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21_大工の息子_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』考察

Q. シビルの姓がカーペンターなのはなぜか?
「バナナフィッシュにうってつけの日」に登場するシビルの姓は「カーペンター」。「大工よ、屋根の梁を高く上げよ  Raise High the Roof Beam, Carpenters」というタイトルの作品をはじめ、〈大工〉はサリンジャー作品でたびたび登場する重要なモチーフ。今回はサリンジャー作品における〈大工〉の意味を考察する。
 
本稿の解釈はこう。
A. 大工の息子もまた、次世代の大工となってより良い世界観を創造せよ、という神話の教えを表現しているのでは。
以下に理由を述べる。



J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

1 大工の息子

サリンジャーはデビュー後、二作目の短編「エディに会いな」でハンソン・カーペンターという名前を使っており、この頃から大工というテーマに意識的だったことがわかる。「エディに会いな」と「バナナフィッシュ」の関連については、[16_魂の売女]でも述べた通り。以降、グラス家サーガまで、〈大工〉のモチーフはさまざまに形を変えながらサリンジャー作品に登場し続ける。
 
『ナイン・ストーリーズ』収録の「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」には、ドイツ語で大工を意味するジンマーマンという名前の人物が二人登場する。一人は歯科医で、ドーミエは作中で8本もの歯を抜かれる。抜歯が伝統的にイニシエーション儀式、フロイトのいう父からの象徴的去勢を意味することは『キャッチャー』読解で述べた通り。また、「ドーミエ」に登場するもう一人のジンマーマンは神父で、これはそのまま象徴的父のイメージに結びつく。
 
以前も書いたが、「ドーミエ」は象徴的父母息子の三角関係が、サリンジャー作品のなかでは比較的はっきり示されている作品。短編の中に同じ名前の人物が二人も登場するのは、もちろんあえてのことであり、作中で偽名を使って地獄めぐりをしているドーミエは精神が分裂していて、実父と義父と重なるように、歯科医と神父という二人の象徴的父による支配から逃れようともがいている(詳細は同作読解にて)。
 
いうまでもなく、聖書においてイエス・キリストの地上での父ヨセフは大工。また、キリスト教の世界創世神話を描いた宗教絵画では、神がコンパスなどの大工道具を持ち、世界を創った様子が描かれているものがある(S)。Wikipediaによれば、イカロスの父ダイダロスもまた大工・職人だという。これらから推測できるのは、神話の英雄=永遠の少年は伝統的に大工の息子として語られてきた伝統があるらしいということだ。おそらくサリンジャーはその伝統を踏まえて、自作の主人公たちを大工の息子として描いている。

2 『テンペスト』の大工と息子

シェイクスピアの『テンペスト』から、「バナナフィッシュ」への影響については下記で述べたとおり。

『テンペスト』では、もともとミラノ公国の君主だったプロスペローが陰謀によって失脚させられ、島流しに遭った後、無人島で自分の生活を一から立て直し、魔術使いになる。これを神話に当てはめるなら、世界の崩壊(洪水などの浄化やバベルの塔の崩壊)を経験した英雄プロスペローが、何もない大地に自ら大工となって、一から自分の世界を再創造する話といえるだろう。娘ミランダを育てながら無人島で生き抜いたプロスペローは、試練を克服することで、英雄から父へ、同時に大工へと成長を遂げたわけだ。
 
訳者松岡氏は、「私が作り上げた人間どもを(王座を乗っ取った弟が)作り直し」(20)というセリフに「天地創造にも通じるニュアンスがありはしないか」という注釈をつけている。直接にはミラノ公国についていったセリフだが、暗にプロスペローが無人島に築いた新世界を指してもいると読める。同作には、無人島を理想の楽園にしたいというゴンザーローの願望や、「城壁ばかりか街をひとつ作りだしてしまう」(58)奇跡の〈竪琴〉についての言及もある。
 
