04_緑をオレンジというのはなぜか?_ J.D.サリンジャー「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解
Q. チャールズが緑の目をオレンジというのはなぜか?
「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」の前半で、本当は「大きな緑の目」(150)を持っているチャールズは、「僕の目はオレンジだい」(151)と言います。これはなぜでしょうか。
本稿の解釈はこう。
A. XとZを統合させる力を秘めつつ、語り手の中にある悪魔を投影しているから。
以下に理由を述べます。
J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解をマガジンで連載しています。こちらの記事から読んでいただいてもお楽しみいただけますが、01から順番に辿りたい方は下記よりご覧ください。
1 緑なのにオレンジ
「エズメ」の前半、語り手はエズメの弟について以下のように描写します。
チャールズは横向きになって、椅子のシートに頬をのせていたが、私が見ていることに気づくと、眠そうに目をとじて、天使のような寝顔をつくり、それからいきなり舌を出した——びくりするほど長い肉塊であった——そして、異様な叫び声を発した
天使のような寝顔を見せた後、ブロンクスチアと呼ばれるヤジで悪魔のような表情を見せるチャールズが、天使と悪魔、両方の性質を持つことは、先行研究によって指摘されています(F)。オレンジの目も悪魔を連想させるものですね。
「横向き」の姿勢は、光と影、両方の領域に足を踏み入れていることを示し、「縞のネクタイ」(150)も善悪両方の性質が、一人の中に混在していることを象徴していると読めます。このチャールズの双面性は、語り手ひとりの人物の中に、XとZという二極の性質が混在していることの投影。XとZが分裂した語り手にとっては、目指すべき理想の姿を体現する者ともいえるでしょう。
チャールズの年齢は「五つぐらい」(143)。神話に倣うサリンジャー作品においては、幼い子どもであるほど、善悪といった大人社会の分別や秩序を知らない分、本能的な感覚を持ち、神話世界や彼岸に近く、天使と悪魔、両方の資質を併せ持つ存在として現れます。
「エズメ」より後ですが、ユングが1957年に発表した有名な症例、イヴ・ホワイトとイヴ・ブラック(白と黒の元型になぞらえた仮名)の二重人格では、最初に人格が分裂した経験は四歳だと語られていますね(P)。サリンジャーがチャールズを五歳ぐらいと設定しているのは、そのくらいの年齢が、善悪の区別がまだなく、入り混じった状態であるぎりぎりの年齢と考えたからではないでしょうか。「ハプワース」でバディが五歳、シーモアが七歳に設定されているのも同じ理由によるように思います。
また、サリンジャー作品における緑色の意味は下記で説明したとおり、分裂していたものを統合し、再生させるものの象徴。春に芽吹く新芽、『聖書』で洪水の後に鳩がくわえてくるオリーヴの枝、錬金術における賢者の石など、伝統的に、相反する二極を結び付け、英雄の再生を象徴する色彩。
エズメからXへの贈り物である父の形見の時計が「緑色の紙に包まれた小箱」(173)に入っていることや、「僕の目はオレンジだい」(151)と悪魔ぶるチャールズが、本当は「大きな緑の目」(150)を持っていることは、小箱やチャールズが、XとZに分裂した語り手の心を統合するアイテムや人物として描かれていることを意味するのではないでしょうか。
2 結婚が象徴するもの
「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」という作品は、エズメの結婚を祝うために書かれたという設定になっています。ユング心理学において、結婚の夢や神話は、分裂した精神の聖なる婚姻・統合を意味するので(『ユング自伝2』A.ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子 共訳、みすず書房、1973年)、この設定も、語り手〈私〉のXとZへの分裂および統合の物語を暗示するものとして解釈できます。
エズメが語り手に「あなた、奥様がいらっしゃいますの?」(148)と尋ねることや、Zとロレッタが、「都合がつき次第結婚することになっていた」(167)という設定もこのテーマを表現するために添えられたものでしょう。
