01_後半で人称が変わるのはなぜか?_ J.D.サリンジャー「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解
J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解をマガジンで連載していきます。こちらが第1回目の記事です。タイトルのはじめにある番号順にお読みいただくと、より分かりやすくお楽しみいただけると思います。
Q. 後半で人称が変わるのはなぜか?
「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」は、前半が〈私〉の一人称で、後半が三人称で語られます。後半の登場人物は見習曹長XとZ伍長(クレー)の二名で、後半の冒頭にはこう記されています。
私は依然として登場するけれど、これから以後は、私の口から明らかにすることを許されない理由によって巧妙に扮装してしまっているので、どんなに慧眼な読者でも私の正体を見抜くことはできないだろう。
しかし、一読すれば、後半のXが前半の〈私〉であることは明らか。では、サリンジャーはなぜわざわざこのような周りくどい言い方をしているのでしょうか。
本稿の解釈はこう。
A. 後半のXとZは、前半の〈私〉が分裂した姿だから。
以下に理由を述べます。
1 見えない鏡
前半で語り手〈私〉がエズメとチャールズに出会っていること、物語の最後に、エズメとチャールズからの手紙によって、Xに救いが訪れていることから、前半の語り手〈私〉が後半のXであることは明らか。
素直に読めば、前半の語り手〈私〉が後半ではXとして登場し、戦地での過酷で凄惨な経験や、Z伍長のような汚れた心を持つ仲間によって傷つけられたXの精神が、純粋な心を持つエズメとチャールズによって癒される物語として受け取れます。表面上はそのように書かれているのだから当然、この読みが定説とされています。
これに疑いの目を向けるのはひねくれ者だけなのかもしれないのですが、前半の〈私〉が後半のXであることはあまりにも明白で、これに「巧妙に扮装してしまっているので、どんなに慧眼な読者でも私の正体を見抜くことはできない I’ve disguised myself so cunningly that even the cleverest reader will fail to recognize me.」という断りがつけられているのには違和感がある。違和感があるということは、ここに仕掛けがあり、疑って読んでほしいということのはず(とひねくれ者の私は深読みし〈すぎ〉てしまう)。
「バナナフィッシュ」読解で示したように、サリンジャー作品というのはひねくれていて、天邪鬼なことがひとつの特徴であり、重要なテーマでもある。言葉の意味も登場人物たちの行動も、鏡に反射してそこらじゅうで反転します。
「エズメ」のXとZの間、前半の〈私〉と後半のX・Zの間にも目には見えない鏡があると、私は思うんですね。前半の語り手〈私〉は、後半で〈X〉と〈Z〉に分裂する。Z伍長(クレー)はXの分身・ドッペルゲンガー・分裂した第二人格ではないかというのが本稿で示したい解釈です。
サリンジャーはもともと、天邪鬼で分裂的な性質を持っていた人。それが投影されている前半の語り手〈私〉が、戦地で精神的な傷を負うことによって、ひねくれていた部分が暴力的に引きちぎられ、後半のX・Zに分裂してしまった。「エズメ」はその痛みと再生・統合を描いた物語だと思うのです。
2 愛と汚辱
「エズメ」には、下記のような対比を通して、XとZへの精神的な分裂が描かれているのではないでしょうか。各対比の詳しい説明は順次していきます。
X=愛 Love Z=汚辱 Squalor
(タイトルにある言葉)
X=白(善) Z=黒(悪)
(エズメの白い靴下、語り手の歯の黒い詰め物、黒板に書かれた白い文字)
X=地獄 Z=天国
(『カラマーゾフの兄弟』からの引用にある地獄、Zの恋人ロレッタが住む楽園(paradise))
3 分身小説
「バナナフィッシュにうってつけの日」読解では、シーモアが実像と鏡像に分裂しているのではないかという考察を行いました(詳細下記)。
また、前回の記事(下記)では、「シーモア-序章-」に書かれた魚釣りの詩を通して、バナナフィッシュ・魚と、それを釣る漁師・釣り人がどちらも自分であるという精神分裂のイメージについて確認しました。この詩と似たものがユング派の心理学者の著作にもみられること、精神分裂がユングの研究テーマの一つであることも、前回見た通りです。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」にはシーモアが精神分裂症の傾向を持った人 schizoid personality(54)ではないかという直接的な記述もあります。シーモアがサリンジャーの鏡像として生まれ、それはサリンジャーのアバターであるバディの鏡像でもあるという考察についても下記で示したとおり。
デビュー作「若者たち」のエドナとレゲット、ウィリアムとデルロイという分身的なキャラクター設定からはじまり、グラス家サーガが〈シーモア・グラス〉鏡を見る人を中心として、フラニーとズーイ、シーモアとバディ、バディとズーイといった兄弟の分身関係を中心に展開していくように、サリンジャー作品では自分の鏡像・分身・もう一人の自分について語るというのがひとつの大きなテーマになっています。