これらを合わせて読むと、『テンペスト』では、すべてを失って絶望の淵に突き落とされながらも、命からがらたどり着いた何もない場所に、一から自分の世界を新たに創造しなおしたプロスペローこそが本来の王にふさわしく、そんな力こそが究極の〈魔術〉なのだという思想が表現されているようにも思えてくる。
 
『テンペスト』で語られる〈竪琴〉はむろんオルフェウスを連想させる楽器で、それは錬金術的な力の象徴。プロスペローが手にしている魔法の杖と同じで、それは新たな国をひとつ創造するほどの力を持つアイテムである。下記で竪琴、オーシャン・ルームで奏でられるピアノの音色はシーモアの分裂した精神を癒して統合するものだと述べたが、精神を統合することは、その後、英雄が再生して新しい世界を創造することへ結びつくわけだ。

さらに、同作ではファーディナンドが、プロスペローの娘と結婚して義理の息子となる。そのことは、ファーディナンドが「私は大公(プロスペロー)から/二つ目の命を授かり、この方(プロスペローの娘ミランダ)が/大公を私の二人目の父にしてくれたのです」と語ること、ファーディナンドの実父が「私はこの娘御(ミランダ)の二人目の父か」(152)と受けることで強調される。
 
そして、ミランダと結婚したファーディナンドは、無人島で丸太を運びながら、労働の先にには「豊かな実りがあるものだ」(90)「働けば働くほど思いが湧いてくる」(90)と新しい家族のために働く喜びを語る。大工の息子ファーディナンドはここで、労働によって自分の家族を養う一人前の男性へ、同時に自らが新しい家族のために家を建てる大工へと成長を遂げているわけだ。
 
ここで示されているのは、大工の息子=神話の英雄もまた、成長し、大人になって家庭を持ったなら、今度は自らが大工となって、つまり父の仕事を引きついで、新たな世界を創造せよ、という思想ではないだろうか。前の世代から教えられた内なる世界観は、神話のなかで洪水や炎によって浄化される。あるいは、バベルの塔のように崩壊する。まっさらになった大地に、前よりも良く、自分らしい世界観を一から再構築せよというのが、伝統的に語られてきたメッセージではないだろうか。

『トロイラスとクレシダ』で、楽園を思わせる庭で恋が実り口づけをする若い二人に、象徴的父ともいえる叔父が「そこに家を建てろ、大工よ Build there, carpenter」(122)と呼びかけるのも同じこと。豆の片割れ同士=半人前だった男女が結ばれて家庭を持とうとするとき、彼等は大工となって新しい家を建てる。それは、新しい世界のはじまりなのである。
 
サリンジャーはこの思想に共感して、自作にカーペンターやジンマーマンという名の人物を描きこみ、「バナナフィッシュ」では、神託、象徴的父からの言葉を告げるシビルの姓をカーペンターにしたのではないだろうか。
 
例えば、シェイクスピアの『夏の夜の夢』に出てくる大工、機屋、指物師ら、六人(数字の意味は前述のとおり)の職人たちもまた、(内面)世界を再創造する際に必要な者たちとして語ることができる(詳細は別途まとめる)。また、『ハムレット』で、墓掘りたちが骨を掘り出しながら、石屋や大工(227)の話をする場面にも、同じ意味を読み取れる。ハムレットやオフィーリアら、主要な登場人物は同戯曲の最後に死んでしまうが、そこには何らかの形での再生、新たな創造の予感がはらまれているように思うのだ。『リア王』で描かれる赤ん坊のイメージ、『ロミオとジュリエット』で描かれる籠など、シェイクスピアの悲劇には、こういった再生や世界再創造を思わせるモチーフが散りばめられているものが少なくない。
 
サリンジャーが「バナナフィッシュ」でシビルの姓をカーペンターにしたのも、これに倣ったもののように思える。「バナナフィッシュ」の最後にシーモアは死んでしまう。ひとつの世界は崩壊してしまうが、その先には何らかの形での再生や創造が願われている。あるいはそれは、読者のなかで芽吹く何かなのかもしれない。

