18_オルフェウス_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』解釈
Q. オーシャンルームで奏でられる音楽とは?
「バナナフィッシュにうってつけの日」の前半、ミュリエルは電話で母に、シーモアは「ここに来てから二晩とも」「オーシャン・ルーム」で「ピアノを弾いている」(17)という。この音楽とは何だろうか。
本稿の解釈はこう。
A. オルフェウスの竪琴。
以下に理由を述べる。
J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
1 シェイクスピア作品における音楽の両義性
まずは、シェイクスピア作品における音楽の意味からみていきたい。
シェイクスピア作品では、緑色や、天使たち・魔女たちの輪踊りが、ときに人の心を分裂させ、ときには病んでバラバラになった人の心を統合させる両義的な意味を持つことは下記で述べた。
『尺には尺を』で「音楽には魔力があり、それが/悪しきものを善く見せ、善きものを害あるものに変える」(123)と語られるように、『リチャード二世』で王位を奪われ、妻とも引き離されて投獄され、狂気のなかで死へと向かっていくリチャード二世が、「この音楽、気が狂いそうだ! やめろ、もう。/音楽が狂人を正気に戻すこともあるだろうが、/私に言わせれば、いまの音楽は賢者をも狂わしかねない」(199)と訴えるように、シェイクスピア作品においては、音楽もまた同じはたらきをする。ときに人の心を狂わせ、ときには病んだ心を癒して正気に戻す、両義的な意味を持つ。
◆ カーニバル=狂気に誘う音楽
『十二夜』が「音楽が恋を育む食べ物なら、続けてくれ」(9)という言葉から始まるように、『テンペスト』で、精霊エアリエルがいつも音楽とともに登場し(65・73・105)キャリバンが「この島はいろんな音や、いい音色や歌でいっぱいなんだ、楽しいだけで害はない、/ときには、何千もの楽器の糸を弾くような調べが/耳元に響く」(106)と語るように、シェイクスピア作品での音楽はしばしば、ミハイル・バフチンがドストエフスキー論で〈カーニバル〉と述べた状態にあることを示す。
シェイクスピア作品・サリンジャー作品において、カーニバル化することは、主要な登場人物が道化になること、狂気に陥ることと同義であると下記で述べた。
喜劇では明るい形で、悲劇では暗い形(ハムレットの憂鬱症など)で現れるが、普段の常識的な価値観や秩序が破壊されて、空間が混沌や混乱による非日常に変えられるという意味では、カーニバルと狂気は同じこと。『オセロー』で、街路でカーニバルの布告がなされた直後に、「自制心を大事にしよう、浮かれ騒ぎが分別の域を超えてはまずいからな」(77)といわれるように、カーニバルは狂気のはじまりで、それは自制心を失うことにつながる。それは、心が分裂し、正気や理性を失って、狂気や本能にのっとられること、意識を失って無意識の世界へ下降すること、彼岸へ引き寄せられることへもつながる。『ハムレット』で気がふれたオフィーリアが歌をうたいながら自殺してしまうのもこれにあたる。これらが、音楽が心を狂わせ、分裂させる例といえるだろう。
◆ 心を癒す音楽
『テンペスト』では、冒頭、嵐によって航海中の船が真っ二つになる。これが、離れ離れになって憎みあい、荒廃している兄弟の分裂した精神状態と重なり、物語が展開していく。
そして、物語の最後に、プロスペローは「天に音楽を/奏でさせ(中略)/楽の音の妙なる力で、私のもくろみどおり/みなを正気に戻したあかつきには」(141)魔法を捨てて、自分も現世へ戻ろう、「厳かな調べは何よりの慰め、/乱れた心を鎮め、おまえの脳髄をいやしてくれよう」(142)と語る。プロスペローはここで魔法の音楽によって自分を裏切った弟を赦し、分裂した心を統合し、兄弟は和解して、精神的な充実がもたらされる。これは、心を癒す音楽の例といえるだろう。
2 オルフェウス
