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29_シーモア・グラスとは誰か?_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。



1 境界線としてのガラス

「バナナフィッシュにうってつけの日」の前半で、ミュリエルの母は電話越しに、シーモアが起こした「例の窓の一件 That business with the window.」(15)を精神分析医に相談したと話します。ここに〈ガラス〉という言葉はないのですが、主人公の名前に〈glass〉が入っていること、それがグラス家サーガへと発展していくほど、サリンジャー作品において〈glass 鏡・ガラス・眼鏡〉が重要なモチーフであることから、「窓の一件」も本稿では〈窓ガラス〉のこととして考えたいと思います。
 
詳細は改めてまとめますが、『キャッチャー』でホールデンが住んでいる寮の窓ガラスの描写や、博物館のガラスケース、弟アリーが亡くなったときにホールデンが狂気にとりつかれて割ったガレージの窓ガラスの描写から、サリンジャー作品において、窓ガラスは、その人の内面と外界との境界線や、無垢なものを守る覆い、意識と無意識、此岸と彼岸、現実と虚構を隔てるものとして使われているといえます。

2 脆き者としてのガラス

シェイクスピアの『尺には尺を』では、「傲慢な人間は/つかの間の小さな権威をかさに着て、/自分の本質がガラスのように脆いということも/知らず、まるで怒ったサルのように、天に向かって奇怪な道化を演じ」(66)と語られます。
 
『ハムレット』では、悲劇をもたらす未熟な人間の心の脆さが魚に例えられ、それが他のシェイクスピア作品や「バナナフィッシュ」では、魚や蝋、砂の城にも重ねられることは下記で述べました。ここではそれが〈ガラス glass〉の脆さにも結びつけられている。シーモア・グラス、鏡を見る者という名には、精神的な脆さの意味も含まれているんですね。

さらに『尺には尺を』では、この〈glass〉という単語が、「預言者のように水晶の球を見つめている like a prophet looks in a glass」(64)というセリフと対になっています。この水晶玉は、下記で述べたシビルが腰かけるビーチ・ボールと結びつきます。

3 ガラス窓が割れるとき

バナナフィッシュであるシーモアを待ち受ける運命は、それを映す水晶玉のように脆い。そのことを知っていたからこそ、シーモアは、窓ガラスに映った自分の姿を見て、冷静ではいられなかったのかもしれません。
 
シーモアは、過去、ミュリエルの家族といるときに、窓に映る自分の姿を見た。そして、自分の鏡像に対して何らかの異常な反応を示した、例えば逆上して窓ガラスを割るような行動をとったらしい。
 
そして、そんな窓ガラス=glassを壊すことは、自意識と無意識、現実世界と虚構世界の境界線を破壊することにもつながる。「バナナフィッシュ」のシーモアが正気・実像を失って、狂気・鏡像にのっとられた青年であることは前述の通り。
 
See more glassは〈鏡を見る人〉と同時に、〈ガラス窓を見る人〉という意味にもとれます。ガラス窓は、ときに鏡のように見るものの姿を映し、自意識のさらに奥深くにある無意識の深淵を覗き込む入り口ともなるもの。ナルキッソスが見つめる水面の向こう側、己の鏡像の先には、自分も知らない自分のなかの闇、忘れ去った記憶たちが埋もれている無意識の深淵が広がっているのではないでしょうか。
 
窓を見つめる人=シーモア・グラス=ナルキッソスとは、意識=正気から離れて、自分の心の奥深くを見つめ、それにとらわれてしまう人、無意識=狂気の領域へ引き込まれて戻ってこられなくなってしまう人のことだと思うのです。
 
実像を失い鏡像にとらわれて彼岸に引きずり込まれること、PTSDのフラッシュバックのような症状で、過去の記憶に飲み込まれてしまうことを極端に恐れるシーモアは、逆上して窓を破壊してしまった。けれど、それこそが、逆に冥界の門を開く行為となってしまったのかもしれません。

4 わたしは誰でしょう?

