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28_バナナ・ホールについての一考察_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解

Q. バナナ・ホールとは何か?
「バナナフィッシュにうってつけの日」でシーモアは、バナナがどっさり入っているバナナ穴(banana hole)の中に入って、バナナを食べすぎたバナナフィッシュは、肥って二度と穴の外へは出られなくなる。そして、バナナ熱という病気にかかって死んでしまう、と語ります。
 
バナナ・ホールについては、大量消費社会における果てのない物欲・金銭欲の罠、食欲や情欲の誘惑、承認欲・名誉欲・支配欲への執着、鏡の世界=精神的な牢獄にとらわれてしまうことの比喩など、さまざまな解釈が可能。この答えは読者に開かれているもので、あえて答えを限定するべきではないというのが個人的な考えです。
 
ただ、本作とシェイクスピア作品を比較しながら読んだとき、もう一つのバナナ・ホールのイメージが広がるように感じられたので、以下にまとめてみます。
 
本稿で示す解釈はこう。
A. 肥大する頭、そのこめかみにくい込む王冠。
以下に理由を述べます。



J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

1 「逆さまの森」のブレイン

ここまでの読解で、「バナナフィッシュ」のシーモアが、正気を失って狂気におちいっていることを確認してきました。シーモアの狂気が、シビルに「もっと鏡を見た?」と問われて、母親が「もう気が狂いそうよ absolutely crazy」(21)と答える場面や、「マディソン街」の「婦人帽のお店」(18)という言葉で表現されていること。これが『キャッチャー』でホールデンが赤い〈クレイジーなハンティング帽 crazy hunting hat〉を被っていることと同じで、サリンジャー作品では、狂気crazyは頭の問題であり、しばしば帽子で表現されることも、下記でみたとおりです。

この表現はシェイクスピア作品から引き継がれたものであることも、下記で述べた通り。

サリンジャーの中編「逆さまの森」では、マザー・コンプレックスを持ちながら、大人として社会で健全に生活しているコリーンについて「帽子を元通りにすることにかけては世界一だった」(208)と語られます。此岸で地に足を着けて生活している、理性的な感覚を有する語り手がそれを理解できるのに対し、詩の世界=彼岸にいる本物の芸術家=永遠の少年「フォードはとっくの昔に、きみ(コリーン)が帽子を元通りにすることにかけては世界一だということがわからなくなっている」のだといいます。そして、深刻なマザー・コンプレックスによって精神的に崩壊しつつあるフォードは、物語の最後に「ブレイン(脳)だよ」(261)と発言してコリーンを絶望させます。
 
サリンジャー作品において、狂気は脳の問題であり、それは帽子で表されていて、狂気の根幹にはマザー・コンプレックスやオイディプス・コンプレックスがあるらしいのです。

2 ヨリックの頭蓋骨

これは、下記でみたシェイクスピアのグローブ座の表象、〈globe 天球〉を抱えたヘラクレス=阿呆のイメージにもつながります。『ハムレット』で、ハムレットが、「俺の頭がどうかしたか I do forget myself!」(32)「この狂った頭(globe)」(61)「頭が狂ってるからな My wit’s/diseased.」(149)と自嘲してみせるように、王が狂気にとりつかれたハムレットを「狂った頭の中で刻々ふくれあがる危険 Hazard so near 's as doth hourly grow/Out of his brows.」(155)と表現するように、道化・永遠の少年・ハムレットが肩の上にのせているのは〈狂った頭 globe〉なんですね。

ハムレットが墓掘りと会話する場面で、父の分身である道化ヨリックの頭蓋骨に執着するのも、サリンジャーの「ズーイ」でズーイがヨリックの頭蓋骨に夢中だというのも、オイディプス・コンプレックスをこじらせて膨れ上がった脳=道化化したブレインが問題であることを示すもの。
 
