08_オリーヴが好きなのはなぜ?_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解
Q. シビルがオリーヴ好き? と尋ねるのはなぜか?
「バナナフィッシュにうってつけの日」で、シビルの母はホテルにマティーニを飲みにいくとき、娘に「オリーヴ持って来てあげる」(22)といいます。そのあと、シビルはシーモアに「オリーヴ好き?」と尋ね、シーモアは「オリーヴね——好きだよ。オリーヴと蝋と。ぼくはどこへ行くにも必ずオリーヴと蝋を持ってくんだ」(27)と答えます。シーモアはなぜこのような返事をするのでしょうか?
本稿の解釈はこう。
A. ノアの方舟神話の吉報の象徴だから。
私はこのオリーヴの枝が、ミュリエルが電話で口にする〈グリーンのドレス〉と結びついていると思うんですね。前回、シーモアがシビルの黄色い水着をブルーに見間違える場面について考察しました。その黄色と青を混ぜてできる色が〈緑〉。これも、複数のサリンジャー作品で使われているキーワード。今回は、オリーヴとグリーンについて考察したいと思います。
J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
1 吉報のオリーヴ
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が豊饒神話を下敷きにして書かれたものであることは、同作読解で示しました(下記参照)。
青と黄を混ぜてできる緑は、豊穣神話やそれをモチーフにしたエリオットの『荒地』においては死の冬を乗り越えた先にある、春の新芽、再生の色。『シビュラの託宣』にもあるノアの方舟の神話で、洪水がひく吉報を知らせる鳩がくわえてくるオリーヴの枝葉にも通じる、新たな豊饒の季節の到来を予感させる色彩です。
シェイクスピアの『十二夜』には、ヴァイオラが「宣戦布告とか(中略)にきたのではありません。私の手にあるのはオリーヴの枝」(41)という場面がありますね。さらに、この場面の直前には、錬金術における賢者の石、メルクリウスの別名「マーキュリー」という言葉も出てきます(34)。シェイクスピア作品において、緑色はおそらく、錬金術における賢者の石や、その秘儀が記されている緑玉板と結びついています(詳細下記参照)。
以前も述べましたが、シェイクスピアが描く錬金術は、離れ離れになった兄弟や恋人、夫婦を結び付け、狂気にとらわれた精神を癒すもの。『十二夜』では、この場面のオリーヴが、物語の最後に、船の難破で生き別れになっていた双子が再会し、カップルたちが結ばれる展開へとつながります。
サリンジャーは、おそらくこれをふまえて、『キャッチャー』のもととなった短編「I’m Crazy ぼくはちょっとおかしい」で、『十二夜』のヒロインと同じ名を持つ幼い妹ヴァイオラがノアの方舟を思わせるベビーベッドからすり抜けようとしながら、ホールデンにオリーヴをねだり、ホールデンが持ってきてあげる場面を書いています(36)(下記参照)。この作品では、オリーヴが、ホールデンの反抗期のようなものとして現れる、一種のCrazy 狂気を癒すアイテムとして使われているわけですね。
だから、「バナナフィッシュ」でシビルの母が「オリーヴ持ってきてあげる」(22)というセリフは、シーモアが死んだあと、再生へ導く報せを届けてあげるという意味が読み取れると思う。
そのあと、シビルがシーモアに「オリーヴ好き?」と尋ねるのは、神託を告げる巫女として、シーモアを死へ誘い、その際に再生へ導くオリーヴを忘れないように助言しているのではないでしょうか。そして、シーモアが「オリーヴね——好きだよ。オリーヴと蝋と。ぼくはどこへ行くにも必ずオリーヴと蝋を持ってくんだ」(27)と答えるのは、既に自らの死を予感しているシーモアが、死出の旅へ向かう際にも、自分の再生を願うオリーヴを携えていくという意思表示。これから訪れる死が、神話的な再生のために必要なものだと彼が理解していることを示す言葉ともいえるでしょう。
