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09_バナナ魚とは?_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』考察

Q. バナナフィッシュとは何か?
今回は、「バナナフィッシュにうってつけの日」のタイトルにもある、〈バナナフィッシュ〉とは何かを考察したいと思います。
 
本稿の解釈はこう。
A. 現世的な悩みに心を悩ませる、脆く弱いすべての人々のこと。
以下に理由を述べます。



J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

1 魚と漁師

ユングは、夢や神話に現れる「魚は魂の治癒を願う無意識の心」(N)であると書いています。例えばそれは、現世的な領域で、黄色か青かといった相反する価値観に迷う心のことでもあるでしょう。うお座のマークが二匹の対で描かれるように、魚は伝統的に分裂した心の表象でもあるようです。
 
キリスト教徒のあいだでは古くから、イクトゥスという魚のマークが、互いを認め合う秘密の目印として用いられてきたといいます。聖書では、イエスやその弟子たちが漁師や魚として表され、信者もまた魚に例えられているんですね。

以下は『図説 世界シンボル辞典』にある〈魚〉の説明です。

水の中をすみかとする魚は、水が深層心理学において無意識の象徴とされる
深層心理学者のE.エップリは『夢とその解釈』(1943)の中で、「みずからの中で魚という存在に出会うことは、(中略)魂の深層に出会うことである(略)」と述べている。

(ピーダーマン,ハンス、藤代幸一監訳、八坂書房)

神話に倣うサリンジャー作品においても、水の中は陸=此岸に対する彼岸=無意識の世界を意味します。また、〈無意識の心〉としての魚は、抑圧してもなお、水底でうごめくもの、永遠の少年の心を揺るがせるトラウマや過去の記憶ともいえるでしょうか。『キャッチャー』のホールデンがセントラルパークの池で凍り付いている魚であることは下記でみたとおり。

「バナナフィッシュにうってつけの日 A perfect Day for Bananafish」は、後半だけのものとして提出されたとき、「ザ・バナナフィッシュ The Bananafish」というタイトルだったのだそう(B)。水に映った自分の姿にとらわれ、水に落ちて死ぬナルキッソス、永遠の少年という迷える魂=〈魚〉についてシンプルに語った作品だったのかもしれません。鳥の足は細く頼りないけれど、魚にはそもそも足・脚がない。
 
検索してみると、バナナフィッシュは表記からサリンジャーの造語といわれているんですね。同時に、実在するイワシ科の魚とも重なります。この魚には、青銀に光る体に黄色いラインが入っていて、シビルの、実際には黄色いのに、シーモアが青と見間違える水着の色と符合します。

魚を獲る漁夫王・漁師は、エリオットの『荒地』や『キャッチャー』にも記されているモチーフで、足・脚を病む者でもあります。サリンジャー作品では、キャッチされる者=迷える魂=魚と、キャッチする者=救世主=漁夫王・漁師は、いつでも反転可能。シビルがシーモアの方へ行くときに、「漁師館Fisherman’s Pavilionの方へ向かって歩き出」(22)すのは、シーモアが漁師であることを示す表現と読めますね。
 
シーモアはバナナフィッシュ・魚であり、漁師でもあります。「シーモア-序章-」にある、シーモアの「目と目の間はたっぷり離れてい」(230)るという記述も、彼が魚であることを示したものだと思う。
 
『キャッチャー』に出てくるDBの小説のタイトルは「秘密の金魚」だし、冬のセントラルパークの池の中で凍りついている魚たちはホールデンに重ねられるし、シーモアの妹ブーブーは海軍所属の女船乗りで、「小舟のほとりで」はその息子がボートに家出をする一部始終を描いた物語だし、テディは船に乗っていて、水のないプールに落ちる。船に見立てられた浴槽にいるズーイは水槽で熱帯魚を飼っていて、ベッシ―もまた船に例えられる。「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」でバディらが乗った車も船に例えられるし、フラニーはクィーンエリザベス号で船旅中。サリンジャー作品の登場人物、とくにグラス家サーガの家族には、基本的にみな魚であると同時に船乗り(漁師)のイメージがついてまわります。
 
これらはみな、精神的な迷いや傷を抱え治癒を願う者たちの表象。「ズーイ」の冒頭で語り手が自らを船のガイドツアーの案内役に例えているのは、読者もまた船乗りであり、彼が紡ぐ物語が読者の癒しとなるよう願われているからではないでしょうか。
 
