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19_首が危ない_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解


Q. シーモアが襟に手をあてるのはなぜか?

「バナナフィッシュにうってつけの日」の後半、シビルがシーモアのところへやってきて、声をかけるシーンはこうはじまる。

「海に入るの、もっと鏡見る(See more glass)?」とシビルは言った。
若い男は身を硬くした。右手がさっと、パイル地のローブの折り襟に行った。

(柴_24)

「若い男」はシーモアのこと。今回は彼のこの仕草の意味を考えたい。
本稿の解釈はこう。
A. オルフェウスのように首を切られて死ぬことを恐れたから。
以下に理由を述べる。




J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

1 オルフェウスの首

前回(下記)「バナナフィッシュ」のシーモアはオルフェウスだと述べた。

「ズーイ」では、ズーイがオルフェウス。精神的に落ち込んで、半ば彼岸の領域へ引きこもっているフラニー=エウリュディケを迎えに行く物語(繰り返しになるがユング派の神話解釈では女神・妹・妻・母が重なる)。後づけで当てはめればそういえる、ということではなく、ズーイの行動が示すように、サリンジャーははじめからオルフェウスを意識して書いている(詳しくは「ズーイ」読解にて)。
 
ならば、シーモアが襟に手を添える意味はもうお分かりであろう。神話でオルフェウスは、妻の救出に失敗し、冥界から独りで帰ったあと、八つ裂きにされて殺される。そのとき、切られた彼の首だけが川を流れながら美しい声で歌を歌っていたといわれている。
 
「バナナフィッシュ」において、海に入ることと鏡を見ること(ナルキッソスは水に落ちるので海に入るのと同じ)が死を意味すること、シビルが神託を告げる巫女であることは下記と上記リンク(01_ナルキッソス)で述べた。

「バナナフィッシュ」で、シビルはシーモアに会うなり、海に入って死ぬのか、それとももっと鏡を見てからにするか、と若い男=シーモアの死を預言している。オルフェウスであるシーモアは、神託に驚き、自分の死期が近いことを悟って、首を切られることを恐れ、とっさに首元に右手をあてているわけだ。
 
ユング派の神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、神話において英雄は象徴的に死ぬ(死にきわめて近い体験をする)ことで、汚れや負の要素が浄化され、逆説的に包摂され、より成長した姿で再生できるのだと述べている(G)。オルフェウス、オシリスら、八つ裂きにされる場合も含め、神話や昔話の英雄の死は、首を切られることで表現されるものが多い。
 
シェイクスピア作品においても、首を落とすイメージは頻出する。『ハムレット』では、主人公が「首をはねよ」(245)と記された国王の親書を見つけ、命を狙われていることを悟る。ポローニアスは、頭と肩を指示して「私の言うことが間違っていたら、これとこれを切り離していただきたい」(88)というし、ハムレットが母に「転がり落ちて首の骨でも折ればいい」(175)と憎まれ口をたたく場面もある。『尺には尺を』にも首切り役人アブホーソンが登場しての長いやり取りがある。

2 庭と植物

シェイクスピアの『リチャード二世』では、庭師が徒弟に「首切り役人Executionerのつもりで、/伸びすぎた小枝の頭をちょん切ってくるんだCut off the heads」(136)と指示する。
 
『オセロー』でイアゴーが「俺たちの体が庭ならその庭師は自分の意思だ」「ほったらかしにして枯らそうがせっせと肥料をやって育てようが——いいか、そいつを立て直す力は俺たちの意思にある」(50)と語るように、シェイクスピア作品において、庭は人間の心身の象徴。草花が咲きほこる庭は豊かな体と心を、荒廃した庭は、荒れ果てた肉体と精神を示す。だからこそ、「ズーイ」のベッシ―は〈庭師〉なのである(詳細「ズーイ」読解にて)。
 