ただ、その語り方は独特で、いわゆるドッペルゲンガー文学とは少々異なったものになっている。そんななかで、「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」は、一般的に分身小説というときに思い浮かべる物語に最も近い作品だと思うんですね。
4 アルファベットのXとZ
サリンジャーは登場人物の名前一つひとつにも意味を持たせる作家。「バナナフィッシュ」の後半でシーモアが「若い男」と記されるのは、彼が鏡像であることを示しているのではないか、それは『キャッチャー』や「ドーミエ」で主人公が異世界へ移行する際に偽名を名のるのと同じことなのではないか、という解釈については各作品読解で示したとおり。
「エズメ」で、エズメやチャールズをきちんとした名前で呼びながら、後半の主人公たちをあえてX、Zと記号的に記すのにも意味があると思うのです。これはXとZが一人前の人物とは認められない不十分な存在、分裂した存在であることの表現ではないでしょうか。さらに言えば、「キ・ノ・ウ(f-a-c-u-l-t-i-e-s)」が壊れてバラバラに解体した、そのアルファベットのひとつ分の存在、という意味が込められていると思うのですが、これについては改めてまとめます。
5 一人芝居から対話劇へ
サリンジャー作品における精神分裂的な表現は、「フランスにて」で、戦地にいる語り手が、ひとりタコツボのなかで、自分自身に向かって「こんなところで寝るな。」(69)と心の中で語りかけるような、誰もが日常的に行っている何気ないものから、「ズーイ」で、フラニーが「私は気が触れた人のように、声に出して自分に話しかけるまでになったの」(208)という、それが病的な領域へ進行していくようなものまで、グラデーションで現れます。「エディに会いな」の主人公で倒錯的な性格のヘレンが、兄や子どもなど、複数の声真似をするのもこのバリエーション。ディケンズからサリンジャー、ピンチョンへ受け継がれるおなじみの表現ですね。
これが、『フラニーとズーイ』のフラニーとレーン、フラニーとズーイの対話劇のように、はっきりと別のキャラクターとして描かれ、互いが互いのオルターエゴとなって、意見を戦わせる物語へと発展していく、という流れがあります。
また、『キャッチャー』には、ホールデンが誰も見ていないところで二度「腹に銃弾をくらったふり」を(177・253)する場面がありますね。ホールデンの一人芝居の前半では、バスルームに歩きながら一人芝居を演じていると書かれており、向かい側の鏡に映る自分の姿を見ている可能性も高い。
初期短編「ふたりの問題」にも、主人公が、誰も見ていないところで、映画『カサブランカ』のハンフリー・ボガードとサムが対話する場面を、一人二役で演じてみる場面(108)があります。
サリンジャー作品では、主人公が精神的に追い込まれながら、それを滑稽な道化的泣き笑いに紛らわせようとするとき、一人二役のお芝居を演じるという行動となって現れる。「エズメ」のXとZのやり取りも、このような一人芝居の延長線上にあるものとして読めるように思うのです。
ただし、「エズメ」のXは、おどけて一人芝居をしているわけではない。彼には本当にZの姿が見えていて、真剣に会話をしている。精神的な病によって、目の前にもう一人の自分がみえてしまう深刻な症状のひとつとして描かれているのではないでしょうか。それはもしかすると、「バナナフィッシュ」でシーモアが自分の鏡像を見ているときに近い狂気、自制心を失う危険をはらんだものかもしれません。
6 たたき割られた男
「エズメ」の前半で語り手は、訓練中の過ごし方について、「雨の日は概して、屋根のある場に、しばしば卓球台から斧一本分しか(just an axe length)離れていない場にとどまって本を読むことになった」(柴_148)と語ります。
〈卓球台〉はサリンジャー作品に何度か登場するモチーフ。テニスと同じで、相反する分身同士が意見を戦わせることの比喩として使われます(この詳細は改めて)。
そして、ポイントはここに唐突に〈斧 axe〉が出てきていること。繰り返しになりますが、違和感のある表現は作者が仕掛けた読解のヒントです。
「エズメ」の後半には、Xが『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の言葉を引用する場面がありますね。『カラマーゾフの兄弟』の父殺しの凶器は斧。さらに、ドストエフスキーの『罪と罰』で、ラスコーリニコフが金貸しの老女とその義妹を殺すときに使った凶器も斧。ラスコーリニコフは、正義のために、強欲な悪の象徴である老女を殺すという罪を犯した人物です。
亀山郁夫氏は、ラスコーリニコフという名前には「たたき割る男、たたき割られた男」という意味があり、彼の正義感に満ちた弱者への憐れみと、悪魔的な傲慢さに分裂した性格を象徴していると述べています(『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー 五大長編を解読する』亀山郁夫、NHK出版)。
「エズメ」の前半で、語り手は、ノルマンディ上陸作戦、はじめての本格的な戦闘への参加が目前に控えている状態。まさに、目の前の斧を手にするだけで、ラスコーリニコフ同様、人を殺すかもしれない状況にあり、精神的にナーバスになっています。正義とは何か、自分が向かおうとしている戦いは正しいものなのか、善悪の価値観に心を揺らがせている。