「バナナフィッシュ」で、シーモアが「今世紀唯一の大詩人」(14)というリルケの代表作といえば「オルフェウスへのソネット」。オルフェウス神話のあらすじはこう。
森の中で蛇に噛まれて死んでしまった妻エウリディケを奪還するために、夫オルフェウスは冥界へ赴き、冥界の王夫婦の前で竪琴を弾く。その音色に心を動かされた冥界の王は、エウリュディケの救出を許可する。しかし、オルフェウスは後ろを振り返ってしまったことで妻の奪還に失敗し、ひとり現世に帰る。そして、殺されて、八つ裂きにされてしまう。
オルフェウスもまた、神話における永遠の少年の代表的なキャラクター。八つ裂きにされてしまうところなどは、『キャッチャー』でホールデンに重ねられていたオシリスにも近い。
3 シェイクスピアが描くオルフェウス
『ヴェニスの商人』の後半、邸で待っていたロレンゾーらが、問題を解決して帰ってくるポーシャらを、音楽を奏でながら出迎える場面にはこうある。
見てごらん、気ままに跳ね回る牛や
若々しい野育ちの仔馬の群れを。
みんな狂ったように跳び回り、大声で吠えたりいなないたり、
もって生まれた熱い血がたぎってるからだ——
ところがふとトランペットの音が聞こえたり
何か心地よい音楽が耳に触れると、
言い合わせたように一斉に立ち止まり
猛々しい目つきも和やかな眼差しに変わる、
音楽の妙なる力の働きだ。だからこそ詩人(オウィディウスのこと)は
オルフェウスが木や石や水の流れを引き寄せると語ったのだ。
どれほど鈍く、堅く、凶暴なものも
音楽を聴いているときだけは性質が変わる。
熱い血がたぎるのは、あふれる生命力で己の限界に挑もうとするイカロスのような状態のことで、若者特有のエネルギーの輝きであると同時に、未熟者が陥りやすい狂気の原因でもある。ここでは、オルフェウスの音楽が、過剰に燃え上がりがちな永遠の少年=神話の英雄の精神を癒すものとして語られている。
『夏の夜の夢』に描きこまれた余興の一覧はこう。
「ケンタウロス族との闘い、竪琴の伴奏にて吟ずるはアテネの宦官」
「酔いしれしバッコスの信女たちの狂乱、怒りのあまりトラキアの詩人オルフェウスを八つ裂きにせし物語」
「碩学を悼む九人のミューズ」
神話の伝統的なモチーフを茶化したおした爆笑ものの一節にも、死と再生、人間と獣、あるいは男女といった対立物を、オルフェウスの竪琴によって一致させるという錬金術的な発想、カーニバルの狂気の中で八つ裂きにされたオルフェウスが豊饒祭のいけにえになるという発想、それを九という数字(下記リンク[11_「6」の意味]参照)が再生へと導くという思想がさりげなく表現されている。
4 シーモアが弾くピアノ
サリンジャーがこれらを参照していたことは間違いなく、「ズーイ」は明らかにオルフェウス神話を念頭に置かれて書かれた作品であり(ズーイが精神的に冥界下りしたフラニーを迎えに行って、ピアノを弾き、犬みたいに吠え、振り返って失敗する。詳しくは「ズーイ」読解にて)、「バナナフィッシュ」を構想するときにも同じ神話が頭にあった可能性は高いだろう。
「バナナフィッシュ」の後半で、シーモアは名前を失った「若い男」であり、それは、彼が鏡像世界・彼岸・冥界にいることを意味すると下記で述べた。
前半、ミュリエルは電話で母に、シーモアは「ここに来てから二晩とも」「オーシャン・ルーム」で「ピアノを弾いている」(17)という。「二晩とも」という表現は、『ハムレット』の冒頭で、先王の幽霊が「二晩続けて」現れるのと同じ。実像と鏡像、正気と狂気に分裂することが地獄めぐりのはじまりであることは下記で述べた通りで、「二晩」はそのしるし。『ハムレット』で、「地獄の口があんぐり口をあけ」(37)「墓はあんぐり口を開け」(153)「地獄の恐ろしさを告げるため、/そこから抜け出していらしたばかりという」(75)様子で地獄めぐりをしている王子と同じ状態である。
サリンジャー作品において、海のなかは彼岸・冥界・無意識の深淵と結びついているから、シーモアが〈オーシャン・ルーム〉にいることもまた、彼が現実世界・此岸から離れて彼岸、あるいは無意識の世界へ下降していることを示す。冥界で音楽を演奏するシーモアはオルフェウスと重なる。