サリンジャーの「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」には下記のような記述があります。

バスルームが一つに子どもが七人というわが家では、キャビネットの鏡面に、細長くなった石鹼の端を濡らして、誰彼に伝言を書き残すという(中略)習慣が、長年にわたって続いていた。(中略)「ウォルト、お前がZ(ズーイのこと)とF(フラニーのこと)を公園に連れていく番だぞ。ぼくは昨日やった。わたしは誰でしょう

(88_太字引用者)

このすぐあとには、ブーブーが鏡面に「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」というサッフォーの詩の一節を、結婚への祝辞として残していることが語られます。サリンジャー作品では、神さま=大工の息子である神話の主人公もまた、次の世代の大工となって、新しい世界を再構築せよという思想が語られているのではないか、という考察については下記で示したとおり。

この考え方がタイトルにもなっている「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」では、「鏡面に mirror」向かって、「わたしは誰でしょう Guess who.」と問いかけた後、つまり自分自身の鏡像に向かって自分とは何者かを問いかけた後に、大工になれという言葉が続けられているんですね。
 
『キャッチャー』読解でもみたように、サリンジャー作品は、神話学者ジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅と重ねて読めます。神話の英雄の旅とは、子どもが象徴的両親から自立し、試練をのりこえて大人へと成長を遂げるイニシエーションの物語でもあります。
 
だから物語の中心テーマは、〈自分とは何か〉を見つけていくことだとも言えるでしょう。それは、ときに〈see more glass〉と鏡を覗き込んで、〈私は誰か?〉ともう一人の自分に問いかけるという形で現れるのではないでしょうか。
 
「私とは誰か?」という問いは、シェイクスピアの『リア王』のテーマでもありますね。劇のはじまりから「俺は誰だ?」と問い続けたリアは、死の間際に、娘コーディリアの亡骸に鏡をあてて絶望する(下記参照)。リアがそのとき鏡の中に見たものは、シーモアに拳銃の引き金を引かせたものと近いのかもしれません。

5 此岸と彼岸の鏡像関係

日本の神話に、世界へ光をもたらす天照大御神が天岩戸に隠れたとき、隙間に鏡を置き、そこに映った自分の姿を貴い神だと思った天照大御神が出てきて、世界は光を取り戻した、というエピソードがあります。ジョーゼフ・キャンベルは、この天岩戸神話について、「鏡は、この世、つまり反射像の世界の象徴である」(G)と説明しています。
 
シェイクスピアが、「芝居が目指すのは、昔も今も、いわば自然に向かって鏡をかかげ、美徳にも不徳にもそれぞれのありのままの姿を示し、時代の実体をくっきりと映し出すことだ」(『ハムレット』_129)、「この世界すべてが一つの舞台、/人はみな男も女も役者にすぎない」(『お気に召すまま』_83)、「人生はたかが歩く影、哀れな役者だ」(『マクベス』_169)と繰り返し記しているのも、よく知られていることですね。
 
美術史家の若桑みどり氏は、「キリスト教は、自然界の背後に、あるいはその根本に、実際に目に見える世界とは別の、観念的な世界があって、自然の事物はそのより真実で普遍的な観念の目に見える形(表象)に過ぎないという思想を基本としている」と述べています(『絵画を読む イコノロジー入門』若桑みどり、ちくま書房、2022年)。
 
キャンベルによれば、古今東西の神話において、神話の世界・彼岸と、現実の世界・此岸はパラレル。さて、いったいどちらが真実の世界で、どちらがその鏡像なのでしょうか。

6 創造を引き起こす鏡

キャンベルは、天岩戸神話の説明をこう続けています。

鏡は、この世、つまり反射像の世界の象徴である。そこで、女神は自分の輝きを見ることに喜びを覚え、その喜びが、顕現、すなわち「創造」という行為を引き起こす

(G_太字引用者)

この鏡は、天照大御神が天岩戸へ引きこもった(神話における英雄の象徴的な死の)後、現実世界へ再び出て行く、つまり再生する際に、新しい世界を再創造するためのきっかけとなるアイテム。天照大神がそこに見たのは、かつての自分が探していた新しい自分の輝き。これから構築しようとする新しい世界の姿を象徴する姿。
 