シーモアはホテルの部屋で死にますが、その前にシビルに導かれて海に入っています。これを、神話における水死と浄化の意味として読んでもよいでしょう。それは、『シビュラの託宣』のイエスの受難やノアの方舟にも通じるイメージです。

2 波を無視

シェイクスピア作品、それに影響を受けたサリンジャー作品では、暑さと寒さ、愛と憎しみといった二極の間で心が揺らぐことが未熟者のしるしであり、狂気の兆候だと下記で述べました。

シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』では、『圧倒的な戦闘力を持つがゆえに傲慢さが目に余るアキレウスについて、「くだらない癇癪や満ち引きする気分His course and time, his ebbs and flows」「まるでこの戦争の動向すべてが、その潮の動き一つに/かかっているかのよう as if/ The passage and whole carriage of this action/ Rode on his tide.」(98)と相反する価値観の間で揺らぐ未熟な精神状態が、波や潮の満ち引きを使って表現されています。

「バナナフィッシュ」では、シビルの「波が来た」という言葉に、青年(シーモア)が「無視するさ。知らん顔するんだよ」「俗物(スノッブ)二人、波を無視(スナップ)」(柴_32)と答えます。
 
シビルとシーモアの身体を揺さぶるフロリダの海の波は、実像と鏡像に揺らぐシーモアの心の内を象徴している。それは同時に、ミュリエル母娘が夢中になっている俗世間の流行のようなものでもあるでしょう。そんなミュリエルの浅はかさを知りながら、彼女の美しさを愛し、揺らいでいることを自覚しているからこそ、シーモア自身も自分を俗物と茶化している。

儚い流行やブルジョア的な価値観の波に翻弄されるシーモアやミュリエル母娘らはみな、未熟で傲慢な精神をかかえたバナナフィッシュ。でも、今はシビルとともに海の中にいる。「波を無視」とわざわざ声に出して言うことで、心を揺さぶろうとする感情の波に抗おうとしているのかもしれない。サリンジャー作品では、陸=現実世界に対して、海のなかは彼岸世界。二項対立を超越した無意識の深淵。海に入っているシーモアはもう、波に一喜一憂して揺らぐ未熟な心を手放して、死後の世界の方に引き寄せられつつある、という表現なのかもしれません。

3 『ハムレット』の「魚屋」

『ハムレット』では、ハムレットが船で出国し、「水夫のコートを羽織り」(244)船から逃げようとしているころ、オフィーリアが「人魚のように」「水に生まれ水に棲む生き物のよう」(223)に水死します。また、同作の前半には、ハムレットが、オフィーリアとレアティーズの実父で、ハムレットの象徴的父であるポローニアスに向かって「魚屋」(90)といってからかう場面がありますね。
 
当時、魚屋には女郎宿の意味があったともいわれています。そして、別の場面では、ハムレットが恋人オフィーリアに、「尼寺へ行け」と言い放つ。当時、尼寺では売春が行われていたことから、このセリフは「売春婦にでもなれ」という意味にも読めるといいます。
 
作中で、オフィーリアは純粋な女性。先王の死後すぐにクローディアスと再婚したハムレットの母、ガートルードもまた、自らの罪に気づかないほど純粋な心の持ち主、という意味ではオフィーリアと同じ。だけれど、「もろきもの、お前の名は女」(30)というセリフに象徴されるように、『ハムレット』においては、自らの罪深さを自覚しないまま、娼婦のようにふるまえる、本能のままに生きる女性たち(母や恋人)の現実離れした純真さ、無垢すぎる思考、天真爛漫すぎる性質をこそハムレットは恐れ、罵り、嘆く(詳細下記)。

これらのやり取りから見えてくるのは、罪のない恋人を信じられないハムレットの中にある未熟さ。母の無自覚な不貞を責めずにはいられない息子の精神的な〈もろさ〉でもある。恋人や母の純粋さを信じたい気持ちと、不貞を責めたい気持ちで揺れ動く未熟な心は、水着が青か黄色かという表面的な物事に心を惑わされることと同じなんですね。

