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27_シーモアとバディ_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解

Q. シーモアが死んだとき、バディはそこにいたのか?
1957年発表の「ズーイ」の中で、バディはズーイに宛てた手紙に、「僕(バディ)が彼(自殺したシーモア)の遺体を引き取るためにフロリダまで行ったとき」(93)の飛行機の機内での出来事について語っています。だから、シーモアが自殺した時、バディはどこか離れた場所にいて、シーモアの死の報せを聞き、飛行機に乗って急いでかけつけた、ということになりますね。
 
ところが、1965年発表の「ハプワース」には、七歳のシーモアが両親への手紙の中で、「ぼくたち(シーモアとバディ)はどちらかが死ぬときには、もうひとりが必ずその場にいるはずだ。」(192)と記されている。これはどういうことでしょうか?
 
本稿の解釈はこう。
A.   シーモアとバディは小説の上では別々のキャラクターであり、同時にどちらもサリンジャーの分身である。
以下に理由を述べます。



J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

1 作家の鏡像としてのシーモア

第二次世界大戦へ従軍した後、サリンジャーは心身の不調により入院し、重度のPTSDを患っていたといわれています。「バナナフィッシュ」が書かれたのは、退院後とはいえ、まだ戦争の記憶が生々しく残っている時期。精神的に不安定な状態で、鏡に映る心身が衰弱した若い男性を見つめ、ナルキッソス神話と、帰還兵が自殺する姿を重ねて、この作品を構想したのではないか。最初、シーモアとは、単純に作家自身の鏡像だったのではないか、というのが私の推測です。追い詰められた精神状態の中で、自分なのに自分ではないように見える鏡像について率直に語ろうとした、そんな作品だったのではないでしょうか。
 
そして執筆時、サリンジャーは、自分の分身=鏡像=シーモアが物語の中で自殺することを、切実に必要としていたのかもしれない。戦地で命を落とすかもしれないと恐怖し、敵軍の兵士たちを憎み、人を殺したいと思ってしまった罪悪感、ドイツの強制収容所で見たおぞましい光景、繰り返されるフラッシュバックに苦しめられながら、記憶の一部を消したい、自分の一部を殺したい、物語の中で浄化したいという強い思いがあったのかもしれない。当初、シーモアは、物語の中で死ぬために生まれたキャラクターだったのかもしれない、という気がするのです。

2 作家の分身としてのバディ

「バナナフィッシュ」が書かれた時点で、グラス家サーガの構想がどれほどできていたのか、バディというキャラクターがどこまで固まっていたのかはわかりません。
 
ただ、グラス家サーガの語り手、バディのモデルがサリンジャー自身であることは間違いなく、「バナナフィッシュ」「テディ」『キャッチャー』など、一連のサリンジャー作品はバディが手掛けたものだという設定になっています。バディが、街と森の境界のような場所で半ば隠遁生活をおくる小説家であるというのも、サリンジャー本人と重なりますね。
 
「バナナフィッシュ」発表後、サリンジャーはおそらく、「コネティカットのひょこひょこおじさん」や「小舟のほとりで」、「フラニー」を書きながら、グラス家サーガの構想を膨らませていったのでしょう。
 
その過程でサリンジャーは、「バナナフィッシュ」で殺して切り離したはずの鏡像=シーモアが、いつの間にか自分の中でとても大きな存在になっているという感覚を得たのではないか、というのが私の想像です。一度は物語の中で殺し、心の中から消去しようとしたはずのもう一人の自分が、時がたつにつれ、作者自身の内側で大きく膨れ上がって、シーモアについてもう一度語らずにはいられないという気持ちを持つようになったのではないでしょうか。
 
「シーモア-序章-」で、バディが急性肝炎で執筆できなかった9週間の後、「シーモアは私が離れている間に、あまりに大きくなりすぎていたのだ」(193)と語られる一文は、私にはサリンジャー自身が持ったそんな感覚の告白としても読めると思うのです。
 
バディが本格的に登場するのは、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」から。ここでサリンジャーは、死んだシーモア=サリンジャーの鏡像について語る、もう一人の分身を作ることを思いついたのではないでしょうか。それが、シーモアの弟として、死んだ兄について語るサリンジャーのダブル・分身としてのバディだった。作家が自らの鏡像・シーモアについて探求し、書き記すために創られたキャラクターとして、〈相棒 Buddy〉というニックネームはふさわしいもののように思います。
 
「大工よ」が自分の結婚式から逃げ出した、新郎シーモアの不在をめぐって起こる騒動を描いた物語であることも、そのあとに書かれた「シーモア-序章-」が、自分の鏡像について率直に語る作品として読めることも、この推測と矛盾しないと個人的には考えています(この続きは各作品読解で考察します)。
 
弟バディと兄シーモアは小説の上では、確かに別々のキャラクターです。けれど同時に、シーモアはサリンジャーの鏡像、バディはサリンジャーの分身なのだから、常に共にあり、その意味ではシーモアが死んだ瞬間も一緒にいたこともまた真実。そんな気持ちを表現したくて、サリンジャーはあえて、「ズーイ」ではバディとシーモアが別の存在であることを強調し、同時に「ハプワース」で、彼等は常に一緒にいるのだということを示したのではないでしょうか。

