礼の儀式を思わせるし、それは、神話において頭や脳に象徴される未熟な若者の〈狂気〉を癒し、汚れを浄化して再生へ導く行為とも結びつくだろう。
Q.23-3 メリーゴーランドの音楽が50年前と同じなのはなぜか?
動物園を出た後、フィービーとセントラルパークを歩くホールデンは次のように語る。
回転木馬に近づくにつれて、いつもの能天気な音楽が耳に届いた。(中略)僕がまだ小さな子どもだったときにも、まったく同じ音楽がかかっていたんだぜ。それが回転木馬の素敵なところなんだよ。いつだって同じ音楽がかかっているってことがさ
何年間も変わらない音楽は、メリーゴーランドの回転から、レコードのイメージへとつながっていく。ホールデンが落として割ってしまうレコードは、幼い女の子のイノセントな歌声を凍結保存するアイテム。
(以下、別作品のネタバレになります)サリンジャーの初期短編「ブルー・メロディー」は、過去の思い出と、今は亡き歌手の美しい歌声を保存したレコードが、記憶の装置として印象的に使われている作品だ。同作では、美しい思い出が過去のものになってゆくのを象徴するかのように、レコードもまた、擦り切れて美しい歌声が再現できなくなってしまう哀切が描かれている。
『キャッチャー』中盤、ホールデンは博物館で、展示物がいつも同じであるのとは対照的に「ただひとつ違っているのは君だ」「君はなんらかの意味でこの前の君とは違っている」と語る。そして、かつてホールデンが博物館へ行ったように、「フィービーは僕がかつて見たものを同じように見るだろうし、見るたびに彼女もやはり違っているんだ」ということに思い至り、「気が滅入ってきたというんでもないけど、すごく陽気になったというわけでもなかった」(206)と、複雑な心境を語る。
ホールデンは、フィービーもまた、大人になることを理解している。凍結したいと望むのは、それが不可能であることを知っているからであり、不可能と知っているからこそ、その美しさ、一瞬の輝きが過ぎてゆくのを惜しみ、いつくしむ。
ホールデンが好きな『グレート・ギャツビー』は、「過去は再現できないよ」というニックに、ギャツビーが「できるにきまってるじゃないか」と答え、強引にデイジーの愛を取り戻そうとしたことが悲劇につながる物語。「我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。」(村上春樹訳)という最後の一文はあまりに有名。サリンジャーはこの切なさを知ったうえで、『キャッチャー』に組み込んでいる。
(脱線するが、ギャツビーもまた、偉大さと卑小さ、汚れと純粋さの二面性を持ち、その相反する性質があまりにも極端だったために引き裂かれて破滅した人物で、ユング派における永遠の少年の典型。ハムレットやホールデンと同じだ。ハムレットについては[13_天邪鬼と狂気](上記リンク)参照、ギャツビーについては改めてまとめたい)
『キャッチャー』に登場するレコードは、ホールデンが落として割ってしまう。これに、豊穣を願って大地に撒かれる種のイメージが重ねられていることは、[01_ライ麦畑の聖杯](上記リンク)で考察した通りだ。
傷を癒すために、英雄はときに帰還を拒絶して、心を凍結させて閉じこもる、そんな風にして休息をとることが必要な時期もある。戦後、精神を病んで入院していたことのあるサリンジャーには、それが実感としてわかっていただろう。
また、街と森の境目のような土地へ引っ越し、家の周りに高い壁をめぐらせ、少しでも裏切られたと感じればすぐに人間関係を断ち切り、自分の殻に閉じこもるような傾向がサリンジャー自身に強くあったらしいことは、複数の伝記からうかがえる。
しかし同時に、傷が癒え、動けるようになったときには、凍りついていた心を溶かし、また新しい世界へと飛び出してゆけるとよい。次の精神的な豊饒を求めて、春のあたたかな光の方へ新しい芽をのばしてみるとよい。『キャッチャー』には、そんな思いもさりげなく描きこまれているように思うのだ。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解21~30のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