サリンジャー自身の結婚を祝う意味が込められているといわれる「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」にも、同様のテーマが重ねられている、シーモアとミュリエルの結婚式を描いた作品であると同時に、深層ではシーモアとバディの精神の統一が願われているのではないか(達成されたかは微妙)、というのが私の解釈です(この詳細は改めて)。
また、エズメが両親について、「表面的にはとても似合いの夫婦でした。でも、率直に申しますと、父には、母よりももっと知的な人が伴侶として必要だったんです」(152)と語るのは、表面的=現実世界で似合いに見えることと、より深い領域=無意識の世界=神話的世界=彼岸で受容し合うことの違いを強調するためでしょうか。
河合隼雄氏は『ロミオとジュリエット』には、死後の世界でこそ真実の愛が成就するという考え方があるのではと述べていますね(『快読シェイクスピア』新潮文庫)。エズメが両親について語る言葉には、男女の結婚であれ、分裂した精神の統合であれ、無意識の領域でつながり合い、精神的に深く満たされることが聖婚であり、真の精神の充実と豊饒につながるという思想が表現されているように思います。
同時に、ゲッペルスの『未曽有の時代』に「人生は地獄である」と記したのは三十八歳の「未婚の女性」であると記されることで、聖婚が果たされていない状態、精神的な分裂状態が、地獄にいることと結び付けられています。
そのうえで、前半で語り手は、妻や義母から、戦地へ送られてきた無神経な内容の手紙について言及し、エズメからの「奥様をとても深く愛していらっしゃる?」という質問には無言を貫くというやり方で、彼の結婚生活が幸せとはいいがたい状況であることを仄めかしています。この語り手夫婦の微妙な距離感が、エズメの両親が表面的には似合いの夫婦だったけれど、意識の深層で本当に結びついていたとは言いがたいということ重なり合い、XとZへの分裂と響きあう。さらにエズメの結婚にも不穏な予感を漂わせるという、重層的な語り方になっています。
さらに、語り手は冒頭で、妻や義母のためにアメリカに残らなければならないから、エズメの結婚式には参列できないと記し、本作に書かれたエピソードによって、エズメの花婿が「しばしの胸騒ぎを覚えたとしたら、なおさら結構」(138)だと添えていますね。
「エズメ」は、最終的にはXとZに分裂した精神が癒され、統合へ導かれる、基本的には希望を感じさせて終わる物語ですが、この冒頭を読む限り、語り手の未来には義母や妻からの束縛という新たな問題が持ち上がっているらしい。これについては後述します。
3 本当の眠気
ユング派の神話学では、善と悪、聖と俗などのさまざまな二元論に満ちた此岸・現実世界に対し、彼岸・神話世界は一元論的世界と考えられています(G)。神話では、現世的な二元論に迷い、行き詰った英雄が、象徴的に死に、一元論的世界へ呑み込まれることによって、相反する価値観を包摂したうえで、成長して再生する過程が語られます。
これを「エズメ」にあてはめるなら、戦争体験によってXとZに分裂した精神は、象徴的に一度死んでこそ統合され、癒される。物語の終わりにXが感じた「本当の眠気 really sleepy」は、象徴的な死ですね。
ユング派の神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、神話が、目覚め、夢、深い眠りの三段階と重なり、深い眠りは英雄のエネルギーを蘇らせるものであると説明しています(G)。
眠りもまた、シェイクスピアから受け継ぎ、サリンジャーが「フランスにて」『フラニーとズーイ』「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」「シーモア-序章-」で繰り返し語りつづけるテーマですね。
以上のように、「エズメ」は、戦争による精神的なダメージで心身が震え、XとZに分裂した主人公が、緑色のアイテム、精神的な聖婚のテーマ、深い眠りによって癒され、統合と再生へ導かれる様子が描かれた物語として読めるように思います。
今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