3 山羊座のシーモア

「バナナフィッシュ」のなかで、シーモアはシビルに「ぼくの生まれは山羊座なんだ」(24)といいます。山羊座は神話において、上半身が山羊、下半身が魚。「バナナフィッシュ」において、足を病んでいるバナナフィッシュとして表されるシーモアにふさわしい星座といえるでしょう。鏡の世界=彼岸=獣の領域と、現実世界=此岸=人間の領域、海と陸の境目で揺らぐ永遠の少年シーモアに、山羊座はぴったりです。
 
「シーモア-序章-」に、シーモアは一角獣であると記されていますが、ユニコーンは伝統的に、山羊に似た姿で描かれることも多かったといいます。ミュリエルにアフロディーテが重ねられていることも前述のとおりですが、シーモアが一角獣なのは、アフロディーテが従えている獣が山羊だという伝説とも呼応します。イエス・キリストもまた一角獣だといわれますが、アフロディーテも聖母マリアも、神話においてアニマ=最高の女神の象徴であり、永遠の少年ユニコーンは、そんな女神に引き寄せられる者なわけです。
 
シーモア、バディ、サリンジャー三者の分身関係は、「バナナフィッシュ」でシーモアが自分は山羊座だというのに、そのあと書かれた「ズーイ」で、シーモアは二月生まれ(262)で、山羊座ではないと示されていること(実際に山羊座なのはテディとサリンジャーであることは、『ミステリアス サリンジャー』で田中啓史氏が指摘している)、「シーモア-序章-」において、「バナナフィッシュ」に描かれたシーモアは、シーモアよりもバディに似ていると語られること(148)とも合致します。
 
「バナナフィッシュ」が書かれた時点では、おそらくバディの構想はそこまで固まっておらず、単純にサリンジャーの鏡像としてのシーモアが、山羊座に合致するキャラクター設定であった。そして、「バナナフィッシュ」でシーモアは死んだ。シーモアは、山羊座的な陸か海かという永遠の少年的な揺らぎから解放され、冥界にいる聖なる存在へと昇格した。「ズーイ」の段階では、象徴的父=神的存在へ格上げされ、もう現世で心を迷わせる永遠の少年ではなくなっている。
 
この時点では、シーモアに変わり、新たに現れたバディの方が永遠の少年・未熟者としての立ち位置にいる。だから、サリンジャーは「シーモア-序章-」で、「バナナフィッシュ」で描かれた若い男は、今の時点ではむしろバディに似ている、という奇妙な書き方をしているのではないでしょうか。

4 神格化されるシーモア

『キャッチャー』のモチーフになっているオシリス神話では、主人公オシリスが最初は未熟な若者=ユングのいう永遠の少年として登場し、二度の死と再生を繰り返したのち、冥界の王=神聖な存在へと昇格します。そして、オシリスの息子ホルスが次の永遠の少年として登場し、太陽神ラー=象徴的父との一体化を目指します。
 
この神話には、永遠の少年=息子が試練を乗り越えて王=父=神へと昇格し、その息子が次の永遠の少年として現れるという世代交代が描かれているんですね。ギリシャ神話のゼウス、北欧神話のユミルのなど、息子=英雄として現れた主人公がやがて父=王となり、子どもたちから倒され、世代交代していくのは神話のひとつの典型です。
 
これは結果論だと思うのですが、神話とよく似た世代交代が、グラス家サーガのシーモアとバディの関係にも起こっています。「バナナフィッシュ」では、ナルキッソス・イカロス・未熟な若者・永遠の少年・山羊座の青年として描かれていたシーモアが、グラス家サーガが発展していくにつれて、先に引用したように大きく神聖な存在へと格上げされていく。以降のグラス家サーガでは、シーモアがグラス家の兄弟たちにとって象徴的父ほとんど神さまのような特別な存在として語られていきます(だからこそ、実父レスはその名のとおり〈Lesはlessだと思うので〉存在感が極めて薄い)。
 
「バナナフィッシュ」の最後に若くして命を落としたシーモアを、バディというもう一人の分身や、シーモアを神と崇める六人の兄弟たちを設定することで神格化し、まるで冥界の神として蘇ったオシリスやイエス・キリスト(シーモアが死んだ年齢が、イエス・キリストが磔刑にかけられた年齢と符合することは、しばしば指摘されること)のように復活させ、ときに神、ときに兄、ときに象徴的父、ときに彼らの分身・鏡像として語り直しているのが、グラス家サーガの面白いところ。
 
『フラニーとズーイ』や「シーモア-序章-」では、バディやズーイ、フラニーらが、偉大な兄であり、同時に父・王・神的存在であるシーモアについて語り、対決しながら、長兄から与えられた価値観を乗り越え、自分なりの世界観を再構築しようともがいていく様が描かれます。
 
「バナナフィッシュ」の衝撃的なラストを、こんな風に神話的に展開させていくのが、サリンジャーらしさ。どこまでが意図的で、どこからが結果的になのかはわからないのですが、ユング派の神話学を地で行くようなところがある。もちろん無意識に作品を書いたら結果的に神話っぽくなった、という方がサリンジャーの天才性は際立ちますが、このあたりは読者の受け取り方次第でしょうか。
 

今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。
スキをいただけたらうれしいです。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解21~29のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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