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シェイクスピア作品に描かれた〈緑色〉について

こちらのマガジン〈サリンジャー×シェイクスピア読解〉では、J.D.サリンジャー作品を読み解くにあたり、押さえておきたいシェイクスピア作品の解釈を掲載しています。サリンジャー読解と合わせてお楽しみいただければうれしいです(最後にリンクをおきます)。


シェイクスピア作品では〈緑〉が重要な意味を持つ。というのは良く知られたことですが、個人的にいくつか気になった表現について考察してみます。シェイクスピア作品、サリンジャー作品を楽しむヒントになると思いますので、ぜひ読んでみてください。



1 『オセロー』 『ヴェニスの商人』嫉妬の化け物_分裂

いちばん有名なのは、やはり『オセロー』の「緑色の目をした化け物(嫉妬) green-eyed monster」(121)でしょうか。オセローが妻やその不倫相手(と思い込んでいるだけで実は勘違い)に抱く嫉妬の感情が、オセローの権力を妬むイアゴーの感情と鏡写しになって悲劇をもたらす、この作品の中心のテーマです。
 
『ヴェニスの商人』で、「緑色の目をした嫉妬 green-eyed jealousy」(107)と語られるのもこれと同じ。英語圏では嫉妬や妬みの象徴として、よく使われる表現なのだとか。古代ギリシャの詩人サッフォーも嫉妬を緑と表現しており、古くから緑は病気や毒、異常な感情を連想させる色と考えられていたそうです。サッフォーといえば、サリンジャーの「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」の詩を書いた人でもありますね。

『オセロー』で、失恋の象徴として「緑の柳」(203)と歌われるのもこれに呼応しています。愛と憎しみに心が引き裂かれる嫉妬のイメージは、失恋とも結びついている。これが、『ハムレット』で狂気に落ちったオフィーリアが柳の木にのぼって水に落ち、死んでしまうことともつながります。ここでは緑が、精神や、恋人・夫婦・人と人の関係を引き裂く色彩として現れているといえそうです。

2 『お気に召すまま』癒しの蛇_分裂から統合へ

『お気に召すまま』では、ぼろをまとい、惨めななりをして、森の木の下で眠っていた兄オリヴァーがライオンに襲われそうになっているところを、弟オーランドーが助ける場面について、以下のように語られます。

(オリヴァーの)首には
ぎらぎら光る緑色の蛇が巻きつき、
素早く鎌首をもたげると、その男の
口の中にすべりこもうとしたのです
About his neck
A green and gilded snake had wreathed itself,
Who with her head, nimble in threats, approached
The opening of his mouth.

(160)

けれど、オーランドーに気づいた蛇は、藪の中へ逃げていきます。ここでの蛇は、嫉妬のために弟オーランドーを宮廷から追い出したオリヴァーの醜く汚れた心の象徴でしょうか。それは、兄と弟の仲を引き裂き、分裂させる悪しき者。けれど、それが口の中に入る直前で去って行ったのは、オリヴァーが森へやってきて、この後オーランドーに助けられることで、オリヴァーのなかから嫉妬心が消え、成長して生まれ変わることの予兆。
 
この作品で、ロザリンドがオーランドーにおくるネックレスは、神話において英雄の首を守り、闘いによる傷を癒して再生へ導く呪具としても機能する(詳細下記)。

緑色の蛇はこれと対。ライオンとの対決で兄オリヴァーの首を守り、彼のなかにあった負の感情を抱え込んで去ることで、嫉妬に引き裂かれた兄オリヴァーの心を癒し、兄と弟、宮廷と森へ分裂していた人々を結び付け、統合へ導く、という意味で善き者ともいえるかもしれません。
 
『テンペスト』の注釈によれば、シェイクスピアが描く魔術とは錬金術のこと。そして、そのために行われる輪踊りや音楽が、人々の仲や精神をときに分裂させる黒魔術、ときに統合させる白魔術として、両義的に用いられることは、下記で述べた通り。〈緑色〉もまた、同様の働きがある色彩と言えそうです。