「エズメ」の〈斧 axe〉という言葉は、語り手がラスコーリニコフと同じなのだということを表現したものではないでしょうか。
ChatGPTによる、キリスト教の聖書での斧の説明はこう。
「斧はすでに木の根元に置かれている。だから、良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれる。」(マタイによる福音書 3章10節(新約聖書))
「斧」は神の裁きの象徴。悔い改めを今すぐに行うべきだという切迫感、裁きが間近に迫っていること、悪や罪を断ち切ることの象徴です。
ドストエフスキーの斧はここから取られたものでしょうか。「エズメ」もこれと同じ解釈が可能ですね。前半の語り手〈私〉は、X的善的な性質の人物に見える。けれど、実はZ的悪の性質が潜んでいる。そして、目の前に置かれた斧=銃を手に取るというたった一つの動作だけで、敵と味方に分かれて殺し合う戦いに参加しなければならない。その状況に不安や恐怖や敵を倒したいという汚れた気持ちが入り混じった複雑な思いを抱いている。その精神の揺らぎが、卓球の打ち合いで表現されている。
後半、戦地の惨状を目の当たりにして精神的に追い詰められた主人公は、斧によって精神をたたきわられ、XとZに分裂する。Xが悔い改め、自分の中に潜んでいた悪や罪を断ち切ろうとする、その瞬間が描かれているのではないでしょうか。
サリンジャーが戦地へ行く直前に書いたといわれる「最後の休暇の最後の日」でも『カラマーゾフの兄弟』への言及とともに〈斧〉が近い意味で使われています。この解釈については後述します。
7 現実か幻か
では、ZはXの幻覚、完全なる架空の存在なのかと問われると、百パーセントそうだとは言い切れない。エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」で、語り手が見た自分の分身が本当にいたのか、あるいは語り手の幻覚だったのか、どれだけ読み込んでも絶対にどちらかに決定することができないのと同じように、「エズメ」でも、Zが幻なのか、実在の人物なのかを決めきることは不可能。そのように、あえて書かれているのではないでしょうか。
これは、「大工よ」や「シーモア-序章-」「ズーイ」などにおけるシーモアとバディの関係にもいえること。『ナイン・ストーリーズ』の「愛らしき口元目は緑」も同じですね。最後の場面で、アーサーのもとに妻が本当に帰って来たのか(女性が分裂するという奇跡が起こったのか)、あるいはアーサーが嘘をついたのか、どれだけテクストを読み込んでも、絶対に決定できない。
決定できないという描き方によってしか、表現できないことを表現しようと目論まれた作品だと思うのです。そのために「エズメ」の前半は一人称で、後半は三人称で書かれているのではないでしょうか。
8 巧妙な扮装
ただし、これが分身小説であることは、ポーの「ウィリアム・ウィルソン」やドストエフスキーの『分身』などよりもずっと分かりにくい。〈巧妙な扮装〉によって分裂したことが読者にさえ隠されている。ここにはサリンジャー自身のひねくれた性格、自分が描こうとしたことをむろん読者に理解されたいけれど、簡単には理解されたくないという天邪鬼な性質が見え隠れしていますね。この性質こそがXとZの分裂をもたらす(分身とはひねくれて反転してねじ切れてしまったもののことだと思うので)という、作者と物語との必然的な結びつきがここにはある。
同時に、過度な衝撃によって斧でたたき割られ、引きちぎられて生まれたもう一人の自分と対峙することの、グロテスクかつリアルな痛みを表す手段として、作者はあえてこの書き方を選んでいるようにも思えます。Z伍長の狂気的な暴力性、傲慢で無神経な性質は、Xが吐き気を催すほど醜悪。人間の心を持っているとは思えない、悪魔のようなキャラクター。
これほど醜く悪質なものが自分の中にあるなんて、普通は耐えられない。目をそらしたくなる事実であり、だからこそ我々読者は自然に、X=前半の語り手とZは別人であると考えて、Xに同情を寄せ、共感し、Zを憎む、という読み方をする。それを疑うことにさえ、嫌悪感を抱く。
普段はそれでいいのかもしれない。けれど、ひとたび戦争のような狂気に巻き込まれれば、災害や事故や犯罪に遭って平静を失えば、理性や互いを思いやるあたたかな心を持つ余裕などあっさり崩れ去って、Zのような悪魔的な性質が顔を出す可能性だって、ないとは言い切れない。心の奥深く、自分でも気づかないような暗い深淵にうごめくものから逃げきることができるのか、それは誰にも分らないですよね。
これこそ、フロイトのいう〈不気味なもの〉との対峙。無意識の深淵で泳ぐ魚、『マクベス』に記された「俺の心はサソリでいっぱいだ!」のサソリ、あるいは神話における愛の神イシュタルと冥界の神エレシュキガルといった、善悪に分裂したキャラクターなどに結びつく。その意味でむしろダブル文学の起源に近い表現ともいえるかもしれません。
今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。スキをいただけたらうれしいです。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