ハムレットが言及する「帽子に山のような羽飾り」(146)をつけたアイテムは、阿呆・道化の象徴。暑いか寒いかにまつわる滑稽なやり取り=永遠の少年的な心の迷いの表現の前後に、ハムレットがオズリックに、「帽子は正しく使うこと、頭に被るものだよ」(249)「どうか帽子を」(250)と繰り返すのも、帽子が道化=狂気に陥っている者のしるしだからですね。

3 シェイクスピア作品の頭・脳

ちくま文庫の『オセロー』の解説で、中野春夫氏は同作を「脳の疾病(disease in the brain)」を扱ったものだと述べています。イアゴーの狂気は「万事ここ(頭)にある」(75)、「脳天かち割るぞ」(87)「脳天をぶち割って」(198)といった頭にまつわる言い回しも多く、オセローが倒れる場面では、「てんかん(epilepsy)の発作だ。/これが二度目です、きのうも一度」「こめかみをさすってみろ」(164)といわれています。
 
『マクベス』では、妻が永遠の少年的性質を持つ夫に対して「子供の脳味噌をたたき出してみせます」(45)と言い放つセリフが有名。『夏の夜の夢』ではボトムの頭がロバになりますし、『リア王』では狂気に陥ったリアが薬草の冠をかぶり、「俺は、/生まれながらの道化」「脳に達する重傷だ」(199)といいます。道化が「人間の脳みそがかかとにあったら、脳みそもあかぎれになるんじゃないかな?」(67)とおどけるのは、シェイクスピアがしばしば描く〈あべこべの世界〉。これは永遠の少年の自我肥大=脳の肥大と足の傷(下記参照)を使った精神的な倒錯・天邪鬼気質につながる表現で、それはやはりオイディプス・コンプレックスにつながっています。

サリンジャーの「逆さまの森」の最後の場面でもフォードに「ブレインだよ」といわれた後、コリーンは脚の力が抜けて転びそうになっていますね。永遠の少年の脳が肥大してそこに倒錯的な要素が加わると、足もとに影響が出るというのも、シェイクスピア作品、サリンジャー作品に見られる書き方。「バナナフィッシュ」のシーモアが足を見られた後、頭を撃ちぬくのもこれにあてはまります。

『テンペスト』では、「(プロスペローの)脳天をぶち割りゃいい」「頭蓋骨をたたきつぶそう」(103)といわれ、『お気に召すまま』では、オーランド―について「帽子の似合う頭はついてるの」(103)といわれます。『じゃじゃ馬馴らし』では、「リュートを私の頭に叩き込んじゃいましたから」(78)という表現をはじめ、石頭・木偶頭、白髪頭といった表現が頻出しますし、『ヴェニスの商人』では「阿呆の頭を一つ載せて求婚に来たが/帰るときは二つになった」(89)というセリフが出てきます。
 
きりがないのでこの辺にしておきますが、シェイクスピア作品では、狂気が頭・脳の異常として語られており、それが帽子や王冠とも結びついている。そして、永遠の少年の精神的な分裂や脚・足の傷、オイディプス・コンプレックスと結びついている。
 
サリンジャーはこれに影響を受けて、「バナナフィッシュ」でシーモアは足を見られたと激高した後、こめかみに銃弾を撃ち込むわけです。

4 『リチャード二世』とバナナ・ホール

バナナフィッシュは、バナナのどっさり入っているバナナ穴(banana hole)の中に入って、バナナを食べすぎ、肥って戸口につかえて通れなくなってしまい、二度と穴の外へは出られなくなる。そして、バナナ熱という病気にかかって死んでしまう(29)、とシーモアは語ります。
 
バナナを食べすぎることは、食欲や情欲、物欲、金銭欲、怠惰や慢心、自己愛などで頭がいっぱいになること。狂気、興奮、スリル、快楽などにとらわれて自分を見失うこと。ナルキッソスが鏡を見つめ続けること、イカロスが上昇を続けること、バベルの塔を建てることとも重なります。
 