3 『トロイラスとクレシダ』癒しの眼帯

『トロイラスとクレシダ』には、下記のような「見ること」についての滑稽なやり取りがあります。

テルシテス こいつが見えますか?
アキレウス ああ、それがどうした?
テルシテス いや、よく見て。
アキレウス 見てるさ——で、どうした?
テルシテス いや、じっとよく見て。
アキレウス うん、じっとよく見てるぞ。
テルシテス でもまだ十分見ちゃいませんや。だって、この男を誰だと思っておいでか知らねえが、こいつはアイアスですぜ。
アキレウス 馬鹿、そんなことは分かっている。
テルシテス ところがあの馬鹿(アイアス)にゃ自分が分かっちゃいない
THERSITES  You see him there, do you?
ACHILLES  Ay, what’s the matter?
THERSITES   Nay, look upon him.
ACHILLES  So I do. What’s the matter?
THERSITES   Nay, but regard him well.
ACHILLES  Well, why, so I do.
THERSITES  But yet you look not well upon him, for
whosoever you take him to be, he is Ajax.
ACHILLES   I know that, fool.
THERSITES  Ay, but that fool knows not himself.

(70)

自分の目を見開いて現実をしっかり見つめているつもりでも、その目は果たして本当に見るべきものを見ることができているか怪しいものだ、真実を見つめるのは思っているよりも難しいことだ、とくにfoolには、自分のことが見えていないものだ、ということがユーモラスに描かれている。これが、後半、トロイラスが恋人クレシダの浮気現場を見たときの次のセリフへと結びつく。

唯一のものは二つにならないという法則どおりなら、
あれはあの人ではない、ああ、論理の狂気だ、
一つのことを同時に肯定し否定するとは!
論理に内在する矛盾だ(中略)
あれはクレシダであってクレシダではない
俺の魂の中で不思議な戦いが起こっている、
分離できないひとつのものが二つに分かれ

(223)

トロイラスは、恋人が他の男性といちゃついている様子を自らの目ではっきり目撃しながら、自分の目で見たことを頑なに信じようとしません。現実に起こった事実をトロイラスの心は受け入れることができず、たった今目の前で見た記憶を自分の都合のいいように塗り替えてしまう。
 
そして、そのとまどいは、トロイラスの心の中にある忠実で貞節な理想のクレシダ像と、現実の不実なクレシダ像という相反する性質に引き裂かれたものとして語られます。一人のはずの恋人が、善いクレシダと悪いクレシダという二つに分裂してしまう。それが、浮気現場を確かに目撃したトロイラスと、それを頑なに受け入れないトロイラスに分裂させて心を引き裂く。シェイクスピア作品においては、心が分裂することが、狂気におちいること=foolになることと結びつくことは繰り返し述べている通りです(下記参考)。

そして、見るべきものを見られない。あるいは、見たはずの現実を心が受け入れられない。という狂気を癒すために、「痛む目のための緑色のサーセネット眼帯」(206)という表現がでてきます。
 
この作品における〈緑〉は、失恋で傷つき、二つに引き裂かれたトロイラスの目と心を癒すアイテム。それは、浮気心に翻弄されて引き裂かれた恋人たちの仲をつなぎとめるとともに、ギリシャ軍とトロイ軍の対立の解消、戦争の終結と和解を願う気持ちとも結びついていきます。

4 『ロミオとジュリエット』悲劇からの再生の予感

『ロミオとジュリエット』で、「ああ、どうしてあなたはロミオなの?」という有名なセリフが口にされる前の場面、ロミオはジュリエットに会いに行く道中で、夜空を見上げてこんな風につぶやきます。

月の女神は嫉妬深い、仕えるのはやめてくれ。
女神の侍女のお仕着せは病んだ緑色、
Her vestal livery is but sick and green
道化の衣装だ。脱ぎ捨ててくれ

(65)

これは、ロミオがジュリエットに対し、「純潔を守るのはもうやめて、僕の愛を受け入れて」と懇願するセリフ。ここで、緑は嫉妬や病の象徴として使われています。
 
その後、二人の結婚を取り持ち、モンタギュー家とキャピュレット家を和解させるための作戦を練るロレンス神父が、「毒草や、貴重な薬を絞る花々」を摘むときに手にしているのは、「柳の籠」(79)。『オセロー』や『ハムレット』における〈緑の柳〉の意味は前述の通り。失恋の象徴であり、弱々しい心を象徴する緑の枝は、ときに悲劇を導くアイテムです。
 