ユングは精神的に落ち込んだ後や、危機を乗り越えた後にやってくる創造力のようなものを重要視していますね。この発想に基づいて、キャンベルは天岩戸神話を分析している。似たような考え方をサリンジャーも持っていたと思うのです。だからこそ、先に述べたような、大工となって世界を再創造せよという内容を繰り返し記しているのではないでしょうか。
 
すると、天岩戸神話のエピソードは『リア王』や「バナナフィッシュ」のラストを反転させたもののようにも思えてきます。

7 反転する物語

サリンジャーのデビュー二作目、「エディに会いな」は、鏡の前に座る妹と兄の会話劇。この作品の主人公ヘレンもまた、「see more glass」鏡を見る者です。舞台は主人公の女性ヘレンの寝室。鏡台の前に座って赤い髪(『キャッチャー』読解参照)を整えている妹のもとに、兄が訪ねてきます。
 
ヘレンが妻帯者との逢瀬を重ねて、道ならぬ恋愛に現を抜かしているという噂を聞きつけ、兄はそれを心配しているらしい。兄は〈幸せ〉を意味する〈エディ〉という名を持つ知人男性に会いに行けと何度も繰りかえす。つまり、妹に、不毛な恋愛はやめて、幸せになれる恋愛をしろと諭すのですが、妹は話をはぐらかしてばかりで素直に従わない。前半、兄と妹が鏡をとおして互いの様子を眺め、何度か目を合わせる様子が描かれる。後半は妹が兄の足を叩いたり、煙草を吸ったりしながら堂々巡りの会話を続ける。そのあいだ、妹がふざけて兄の声真似をしたり、子どものような言葉遣いをしたりする。兄が帰った後も、妹は妻帯者の男性に電話をかけて、会う約束を取り付けるところで物語は終わります。
 
妹が兄や子どもの声真似をするのは神話でナルキッソスに恋をしたエコーと重ねて読むことができます。さまざまな人間の言葉や声を繰り返す神話のエコーは、『キャッチャー』冒頭でも触れられているディケンズやエリオット、ピンチョンも使っている精神分裂的傾向を持つ人物の表現。子どもの声は精神的に退行しているイメージを喚起しますね。
 
また、主人公の名前〈ヘレン Helen〉は、シェイクスピアの『夏の夜の夢』の倒錯・マゾヒスト的傾向を持つキャラクター〈ヘレナ Helena〉につうじます。

シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』は、まさにこの名の起源となったヘレネが登場する物語。トロイア戦争は女神ヘレネの美しさが原因で起こったといわれており、本来の主役はヘレネといってもよい。けれど、シェイクスピアはこの戯曲で、タイトルの通りヘレネと鏡像関係の〈クレシダ〉とトロイラスの恋物語を通してトロイア戦争を描いているんですね(この作品の読解は改めてまとめます)。戯曲全体が鏡映しになっていて、それがクレシダやヘレネの中にある浮気を何とも思わないような精神的な未熟さ、自分の幸せを自ら台無しにするような倒錯傾向と重なり合うという構成になっている。
 
シェイクスピアもサリンジャーも、複数の作品で鏡や鏡像関係を使って物語を構成する作家であることは良く知られていると思いますが、『トロイラスとクレシダ』は、物語そのものをぐるりと反転させるという大きな仕掛けが施されている。サリンジャーはこれらをヒントに「エディに会いな」を書いている。
 
だから、私は「エディに会いな」もまた、鏡に映して読むべき、つまり、書いてあることをすべて逆さまの意味として読むべき短編だと考えています。この短編の主人公の心の内を鏡に映せば、本当は兄の言うとおりに幸せになりたい。けれど、ひねくれ者だから素直にエディという人物に会いに行くことができない。結局、間違った恋愛を続けてしまう。そんなキャラクターを、サリンジャーは描こうとしているように思うんです。
 
「バナナフィッシュ」がこれと同じで、シーモアは実は生きているのだなどという気はまったくないのですが、サリンジャーのなかには、物語そのものを鏡写しにして逆転させるような発想も確かにあったということは、いちおう押さえておきたい。シーモアがつぶやく一節の引用元、エリオットの『荒地』の有名な冒頭「四月はいちばん残酷な季節だ」もまた、倒錯文学の代表のようなものですよね。
 