蝋の意味は下記参照。
2 精霊としてのシビル
ノアの方舟神話でオリーヴの枝をくわえて吉報を知らせに来る鳩は、キリスト教のイエスの受難において、父なる神と息子であるイエスを一体化させる精霊、三位一体のイメージにも通じます。三位一体の精霊は、シェイクスピア作品で仄めかされる錬金術において、対立する二つのものを結びつける賢者の石にも重なるイメージですね。
シーモアがシビルの黄色い水着に青を透かし見ながら「記憶と欲望を混ぜ合わし」と『荒地』の一節をつぶやいて、相反する色を混ぜたとき、シビルに緑のオリーヴをくわえた鳩=精霊のイメージがオーバーラップする。シビルの背中が「翼を思わせる華奢な肩甲骨」(21)と描写されること、シビルの水着の黄色が「カナリアン・イエロー canary-yellow」と表現されることはシビルが鳥であることを表現しているし、シビルが持っていたという「風船」(28)という言葉の浮遊感にも合致する。シーモアがそこに見たのは、他でもない彼自身の再生と、精神的な豊饒を願う緑の枝、精霊の姿ではないでしょうか。
3 死にたいシビル
「シーモア-序章-」でシーモアについて語られるときの鳥はイカロスなのに、シビルは精霊なんてずいぶん都合のいい読解だとお思いの方もいるでしょう。何を隠そう、私自身もそう思います笑。だから、というわけではないんですが、シビルもまた(精霊であると同時に)イカロスだ、と考えてもいいというか、むしろ考えるべきだと思うんですよね。
シェイクスピア作品、サリンジャー作品においては、キャッチする者とされる者、漁師(漁夫王)と魚の関係は常に入れ替え可能であるというのも再三述べているとおり。これと同じで、三位一体においては誰もが精霊にも、息子にもなりうる(これもまた都合が良すぎる解釈かもしれませんが、読めば読むほど、その方が腑に落ちる部分が多いんですよね)。
「バナナフィッシュ」では、シビルのなかにも、犬をいじめたり、シャロンに嫉妬したりという未熟な性質があることが仄めかされています。シビルのそんな未熟さは、神話の法則やそれに倣うサリンジャー作品では、一度イカロスとして象徴的な死と再生を果たしてこそ浄化できるようなものであるはず。
そもそも、『荒地』のエピグラフに引用されているシビルの物語は、長く生きることを許されたけれど、若さを求めることを忘れたため、身体が老い衰え、しぼんで蝉のように小さくなったシビルが、甕の中に入れられ「わしは死にたいよ」とつぶやく場面。
甕のシビルは、死と再生のサイクルから外れて精神を荒廃させながら惨めに老いていく者。シビルにとっては、醜く追い衰え、汚れているのに死ねないことこそが悲劇。小説としては、シーモアの死は悲劇だけれど、その下敷きとしてある神話の文脈では、英雄が物語の中で象徴的・精神的に死ぬことは祝福すべきことなんですね。
「バナナフィッシュ」で、シビルがシーモアに「水に入らないの?」と問いかけるのは、死ぬことについて考えているのかと問うことと同義だということは前述しました。これにシーモアが「そいつをいま真剣に考えてるとこさ。大いに考慮してるとこだ——と聞いたらうれしいだろう、シビル I’m seriously considering it. I’m giving it plenty of thought , Sybil, you’ll be glad to know.」と答えるのは、シーモアがシビルの言葉の含意を理解しているということ。
シビルがそれを「うれしい」と感じるはずなのは、彼女が、死はより成長した姿で生まれ変わるために必要なことだとする神話の法則を知っている巫女だからで、シーモアもそれを了解している。シビルがシーモアを死へ誘う背景には、そんな感覚があるわけです。
4 サリンジャーが描く緑
シェイクスピア作品では〈緑〉で表現される賢者の石は、人々や精神を統合すると同時に、分裂させもする、両義的な色彩であることは、[シェイクスピアが描く緑色について](上記リンク準備中)でみたとおり。