物語の結末を知ったうえで読むなら、ここにはすでに不吉な予感が漂っていますね。ロレンス神父がジュリエットに仮死状態になる薬を飲ませて、死んだふりをさせ、二人の結婚を認めさせようとする作戦は、柳の枝のように危うく頼りないものであると仄めかされているようにも思えます。
 
さらに、物語の後半には、ロレンス神父と対になるもう一人の貧しい薬屋が登場します。ロミオはこの薬屋から毒薬を買い、それで命を落とすことが、この作品最大の悲劇。それをもたらす貧しい薬屋は、「緑色の壺  Green earthen pots」(198)を持っていることがさりげなく描かれています。シェイクスピアはおそらく、貧しい薬屋の緑色の壺と、ロレンス神父の柳の籠を、対になるアイテムとして意識的に登場させているんだと私は思うんですね。
 
シェイクスピアが描く魔術(錬金術)には、人々の仲や精神を分裂させる黒魔術と、それを癒して統合させる白魔術があることは前述の通り。ここでロレンス神父と貧しい薬屋が扱う、人の命を操るような毒薬もまた、魔術的な力を持っています。ロレンス神父は、ロミオとジュリエットの愛の成就と両家の和解のために、善意から手の込んだ作戦を練った人。対する貧しい薬屋は、法律違反だと知りながら、お金のために毒薬を売る悪い人。両者の毒薬には善と悪が対比されています。
 
けれど、ロミオとジュリエットの命を奪い、悲劇をもたらすのは、もとはといえばロレンス神父のつめの甘い作戦ゆえ。この作品は、表面的な善意や悪意が、必ずしも願った通りの結果を生むわけではないという転倒した悲しみで終わる。ゆえにやるせなく、多くの人の心を打つ。
 
最終的に、愛し合う二人は死後の世界、善悪の区別を超越した彼岸へと還っていきます。そして、この悲劇によって、皮肉にもモンタギュー家とキャピュレット家は和解する。
 
河合隼雄は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』について、「最もピュアな恋愛、本当の結婚、最も完成された世界は、黄泉の世界で成就する」と述べています(『快読シェイクスピア』)。ロミオとジュリエットの死は表面的には悲劇ですが、その深層には、彼岸でこそより純粋な形でその愛が叶うのだという神話的な思想があるんですね。
 
そんな風に考えると、作中に登場するロレンス神父と貧しい薬屋の魔術は善か悪か、恋人たちや敵対する両家を引き裂いたのか、結び付けたのか、それを決めるのは難しい。そんな白とも黒とも言いがたい両義的な魔術のそばには、賢者の石を思わせる〈緑〉や〈柳〉のイメージがついてまわっている。
 
さらに、この緑や柳が〈籠〉や〈壺〉として描かれている。籠や壺は、神話における赤ん坊のための揺りかご、象徴的に死んだ英雄を再生へと導くクジラの腹のイメージとも結びつくものであることは、下記でみたとおり。死後の世界、善悪を超越した混沌へ還って、本当の意味で結ばれたロミオとジュリエットの再生が、そこでは密かに願われているのかもしれません。

5 『十二夜』 『テンペスト』豊饒の予感

神話やそれに倣うシェイクスピア作品において、人々の仲や心が分裂することは、精神の荒廃をもたらす。そして荒廃した精神は、しばしば荒廃した大地として描かれます。人々の仲や心が癒され、統合されることは、精神が豊かに満たされることであり、それは大地に豊饒がもたらされることで表現されます。
 
『十二夜』には、ヴァイオラが「宣戦布告とか(中略)にきたのではありません。私の手にあるのはオリーヴの枝」(41)という場面がありますね。さらに、この場面の直前には、錬金術における賢者の石、メルクリウスの別名「マーキュリー」という言葉も出てきます(34)。
 
緑の枝葉を持つオリーヴは、ノアの方舟神話において、洪水が引き、大地に豊饒がもたらされる吉報を告げるアイテム。『十二夜』ではこれが、物語の最後に、船の難破で離れ離れになっていた双子が再会し、カップルたちが結ばれる展開へとつながります。
 