3 柱と梁

サリンジャーの「ブルー・メロディー」には、「消防車のはしご車みたいにでっかい」(131)という例えと、消防士たちが木にのぼった子猫を下ろそうとする描写(135)の間に、主人公の少年と少女が建設中の家の高い梁に座って心を通わせる場面(132)が描かれている。これが、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ Raise High the Roof Beam, Carpenters」のタイトルへと発展している。これは古代ギリシャの女性詩人サッフォーの作品の一節から引用されたもの。

また、『キャッチャー』のもととなった短編「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」では、ホールデンが、サリーに電話をかけて、クリスマスの「ツリーの飾りつけをしてあげる」と三度繰り返す場面がひとつのクライマックスとなっており、『キャッチャー』にもこの場面はそのまま引き継がれている(255)。さらに、街でトラックの荷台から大きなクリスマス・ツリーが下ろされるのを眺める場面(333)も加えられている。

『キャッチャー』読解で、同作にはイエスの受難のエピソードやその起源といわれる古代エジプトの豊饒神話、オシリスの物語が重ねられていると述べた。オシリスの豊饒祭のクライマックスはジェド柱という梯子が建立され、オシリスの息子ホルスが梯子を上って太陽神(象徴的父)と一体化する場面であるという(『キャッチャー』のオシリス神話については改めて)(Q)。
 
オシリス神話がイエスの受難の起源なら、ジェド柱はキリスト教の十字架、クリスマス・ツリーともつながっているのだろう。十字架は息子が大工となって新しい世界を創造する際の〈柱〉と〈梁〉であり、それは父と息子、夫と妻、あるいは正気と狂気、善と悪、聖と俗といった、二極に分裂した精神が交差し統合されることの象徴ともいえるのではないだろうか。
 
それは、『テンペスト』で語られる以下のセリフにも結びつく。

不滅の柱に
金文字でこう記しましょう。「とある船旅のこと、
クラリベルはチュニスにおいて夫を得、
兄ファーディナンドはその身を失いし海にて
妻を得たり。プロスペローは貧しき島にて
自らの公国を取り戻し、われら一同
正気を失いしときに我にかえりぬ」

(153)

サリンジャーはこれを踏まえて、複数の作品で〈柱〉と〈梁〉について繰り返し語っているのだろう。「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」とは、第一には婿を迎えるミュリエル側の一族に向かって発せられた言葉だが、深層ではシーモアやバディに向かって、あるいは読者に向けて、自らが大工となって内面により高く大きな精神の神殿を築け、今持っている世界観を壊し、より成長した姿で生まれ変われと呼びかける言葉ではないだろうか。

この〈柱〉は、「バナナフィッシュ」前半でシーモアが何かしたらしいことが仄めかされる〈木〉、後半で語られる『ちびくろサンボ』で虎がぐるぐる回る〈木〉に結びつく。これについては改めて。
 
また、「コネティカットのひょこひょこおじさん」「エズメに捧ぐ」「ズーイ」「シーモア-序章-」では、大工が建てる〈柱〉や〈梁〉がバベルの塔の崩壊と結びつき、さらに発展した形で語られていく。この続きは各作品読解にて。

4 バベルの円環

『テンペスト』で、ファーディナンドとミランダ夫妻は、クジラの腹を思わせる洞窟の中でチェスゲームをしている(150)。これが戦争による領土争いを意味することはしばしば指摘されること。チェスゲームは、エリオットの『荒地』にも使われている、二極の価値観に揺らぐ未熟な精神状態の表現であり、サリンジャーは『キャッチャー』でそれを子供向けのチェッカーにアレンジして使っていることは、『キャッチャー』読解で示したとおり。
 