サリンジャー作品でも、「愛らしき口もと目は緑 Green My Eyes」というタイトルの短編では、最後に女性が分裂するかのような表現が見られますが、その分裂が、男性の荒廃した精神を救済します(詳しくは同作読解にて)。
『キャッチャー』でアリーのミットに書かれた詩のインクの色や、「エズメ」で、エズメとチャールズからXのもとに届いた小箱の包み紙の色も緑。サリンジャー作品においては、〈緑〉は精神の傷を癒し、救済をもたらす賢者の石として、良い意味で使われることが多いようです。
5 グリーンのドレス
「バナナフィッシュ」の前半、ミュリエルと母との会話で、精神分析医の奥さんが着ていたグリーンのドレスが、趣味の悪いもののように語られています(17)。ここでのグリーンは、マグダラのマリアの表象と読むのが自然でしょうか。シーモアから〈魂の売女〉と呼ばれるミュリエルの内面には、マグダラのマリアに重ねられる性質があるはず(詳細下記参照)。
けれど、ブルーのコートを持っているミュリエルとその母が、グリーンのドレスをけなすのには、ミュリエルにはマグダラのマリアの要素はなく、聖母マリアのような純粋な美しさだけがあると信じたがるような気持がにじみ出ているのかもしれません。
一般的には、娼婦でもあったマグダラのマリアには汚れのイメージがあり、汚れなどない聖母マリアのような純粋な人こそが素晴らしい、自分もそうありたいと考えるもの。だけれど、一点の汚れもなく完璧に純粋な人などめったにいないわけで、誰もが少なからず持っている汚れや負の要素を認め、それが暴走しないように制御しつつ、自分の内面に包摂してこそ、精神的により成長していけるのだと教えるのが、神話のひとつの役割。
シェイクスピアも、サリンジャーも、複数の作品でこのテーマを描いていますね。「ズーイ」で、自分や他人の中にある負の要素を嫌悪し、できるだけ遠ざけようとするフラニーに対し、負の要素を受け入れるべきだとズーイが諭す場面などが分かりやすいでしょうか。
グリーンを纏うマグダラのマリアもまた、かつては未熟者だったけれど後に回心し、イエス・キリストの死と復活を見守った者。『ナイン・ストーリーズ』の「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」には、このエピソードが描きこまれていますね(詳細同作読解にて)。シェイクスピア作品や、それに影響を受けたサリンジャー作品においては、グリーンのドレスを纏うマグダラのマリアは、自らの汚れを認めて回心し、成長して生まれ変わった究極の女神であり、聖母マリアと表裏一体。イエス・キリストの死と復活を見守ったという意味でも、再生を予感させる存在です。
そしてこの、負の要素を包摂し、自分の中にある善と悪などの二極の価値観を統合して、精神的に成長していこうとする思想こそが、シェイクスピアが描き、ユングが研究して、サリンジャーが取り入れている錬金術。〈緑〉は錬金術で使われる賢者の石と結びつく色彩なんですね。
このあたりは、一見、少々オカルトっぽくてとっつきにくい部分。ですが、よくよく読んでみると、そこで語られている錬金術とは、私利私欲のために金を生成しようとするいかがわしい魔術というより、分裂して揺らぎ迷う精神を統合し、狂気に陥った心を癒し、心理的な変容と成長を遂げ、より良い形での再生をもたらすこと、と解釈できます(この詳細は[シェイクスピアが描く緑色について]上記リンク準備中)。それは、現代の心理的なカウンセラーや精神分析医の役割と重なるもの。だからこそ、「バナナフィッシュ」でグリーンのドレスを着ているのは〈精神分析医の妻〉なんですね。そのような観点から作品を読み解いていくのは、とても興味深いと思うのです。
今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございます。「スキ」をいただけたらうれしいです。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