シェイクスピアの『リチャード二世』で、ヨークは、国民を顧みず、自分ばかり贅沢をしてきた王リチャード二世が失脚する姿を、「いまこそ王は食べすぎた報いに病のときを迎え」(79)と、食べることに例えながら、王冠を脱ぐ時が近いことを予言します。以下は、リチャード二世が王座を追われる場面からの引用。

こめかみをぐるりと囲む虚ろな王冠のなかは、
死神という道化が君臨する宮廷だ、やつはそこに居座って
王の権威を馬鹿にし、王の栄華を嘲笑い、(中略)
虚しい自惚れを吹き込まれ、いい気になって膨れ上がる、(中略)
こうして死神は王をちやほやしたあげく、土壇場になってやってきて、小さな針のひと突きで
この城壁に穴を穿つ、そこで、王様さようなら!

(114)

虚しい自惚れを吹き込まれて膨れ上がる王の頭(ブレイン)と肉体は、自我肥大におちいった永遠の少年の精神の象徴。王冠はそれを締めつけて王を苦しめ、死神という道化はそんな王を嘲笑い、針で穴をあけて王座から引きずり降ろしてしまうのだと、リチャードは嘆く。
 
少々突飛な発想ではありますが、「バナナフィッシュ」でシビルが持っている風船を、自惚れで膨れ上がった頭と重ねて読んでみるのはどうでしょう。ふくれあがった頭を締め付ける王冠はバナナ・ホール。死神という道化とは、シーモアの鏡像や狂気のことであり、虚しい自惚れで鏡を見つめる自制心を失った男を、もう一人の自分=鏡像のシーモアは嘲笑う。そして、小さな針のひと突きのように、エゴでふくれあがった自分のこめかみに銃弾を撃ち込む、と読んでみることもできそうです。
 
以下は、ハムレットが常軌を逸した行動について弁明するセリフ。

もしもハムレットが正気を奪われ
己をなくした時にレアティーズに害を加えたとすれば
それはハムレットの仕業ではない。ハムレットがそれを否定する。
では誰の仕業か? ハムレットの狂気だ。とすれば
ハムレットも被害者の一人。
彼の狂気は哀れなハムレットの敵だ

(258)

「バナナフィッシュ」におけるシーモアも正気を無くしている。狂気は哀れな正気のシーモアの敵。自分の狂気によって殺されてしまったシーモア自身も被害者だという言い方も可能でしょう。
 
そんな狂気が「狂った頭の中で刻々ふくれあがる危険」(155)と表現される『ハムレット』で、オフィーリアは、「鏡のような流れに葉裏を映しているあたり That shows his hoar leaves in the glassy stream.」で「小枝で奇妙な冠を作って」「柳によじ昇り、しだれた枝に花冠を掛けようとした途端」水に落ちて亡くなります。
 
鏡の光、すなわち鏡像に気を取られることが、こめかみを囲む冠のイメージに連なり、頭の重さに耐えきれずに垂れさがる柳の枝の弱さが水死の原因となっているわけですね。柳の弱さはオフィーリアの優しいけれど弱すぎる性質を経由して、ハムレット自身の弱さ、ふとしたきっかけで精神のバランスを崩して悲劇へと向かってしまう永遠の少年の性質を象徴します。
 
そして、むろん、バナナ穴 banana hole は、『キャッチャー』のホールデン  holden の hole、あるいは hole + den 分身のための二つの穴とも結びついているはず(下記参照)。

「バナナフィッシュ」のシーモア・グラスは、自らの精神と肉体を司る、自らの王=リチャード二世。ナルキッソスとして自らの鏡像に気を取られたとき、柳の枝、ライ麦畑で実った穂のように頭ばかりが肥大して、バナナ・ホールから出られなくなり、こめかみにくい込む見えない王冠に締めつけられる苦しさに耐えられず、狂気のなかで、こめかみに銃弾を撃ち込む。シェイクスピアを読み込んでいたに違いないサリンジャーのなかに、そんなイメージがあった可能性も十分にあると思うのです。

今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。
スキをいただけたらうれしいです。

続きはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解21~29のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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