サリンジャーの「ブルー・メロディー」の最後には、子どもの頃に少年少女が遊び場にしていた家に、彼らが大人になった今、「ハベル」という名前の人物が住んでいると語られる。ハベルさんがバベルの塔を意味し、それがもろく崩れやすい人間の傲慢で過剰な心、砂の城と重なることは下記で示したとおり。

シェイクスピアもサリンジャーも、息子世代は親の世代から与えられた価値観を壊し、それを乗り越えて新しい世界を構築せよ、という神話の教えを描いている。けれど同時に、人々が創造する世界はいつでも二項対立に惑わされ、欲望にまみれて領土を奪い合う、バベルの塔のように思い上がった虚構の砂の城、「ブルー・メロディー」で描かれたような浅はかな差別によって人が命を落とすような愚かなイリュージョンに満ちていてほとんど成長がない、という悲観的な感覚もしっかり描きこまれている。バナナを食べすぎて穴から出られなくなり命を落とすような愚かさを乗り越えるのは簡単ではなく、世界を何度壊して再構築しなおしたところで、同じ場所をぐるぐる回っている回転木馬(下記参照)の不毛なレースが続いていくだけなのかもしれない、そんな無力感が漂っている。

それでも。それでも次こそは、とファーディナンドは丸太を運び、ホールデンはクリスマス・ツリーを飾るのを手伝うと祈るように三度繰り返す。「バナナフィッシュ」で、シーモアはシビルに「ミス・カーペンター。お言葉ですが。手前、己の役割はしかとわきまえております Miss Carpenter. Please. I know my business.」(柴_31)と、自分が成すべきことを成す——たとえ今日死ぬ運命にあるとしても、そのあと神話のように何らかの形で別の命の一部として再生できたなら、大工の息子として希望のある世界を再構築するべく務める——意志を示す。そこでは、悲観と楽観、絶望と希望もまた道化の足もとのように揺らぎ続けている。

補足しておくと、このあたりの読み方、感じ方はもしかすると各々の信仰などによっても変わってくるのかもしれない。参考文献などからお察しの方もいると思うのだけれど、私は特定の信仰を持たず、古今東西の神さまについてもほとんど考えたことがないまま大人になった、日本人にはまあまあいるのではないかと思われるタイプの人(みんながそうしているからというだけの理由でクリスマスにはチキンとケーキを食べ、お正月には神社かお寺に初詣に行く)。なので、あくまでそういう者の一人が読んだ感想、ということでご容赦いただければ幸いです。

5 神殿を焼き払え

以下はシェイクスピアの『テンペスト』で、ミランダがファーディナンドを見初める場面。

これほどの神殿に悪いものが棲みつくはずがない。
悪霊がこんなに美しい家を持ったとしても
いいものが住もうと努めるでしょう
There’s nothing ill can dwell in such a temple.
If the ill spirit have so fair a house,
Good things will strive to dwell with ’t.

(48_太字引用者)

『ハムレット』では王子の成長についてこう語られる。

体という寺院が大きくなるにつれ、
中で行われる精神や魂の礼拝も幅広いものになる
as this temple waxes,
The inward service of the mind and soul
Grows wide withal.

(40_太字引用者)

『マクベス』で、王が殺された場面にはこうある。

神を怖れぬ殺人が神聖な御堂の扉を
打ち壊し、そこに納められていた
命を奪ったのだ!
Most sacrilegious murder hath broke ope
The Lord’s anointed temple and stole thence
The life o’ th’ building.