繰り返すが、シーモアが鏡の世界にいるということは、実像=正気を失い、鏡像=狂気に乗っ取られている状態であるということ。オルフェウスが妻を奪還するために竪琴を奏でたのと同じように、「バナナフィッシュ」のシーモアは、自分の正気を取り戻すために、言い換えれば、実像と鏡像、正気と狂気に分裂した心を癒し、統合するために、ピアノを弾いているのではないだろうか。
同じ時間、ミュリエルは、精神分析医夫婦とバーでお酒を飲んでいる。「すごくやかましかった」(18)と強調されるこのバーの喧騒は、カーニバルに誘いだす音楽といえるだろう。お酒とともに、人々を楽しませるリゾート地のバーの音楽は、適度なら楽しいが、バナナと同じように過剰になれば、人を狂気に誘い込む危険をはらんでいるのではないだろうか。
また、精神分析医の夫婦は、オルフェウス神話における冥界の王夫妻と重なる。オルフェウス(シーモア)&エウリュディケ(ミュリエル=シーモアの分身)を、息子(永遠の少年)とし、冥界の王夫妻を象徴的両親と考えると、ここにオイディプス・コンプレックスを形成する三角関係が出来上がる。
リルケの『オルフォイスへのソネット』にはこうある。
「真実のなかで歌うのは それとは別な息吹だ」
「オルフォイスが歌う」
「沈黙の獣たちがひしめいて」
「解き放たれた森の中から塒(ねぐら)や巣の中から 走りでた」
「ただ聴き入っていた」
あわせて読むと、シーモア自身の奥深く、無意識に抑圧して自分でも見失っていた過去の記憶やトラウマ(幼少期から戦時中に負ったものまで広くとらえたい)が、いま目を覚まし、シーモアのピアノに耳をすませている様子が浮かび上がってくるようではないだろうか。(脱線しますがこのあたりは村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と一緒に考えるのもしびれますね、音楽のない世界に手風琴の和音が響いて、一角獣が目を覚ますイメージと響きあう)
ミュリエルがいるバーのにぎやかさとは対照的に、オルフェウス=シーモアが奏でるのは、現実世界ではほとんど聞こえないような、彼岸=海の底でだけ響く音楽。その音色によって、無意識に抑圧されている獣としてのトラウマや記憶の断片、言語が呼び覚まされ、解放され、意識の側に浮上してくる。それらは、シーモアが今抱えている精神的な分裂や狂気を乗り越えて、正気を取り戻すために必要なものなのだ。
オルフェウス神話において、竪琴の音色は錬金術の賢者の石。無意識の深淵に響く特別な音楽によって、トラウマの一部を目覚めさせ、意識の側に浮上させ包摂する役割を果たす。ユング派の神話学・精神分析学と照らし合わせれば、これが聖杯伝説の物語で、英雄が彼岸へ旅に出て試練を乗り越え、〈聖杯〉を手に入れて、意識の側へ帰ってくる動きと重なる。
シーモアはピアノを弾くことで精神の傷を癒し、正気を取り戻そうとしていると思われるが、結末を見る限り、その試みはうまくいかなかったようだ。
ところで、アイルランドの紋章は竪琴で、ダブリンにあるトリニティ・カレッジ(三位一体の名を冠した学府)の紋章と同じ。ダブリンは「ズーイ」読解でポイントとなる地名。シェイクスピアの『マクベス』で、一部の人々が争いを避けてアイルランドへ逃げるなか、イングランドとスコットランドの侍医が登場し、その統合が仄めかされることとも、無関係ではないはず。
5 欲張りなのもまた神話
ここまでの読解で、シーモア・グラスはナルキッソスでイカロスでイエス・キリストでオイディプスで道化でハムレットでもあると述べてきた。その上、オルフェウスまで重ねるなんて、欲張りすぎだと思われるかもしれない。が、欲張りなのは私ではなくサリンジャーで(笑)、サリンジャーもまたシェイクスピアやエリオットら先人たちの真似をしているだけ。