『テンペスト』では、船の難破で流れ着いた無人島の景色について、ゴンザーローが「みずみずしく生い茂る草!あの緑!」と感嘆するのに対し、アントーニオは「地面は赤茶けている」と反対のことを言い、セバスチャンが「そこに緑が一つまみ」と皮肉を言う場面があります。ここには、訳者松岡氏による「アントーニオ一流の天邪鬼がこう言わせているのかもしれないし、この島の情景は見る人によって違うのかもしれない」(56)という注釈がつけられています。
 
私もこの注釈の通り、見る人の精神状態によって、緑豊かにも、赤茶けて荒廃している(まさにエリオットが『荒地』で描いた世界の)ようにも見える、と解釈したい。アントーニオは、自分の欲のためにプロスペローを陥れた、汚れた精神の持ち主だから、目の前の風景が荒廃して見える、対するゴンザーローは、精神的に豊かな人という対比が示されているのだと思います。
 
さらに、この作品の後半では、魔術(錬金術)を扱うプロスペローが精霊たちに、豊饒神話を思わせる劇中劇を演じさせます。ここでは緑あふれる草原や畑から多くの実りが得られる幸福な楽園のイメージがたっぷりと語られる。これが、劇の最後の、兄弟の和解と母国への帰還、若い夫婦の誕生と子孫繁栄、それらがもたらす精神的な豊かさと幸福へと結びついていきます。
 
ここで描かれている緑は、荒廃した大地に豊饒がもたらされる予感であり、それは登場人物たちの精神的な充実へとつながっていくものといえそうです。

6 『じゃじゃ馬馴らし』春の新緑、緑と赤、再生から新たな分裂へ

『じゃじゃ馬馴らし』は、周りの視線など意に介さず、我がまま放題に振舞っていたじゃじゃ馬娘キャタリーナが、夫ペトルーチオに調教され、従順な妻に変容してしまう物語。

調教されてしまったキャタリーナは、空に昇っているのがたとえ太陽でも、夫が月だといえば「もちろん、あれは月よ」とうなずき、お爺さんに対してペトルーチオが「初々しいお嬢さん」と呼びかければ、夫の言葉に従って、キャタリーナも「初々しく可愛らしいお嬢さん」と追随する。そんな妻を夫が「この人は男だぞ、お年寄りだ」とからかう場面で、キャタリーナは言います。

ごめんなさい、お爺さん、目がどうかしたんだわ、
日の光がまぶしくて、
何もかもが瑞々しい緑色に見えるんです

(174)

このとき、キャタリーナはじゃじゃ馬のような性質から、従順な妻へと精神的な変容と(夫から見れば)成長を遂げ、新しく生まれなおしています。夫によって部屋に閉じ込められ、調教される試練の日々を経て、まったく新しい自分の姿、これまでとはまるで違って見える世界のあり様を発見しているんですね。

別の場面には、「氷の彫刻」「冬ってやつは男も女も獣も大人しく飼いならしちまうもんだ」(125)という表現があり、これが、部屋に閉じ込められて調教に耐えたキャタリーナの、まるで厳しい冬のように過酷だった試練の季節と呼応する。そこから生まれ変わり、まったく新しい価値観で世界を眺めたときのキャタリーナの驚きが、(夫が月だという太陽の光を浴びて輝く)春の瑞々しい新緑のイメージで語られているわけです。

夫ペトルーチオの側からみれば、妻の調教は成功。キャタリーナは正しい姿へ成長したといえます。けれど、従順に生まれ変わることが必ずしも良いこととは限らないという作者の思いは、作中の他の登場人物たちの反応から明らか。シェイクスピアは調教されたキャタリーナを、明らかに皮肉を込めて描いています。そしてそれは、『トロイラスとクレシダ』で描かれたような目の異常と結びついている。

春に芽吹くこと、ノアの方舟神話のような洪水の後、再生することは、再び現実世界に生命を得て、人として生き直すこと。新しい現実世界・人間界のルールを身につけて生きていくこと。そこにいるのは、以前よりは一段階成長した自分であり、目の前に見えるのは、以前よりは輝きを増した、ひとまわり大きな世界かもしれない。大人へと成長し、社会からより歓迎されるようになった自分かもしれない。けれど同時に、その新しい世界には、一段階上の新しい試練や葛藤が待っているかもしれない。
 