(63_太字引用者)

リルケの『オルフォイスへのソネット』にはこうある。

そこに一本の樹がのびた おお 純粋な乗り超えよ (中略)
現れたのだ 新たなはじまりと合図と変身が(中略)
おんみは建てたのだ 彼等のために耳のなかの神殿
da schufst du ihnen Tempel im Gehör

(182_太字引用者)

そして、「バナナフィッシュ」の最後の一行はこう。

自分の右のこめかみを撃ち抜いた
fired a bullet through his right temple

(32_太字引用者)

サリンジャーが参照する先人たちの作品で、大工の息子が大工となって新たに構築する世界観、神聖な魂や思考、一人ひとりの世界観をおさめる肉体や頭は、西洋の言葉で〈神殿 temple〉と表現されており、シーモアが撃ち抜いた〈こめかみ temple〉と同じ言葉。

神話において、水死・雨・洪水が浄化を意味することは下記で述べた。

神話ではまた、炎で建物や大地が焼き払われることにも浄化の意味があり、水死・雨・洪水と同じくらいしばしば登場する。イカロスの蜜蝋でできた翼が溶けるのもその一例といえるだろう。

また、シビルがシーモアに「あたしは蝋燭をかじるのが好き」(28)というセリフが、内面に地獄を抱えているシーモアに、巫女が、精神的な世界を炎で浄化せよと告げているのではないかという考察は下記で述べた。これは、『ハムレット』で語られる地獄の業火や、エリオットの『荒地』における仏陀の火の説教「燃える燃える燃える燃えている」にも通じるだろう。

自分の内側に築いてきた自我や世界観、思考体系を象徴的な洪水や炎によって浄化し、まっさらになった大地に自らが大工となって新たにより良い自意識や、ひと回り大きい世界観を築いていくべきだというのが神話の教えであり、サリンジャー作品に描きこまれた思想。ならば、シーモアが〈銃を撃ったfired〉という言葉には、神話における炎による浄化のイメージが重ねられているのかもしれない。彼は〈こめかみ=魂の神殿 temple〉を焼き払うことで、自らの内にある汚れを浄化しようとしたのではないだろうか(下記参考)。

炎による浄化と世界再創造のモチーフは、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」で、戦争によって焼き払われた大地の再生を願うような描写と絡められながら語り直されていく(詳しくは同作品読解にて)。

6『シビュラの託宣』まとめ

世界創造は『シビュラの託宣』のエピソードのひとつでもある(下記参照)。

ここまでの読解で、「バナナフィッシュ」は後半だけで、かなり凝縮した形ではあるが、『シビュラの託宣』の内容、バベルの塔の崩壊(シビルが砂の城を踏む)、アダムとエヴァのエデンの園からの追放(バナナを食べすぎて楽園フロリダから精神的地獄へ転落する)、イエスの受難(海へ入って浄化されたのち死に、復活が願われる)、ノアの箱舟(水死・洪水とオリーヴの枝)、天地創造(カーペンター氏)がひととおり盛り込まれていることがお分かりいただけたのではないだろうか。もしかすると、サリンジャーが構想した「ザ・バナナフィッシュ The Bananafish」という作品の最初のアイデアは、このあたりにもあるのかもしれない。

「バナナフィッシュにうってつけの日」が、もともとは後半だけの作品だったらしいことは、一回目の記事で触れたとおり。前半部分の追加が、本作をより複雑で深みのあるものにしていることは確かだ。シーモアの自殺の原因が戦争体験と結び付けられ、一見説明がつきやすくなっているように思える面もある。けれど同時に、前半でミュリエルの存在感が増し、広告マン、オルフェウス、帽子屋など新たなテーマが付け加えられたことによって、当初想定されていた作品のテーマは分かりづらくなっているようにも思える。もしも本作が当初描かれた後半のみの形で発表されていたら、これがナルキッソスやイカロス、『シビュラの託宣』をもとに書かれた作品であることはもっと容易に読み解かれていただろうし、それはグラス家サーガはじめ、他のサリンジャー作品の読解をも容易にしただろう。そして、サリンジャーという作家の評価も、良くも悪くも、今とはかなり異なるものになっていたかもしれない。
 
と、少々まとめっぽいことを書いてしまいましたが、「バナナフィッシュ」読解の連載はもう少し続きます。次回もお楽しみに。

ここまでお読みいただきありがとうございます。
「スキ」をいただけたらうれしいです。

続きはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解21~29のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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