また、ポローニアスの息子レアティーズは、最後にハムレットと対決して相打ちになる、ハムレットの分身的キャラクター。『ハムレット』解釈の詳細は改めてまとめますが、ここでは、ハムレット、オフィーリア、レアティーズという三人の未熟な若者の父的存在であるポローニアスが〈魚屋〉といわれていること、彼から生まれた子どもたちが〈魚〉に例えられていること。
 
ハムレットが自らについて「堅い堅いこの体、いっそ溶けて/崩れ、露になってしまえばいい」(29)と嘆くのは、太古から語り継がれ、シェイクスピアが参照している神話においては、英雄は死んでこそ成長した姿で再生できるという思想があるから。

「魚屋」の〈魚〉が意味する女郎は、堕落した魂を持つ者の象徴。『ハムレット』で語られる〈魚〉は、死ぬと腐りやすい肉体と、未熟な魂の象徴。無自覚に伴侶を裏切れる罪深い女性たちや、恋人や母をそんな目で見て八つ当たりをする、ハムレットのような未熟でもろい心を持つ男性は、みな魚のように早々に腐って大地に還るべきだ(神話では死んでこそ、成長した姿で再生できるから)という思想があるわけです。
 
『ハムレット』では、未熟者たちが魚に例えられるのと同時に、未熟者の「下劣な欲情」が「燃える血潮の若者には慎みなど蝋(wax)も同然。/その火で溶けても知ったことか」(168)という表現が出てきます。『夏の夜の夢』には「お前(娘のハーミア)は/父の手で蝋の上に型押しされた人形にすぎない」(12)という一節もあり、シェイクスピア作品にはイカロス神話につながる、若者の過剰な自意識や傲慢な精神は激しく燃え上がりやすいけれど、蝋のようにもろく溶けて消えてしまいやすいものでもあるという思想が見られます。そのもろさは、魚の腐りやすさとも結びついているんですね。
 
「バナナフィッシュ」にある、「蝋は好き? Do you like wax?」「大好きだね Very much」(28)というシビルとシーモアの会話はこれらに影響を受けたもの。もろさ、弱さゆえに命を落とすバナナフィッシュ=魚について語った短編だからこそ、一見唐突に思えるこの会話が挟まれているのでしょう。イカロスについては下記参照。

シェイクスピアの『尺には尺を』には「傲慢な人間は/つかの間の小さな権威をかさに着て、/自分の本質がガラスのように脆いということも/知らず、まるで怒ったサルのように、天に向かって奇怪な道化を演じ」(66)という一節があります。『リチャード三世』は鏡や数々の鏡像関係が鍵となる作品ですが、ここにも「俺の王国の土台はもろいガラスだ」(183)という表現がある。
 
シェイクスピア作品において、傲慢で脆い心を抱えた人間=魚=蝋=道化=ガラスは結びついており、これを受けてサリンジャーは、シーモア・グラスや崩れやすい砂の城を描いているんですね。

4 バナナフィッシュ

『ハムレット』の「もろきもの、お前の名は女」というセリフの背後には、聖書において、エヴァが蛇にそそのかされて甘い果実を食べたことから、楽園を追放されたというエピソードがあります。ここでは、女性は誘惑に屈しやすく、男性を誘惑してともに堕落させてしまう罪な存在。シェイクスピアは同作で、女性たちの心の脆さを、ハムレット(が象徴する男性側)の女性不信と重ねて、男性の心の弱さへと投影してもいます(この詳細は改めて)。
 
バナナはエヴァが食べた甘い果実に通じるイメージ。バナナを食べすぎることは、欲望に身を任せて精神的に堕落することであり、娼婦になることと同じ。シーモアがミュリエルを〈一九四八年度のミス魂の売女 Miss Spiritual Tramp〉と呼ぶことがこれにつながっていくのですが、これについては改めて。

シーモアが語るバナナフィッシュは、未熟であるがゆえに、青か黄か、恋人を信じるか否かといった迷いで精神的に不安定になり、誘惑に負け、欲望に身を任せて甘い果実をほおばる堕落した魂の持ち主のこと。未熟者は、波に翻弄され、ノアの方舟の洪水神話のように水流に巻き込まれて海や大地に還り、再生へ導かれる。それが分かっているから、ハムレットは生きるべきか死ぬべきか、シーモアは水に入るべきか否かと真剣に悩むんですね。

今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございました。「スキ」をいただけたらうれしいです。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

■参考文献
N_『ユング自伝2』A.ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子 共訳、みすず書房、1973年

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