死んだシーモアが生き返るようなことはもちろんないにしても、吉報のオリーヴや再生を願うハンカチはさりげなく描きこまれているのだし、バディの手を借りて、後の作品のなかではシーモアは再生する。それは、神話の英雄が象徴的に死んだあと、再生し、次の時代の大工となって、自分なりの世界観を再構築していこうとすることとも結びついているのではないでしょうか。そしてそれは『ナイン・ストーリーズ』全体を貫く輪廻転生的な思想ともつながっているのかもしれません。
 
ちなみに、「エディに会いな」作品で、ヘレンが最後に電話をかけるのもまた、カーペンターという名前の男性。デビュー二作目にして、サリンジャーは自分が書きたいものについてかなり確固としたものを持っていたし、それがグラス家サーガまでほとんどゆらいでいないんですね。
 
例えば、「シーモア-序章-」で〈病める人〉の一人として語られるレオナルド・ダ・ヴィンチは、フロイトからマザー・コンプレックス的な傾向を持っているのではないかと指摘された芸術家。ダ・ヴィンチが鏡文字を使っていたという事実もまた、サリンジャーは興味深いと思っていたいに違いないと思うのです。

8 内なる主

キャンベルは『千の顔をもつ英雄』で、サンスクリットの菩薩には〈内に見える主〉という意味がある、私たちはみな菩薩の姿を鏡に映したものである、と書いています。英雄の神話は「私たちみなの内に隠されている神性をともなう創造と贖罪のイメージを象徴」する。英雄が「探求し、危険を冒して勝ち取った神の力は、実は常に英雄の心の中にあったことが明かされる」(G)。
 
「シーモア・グラス、鏡を見よ」という言葉から始まった「バナナフィッシュにうってつけの日」は、ここで神話的、『ナイン・ストーリーズ』的、さらには『キャッチャー』的でもある円環を描いて同じ言葉に回帰します。鏡の中に映るのは、『キャッチャー』でホールデンが語りかける〈you〉。あるいは、「ズーイ」で語られる、〈太ったおばさん〉。それは他ならぬ読者、あなた自身が鏡を覗き込んだ時に映る、もう一人のあなた。ズーイは言いますよね、太ったおばさんとは神さまのことで、「太ったおばさんじゃない人間なんて、誰一人いないんだよ」(290)と。
 
サリンジャーは確か、バナナを食べすぎるなと警告していたはず。なのにいつの間にか、今日もバナナを食べすぎたと、だぶつく腹の脂肪をつまみながら後悔に苛まれる、欲望まみれの弱くて浅ましい私たちこそが聖なるものだと、ここにきてメッセージはあっさり反転されてしまう。鏡に映したように、さりげなく真逆に。
 
あるときには食欲に負けてバナナを食べすぎ、かと思えば、自分に見とれて餓死したナルキッソスのように、食べることも忘れて恋に現を抜かす。そんな未熟さを克服することなんてほとんど不可能に思えるけれど、それでも、何度でも、凝り固まってしまった価値観を壊して、新たな世界観を創造すべく、大工となって立ち上がること。自らのうちに在る、生きる力そのものを信じること。恥ずかしさが吹っ飛ぶほどまっすぐに、希望を見いだすこと。サリンジャーが書こうとしたのはそういうことなのでは、と私は思います。


今回で、「バナナフィッシュにうってつけの日」読解は、いったん終わります。まだまだ書きたいことはあるのですが、それはまた別の機会に。
 
まだあるんかいっ、という突っ込みが聞こえてきそうですが笑。わかっています、日本語版で二十数ページの短編について、これほどしつこく語ってしまう過剰さもまた、永遠の少年の特徴のひとつ。ホールデンの饒舌と同じ、不安感の裏返しで、だから私はサリンジャーの過剰さに惹かれて、共感するんですね。なんてこともいつかまとめたいのですが笑、きりがないので、このへんで。
 
読んでくださった方、本当にありがとうございました。少しでも楽しんでいただけていたら、うれしいのですが。今後も別の作品の読解を連載していきますので、どうぞよろしくお願いします。


J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解21~29のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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