キャタリーナが新たに身につけた〈分別〉、物ごとの道理が〈分かる〉ようになって〈聞き分け〉が良くなることは、世界を〈分けて〉見られるようになること、物ごとを〈分けて〉考えられるようになること。それは、心の中に新たな迷い、分裂の種を抱え込むということ。より高次の苦悩のはじまりでもあるのかもしれません。

『じゃじゃ馬馴らし』のエンディングには、シェイクスピアのそんなアイロニカルな世界観が表現されているし、キャタリーナの「何もかもが瑞々しい緑色に見えるんです」という感嘆は、それが最も滑稽かつ最も悲し気に、まさに道化の泣き笑いとして表現されたセリフなのだと思うのです。

もともと傷ついていたキャタリーナの脚・足に、夫ペトルーチオにより新しい足枷がはめられ、広がった傷口からあたたかな血が流れ続けているらしいことは、下記でみたとおり。

神話、イニシエーション儀式での赤の意味は下記で触れました。

『リア王』には、狂気にとりつかれた王に道化が「人間の脳みそがかかとにあったら、脳みそもあかぎれになるんじゃないかな?」(67)という場面がありますね。これは脳の狂気がオイディプス的な足の傷となって現れるという道化のアクロバット=精神的な倒錯の表現。

これとあわせて読めば、『じゃじゃ馬馴らし』の「何もかもが瑞々しい緑色に見える」というキャタリーナの叫びには、「足から赤い血が流れて痛くてたまらない=私の心はとても傷ついている」という、緑と赤の補色関係をキーにした真逆の意味が込められているようにも思えてきます。

『マクベス』で主人公は王を暗殺した直後、下記のように呟きます。

ネプチューンが司る大海原の水を一滴残らず使えば
この手から血をきれいに洗い流せるか? だめだ、逆にこの手が
七つの海を朱に染め、
青い(グリーンの)海原を真紅に変えるだろう。
Will all great Neptune’s ocean wash this blood
Clean from my hand? No, this my hand will rather
The multitudinous seas incarnadine,
Making the green one red.

(57)

ここには、調和と平穏を象徴していたグリーンの海を、自らの罪深い行いによって赤い血で染めてしまった後悔がにじみ出ている。この海のイメージが後半、マクベスに襲い掛かる動く森のイメージと呼応しているのかもしれません。そして、緑を反転させると赤になるという発想もまた、シェイクスピアは持っていたに違いないと思うのです。

7 錬金術とカウンセリング

『トロイラスとクレシダ』にでてくる「痛む目のための緑色のサーセネット眼帯」(206)という表現については前述の通り。この作品には、「患者のくせに医者気取り」(103)「外科医の医療箱か患者の傷」(205)というセリフも出てきます。医者や医療のイメージが、トロイ軍とギリシャ軍に分裂して敵対する人々を和解させ、失恋の傷を癒すことと結び付けられているんですね。
 
シェイクスピアが描く魔術が錬金術だといわれているのは前述のとおりですが、ここに医者や医療のイメージが重ねられることも多い。『マクベス』では、マクベス夫妻の狂気から広がる国土の荒廃や戦乱の世を治す者の象徴として、イングランド王の侍医とスコットランド王の侍医が対置されています。
 
また、『ハムレット』の主人公や、『ヴェニスの商人』のアントーニオ、ポーシャ、『トロイラスとクレシダ』のトロイラスら、シェイクスピア作品の主要な登場人物たちはしばしばひどい憂鬱症にかかっています。悩みごとや恋に心を引き裂かれていることが、狂気や混乱、悲劇につながっていく。だから、『じゃじゃ馬馴らし』では、「憂鬱は乱心の育ての親とも申します」だから陽気な芝居を見るのが良い、「医者たちもそう考えております」(27)といわれます。
 