そして、この欲張りぶりも読解の一つのポイント。サリンジャーは、西洋東洋ふくめ、世界のさまざまな地域で多様にアレンジされて語り継がれてきた神話や昔話の中に、似たようなキャラクターやストーリーが見られる現象、ユングのいう集合的無意識や神話の元型に共感していた人。そして、集合的無意識や神話の元型を表現した作品(文学に限らず、音楽、絵画、彫刻、映画、その他すべてにおいて)こそが芸術であると考えていた人(こう考えられる理由については改めて)。神話の元型との共通項をシェイクスピアやエリオットら、自分の好きな文学作品にも見出して、自分もそういうモチーフを使って、そこに実体験や当時の風俗を織り交ぜて、独自に語り直すことが作家としての使命だと信じていた人だと思う。それこそが自分の文学だと考えて、一つひとつの言葉に、神話や先人の作品にある膨大なイメージを凝縮して、作品を仕上げている(ピンチョンもそういう書き方ですね、だから似ているといわれる、同一人物だという都市伝説があったこと、今の若い人はもう知らないのかもしれないけど)。
というのは、当方の読解が少々(?)混乱気味で欲張りで脱線だらけになってしまう言い訳でもあって、学校のレポートなんかでこんな書き方をしたら間違いなく減点されるし、話題を絞ってスマートにまとめていくのが読む方への礼儀だということもわかってはいる。のだけれど、多様な要素が入り混じって流動的につながり合い、複雑に絡み合っているような作品を、できるだけ壊すことなくそのまま受け取りたい、可能な限り混沌のスープみたいなもの(これがシーモアとシビルが話す『ちびくろサンボ』につながる、続きは[22_バターになる虎]にて)のままで捉えてみたい、という欲張りな感情に抗えないまま見切り発車して今に至っておりまして・苦笑。
『キャッチャー』ではホールデンが、スピーチの授業で話題がわき道にそれてしまって減点される同級生について語り、単一化・簡略化できないという態度でしか表現できないものごとだってあるんじゃないかと力説する場面がある(313)。サリンジャー作品にはそういう傾向が多分にあって、それを解体・整理して理解したいという感情と、すっきり整理しちゃったら台無しじゃないか、みたいな感情との二極の間で揺らぎつづけながら無茶な読解を試みているという、まあ、白状すればそんな感じで、悪いクセだと自覚しつつ直らないんですよね、foolだから。というわけで、読みにくくて恐縮ですが、新しい発見もいくつかあると思うので、引き続きお楽しみいただければうれしいし、何かご要望などありましたらお寄せいただければありがたいです。
さて、文庫本の解説で河合祥一郎氏が「『ハムレット』の批評家は狂っているのか、それとも狂っているふりをしているだけか」というオスカー・ワイルドの言葉を引用されていますが(『ドリアン・グレイの肖像』というダブル文学を書いた人がこれを言ったのが面白いというか、やはりというべきか、さすがに鋭いですよね)。サリンジャー流にいうなら、現実世界への意識が希薄になって、物語の世界=集合的無意識の方に気持ちを持っていかれてしまう人というのは、作家であれ読者であれ、みなナルキッソス的な傾向が強くて少々狂っている、ということになる。
シェイクスピアやサリンジャー読解にはまると、何しろ世界中の神話や昔話とつながってどこまでも広がってしまうので、面倒くさくて楽しくて、きりがなくて。それが個人の記憶やトラウマやコンプレックスみたいなものとも結びついてしまうので、まあ、狂うというか、沼るわけです。それも外側の何かにではなく、自分の内側に沼るから病が深い。『フラニー&ズーイ』の「僕はまだヨリックの頭蓋骨に夢中になっている」(286)という言葉には、サリンジャー自身もシェイクスピア狂だという含みもあるのではないかと。共感してくださる方、きっといると思うんですが。
今回はここまで。「スキ」をいただけたらうれしいです。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
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