また、ここまで見てきたように、「バナナフィッシュ」にも、断片的にではあるが『シビュラの託宣』のひとつであるイエスの受難のモチーフが重ねられている。『キャッチャー』読解で示したように、イエスの受難の際に血を受けた杯を探究する聖杯伝説の起源はオシリス神話、太古の豊饒神話や豊饒祭祀と結びつく。オシリスは死と再生の神であると同時に、全身グリーン(詳細下記参照)の植物・穀物の神であり、ビールを発見したといわれる麦畑の神である。「バナナフィッシュ」における〈樹木〉の意味(シーモアが木に何をしたか?)は後述するが、シェイクスピア作品・サリンジャー作品において、庭に生える植物や麦畑の麦は人体や精神の象徴でもある(詳細下記参照)。

例えば、『ハムレット』で先王が庭で昼寝をしているところを殺されるのは、愛する妻と息子に囲まれて、幸せに暮らしていた、つまり楽園にいた王が、殺害されて庭=楽園を追われ、地獄へ落とされたことを示すため(詳細『ハムレット』読解にて)。
 
『リチャード二世』で庭の小枝を切ることと首切り役人が結び付けられているのも、この伝統を踏まえてのもの。麦の穂を切って翌年の豊饒を願う収穫の儀式、植物の死と再生のサイクルが、神話・物語のなかで、英雄が象徴的に死んだのち、より成長した姿で再生するようにという願いと重ねられている。
 
『ハムレット』で、オフィーリアが柳の枝にのぼって落ち、水死してしまうのもこれにつながるイメージではないだろうか。魚のように(意味は下記参照)脆くやわらかな柳の枝もまた、オフィーリアの性格の弱さを象徴する植物。弱々しく下に垂れ下がり、オフィーリアを水に落として魚のように水死させてしまう植物であり、だから、シェイクスピア作品では失恋の象徴とされている(参考:文庫本注釈)。
 
『ハムレット』にはオシリス神話を思わせるモチーフが複数見られ(詳細は改めてまとめる)、エリオットはこれを参照して『荒地』を記し、サリンジャーはそれに倣って『キャッチャー』を書いた。

3 英雄の首とライ麦の穂

英雄の首が切られることは、単に英雄の死を意味するだけでなく、豊饒神話に起源を持つ聖杯伝説で、植物と人体を重ねて、心身の荒廃と充実、死と再生のサイクルをも表現するモチーフ。だからこそ『キャッチャー』で精神的な豊饒を意味する黄金のライ麦畑を描いたサリンジャーは、首の傷にこだわって、複数の作品で繰り返しこれを描いている。
 
第二次世界大戦へ行く直前に書かれた「最後の休暇の最後の日」の主人公ベイブは、サリンジャーの実際の認識番号が与えられた、作者の分身的なキャラクター。ベイブの友人で道化的な言動を繰り返す友人、サリンジャー=ベイブの影・分身であるヴィンセントは、「子どものときの手術のあとが首に白っぽく残っている」(49)と描写されている。これは、ヴィンセント=ベイブ=サリンジャーが子どもの頃に神話の英雄的・象徴的・精神的な死を経験して再生したことのしるしと読める。神話の英雄のように、象徴的な死と再生を経験して強く成長したキャラクターを、首の傷跡で示すという意識を、サリンジャーが戦前から持っていたことが分かる一節。
 
「バナナフィッシュ」のシーモアが襟もとに手を添えるという何気ない仕草も、これらを踏まえて描かれたものといえるだろう。
 
「ズーイ」にある「頭のない陶製の人形」(177)、「シーモア-序章-」にある「メドゥーサの首」(196)という言葉も、シーモアをはじめ、グラス家の兄弟たちが、ライ麦畑の穂のように象徴的・精神的な死と再生を繰り返しながら成長していく神話の英雄であることの表現。
 
また、「シーモア-序章-」でシーモアの「首筋はほんとうに汚れていた」と強調されることが、精神的な汚れの表現であることは下記で述べた。 

この汚れが〈首筋〉に見られるのも、シーモアが神話の英雄と重ねられ、汚れを浄化するために、精神的・象徴的に死んでは再生することを何度も繰り返していた存在だったことを表しているのではないだろうか。シーモアの首筋の汚れには、浄化のために首から流された英雄の血の意味もあるのではないだろうか。

今回はここまで。「スキ」をいただけたらうれしいです。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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