『お気に召すまま』で、「魔術師について学んだ」(174)と発言するロザリンドは、男装した女性として、対立物の一致を自ら体現してみせながら、すれ違う恋人や反目する兄弟、森の人々と宮廷の人々を結び付け、大団円へ導きます。そんな錬金術師ロザリンドは、オーランドーの恋の相談役を買って出るにあたり「僕が専門にしている治療法はカウンセリングです Yet I profess curing it by counsel.」(114)という。
 
シェイクスピア作品に描かれ、ユングが研究した錬金術は、私利私欲のために金を生成しようとするいかがわしい魔術というより、分裂して揺らぎ迷う精神を統合し、狂気に陥った心を癒し、心理的な変容と成長を遂げ、より良い形での再生をもたらすカウンセラーや精神分析医の治療に近いもの。〈緑色〉が持つのと同じ力。
 
サリンジャーはこれをふまえて、「バナナフィッシュ」で鏡を見る男シーモア・グラスの精神分裂とともに、精神分析医の妻がグリーンのドレスを着ていると描き、「エズメに捧ぐ」でXとZへ分裂した語り手への贈り物を緑色の包装紙で包んだエズメが「長いこと、どこか医者が患者を見るような目で私を見た。」(162)と記したのではないでしょうか。
 
また、シェイクスピア作品、サリンジャー作品は道化・カーニバル文学でもあり、場がカーニバル化することは精神が分裂することとイコール。だから、医者が分裂した精神を癒すというモチーフは、フランドル地方の伝統的な道化祭りや、イタリアのコンメディア・デラルテの道化芝居で、道化が医者の真似をすることともおそらく結びついているでしょう。それは、オシリス神話で、オシリスの妻イシスが包帯を使ってオシリスを蘇らせるというエピソードを経由して、〈緑〉がマグダラのマリアの表象であることともつながる。マグダラのマリアと聖母マリアの聖俗一致のテーマについては、下記をご覧ください。

8 錬金術の緑玉板

ChatGPTによると、シェイクスピアが作品を書いていた時代のイングランドでは、錬金術やヘルメス主義のテキストが広く読まれていたのだそう。ならば、緑色は、錬金術やヘルメス主義の奥義が記されているという緑玉板(エメラルド・タブレット)と結びついているのではないでしょうか。『十二夜』や『リチャード三世』など、シェイクスピア作品には、マーキュリー=ヘルメス=メルクリウスがしばしば登場しますよね。
 
緑玉板に刻まれた有名な言葉は、錬金術の基本原理である「下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとしAs above, so below.」。これは、『トロイラスとクレシダ』で下記のように語られることと重なります(日本語訳から遡っての解釈であることは否めませんが、意味としてはあっていますよね)。

アキレウス王国は上を下への大騒ぎ
Kingdomed Achilles in commotion rages / And batters down himself.
駄犬アイアスが駄犬アキレウスより尊大になりやがって(中略)ギリシャ軍は上を下への大騒ぎ
now is the cur Ajax prouder than the cur Achilles / the Grecians begin to / proclaim barbarism

(101・237)

傲慢な未熟者は、上下の区別が無い野蛮な状態・秩序なき混沌世界へ還って、価値観をいちどリセットしてから成長・再生せよというのが神話の教えであり、この戯曲全体を通して語られていること。

シェイクスピア作品における〈緑〉の両義的な働きの、精神を分裂させる黒魔術は、秩序ある世界に狂気をもたらして一度混沌へ還すもの。そして、精神を癒し統合する白魔術は、混沌に還った世界から、新たな世界を再構築するための再生を促すもの。一見真逆の働きを持っているかに見える〈緑〉は、神話的な精神の浄化=象徴的な死と再生という、同じ方向を目指すアイテムなのだと思います。
 
サリンジャーの「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」には「ヘルメス・ベビーのタイプライター」(216)というキーワードが書き込まれており、これが神話のヘルメスであることを示すために「魔法の杖」(212)という言葉が出てきますし「笑い男」の盗賊をヘルメスと結びつけて考察するのも面白い。
 
また、サリンジャーの『キャッチャー』や「愛らしき口もと目は緑」などに出てくる〈緑〉についても、以上の内容をふまえて読むと分かりやすいのではないかと思います。以下のサリンジャー読解でも緑の解釈についてまとめていますので、ぜひご覧ください。


J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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