14_バミューダ_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』考察
Q. バミューダが意味するものは何か?
「バナナフィッシュにうってつけの日」の前半で、ミュリエルの母は「バミューダ土産のあのきれいな絵をあの人(シーモア)がみんなダメにしてしまった」(15)と語る。今回は、「バミューダ」の意味ついて考えたい。
本稿の解釈はこう。
A. 水難事故の多いバミューダは、神話における水死と浄化の象徴。
以下に理由を述べる。
J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
1 水の浄化
水は神話において、浄化の象徴。神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、英雄がしばしば象徴的に水死し、あるいは洪水によって荒地となった大地が浄化され、豊穣がもたらされると述べている(G)。『シビュラの託宣』(下記参照)にあるノアの方舟にも描かれ、『荒地』やオシリス神話にも使われているおなじみのモチーフ。
キリスト教では洗礼の儀式に水が使われるし、イエスやその弟子たちが魚であり、漁師であるといわれること、シーモアがバナナフィッシュであり、漁夫王であることも下記で述べたとおり。シェイクスピアの『十二夜』で「幸せな難破」(168)(下記参照)といわれるように、神話において、水死は再生へ至る道、喜ばしいことなのだ。
ナルキッソスが泉に呑み込まれるのも水死だし、Wikipediaには、イカロスは翼で飛んで墜落したという伝説とは別に、船で脱出して溺死したという異説が紹介されている。イカロス神話でも、永遠の少年と漁夫王が重ねられていたのだろう。シーモアがイカロスであることは下記で示した通り。
神話における水死は母なる海(=青いコートを持つミュリエル)に還り、再生へ導かれること。『キャッチャー』の最後に降る大雨、「エズメ」で降っている雨、「大工よ」でバディがかく汗や浴槽、「ズーイ」でズーイが入っている浴槽など、サリンジャーは水による浄化を繰り返し描いている。
シビルは、シーモアに「水に入らないの? Are you going in the water?」と三度尋ね、シーモアは「君を待ってたんだ」(23)と答える。三度繰り返される言葉は三位一体と再生への祈りであることは下記で述べたとおり。巫女は、再生のために水に入らなければならないという神託と祈りを伝え、シーモアはその言葉に導かれるように海へと入っていく。
2 バミューダ
「バナナフィッシュ」の前半で、ミュリエルの母は、「バミューダ土産のあのきれいな絵をあの人(シーモア)がみんなダメにしてしまった」(15)と語る。
ミュリエルの母がいるニューヨークが現実世界を表象しているのに対し、フロリダが鏡像の世界を表し、それは此岸と彼岸の対比でもあること、彼岸は地獄であり、同時に天国、楽園あること、バナナは楽園の食べ物であることは下記で述べた。
バミューダもまた、楽園を思わせるリゾートの島。本土と切り離されている分、フロリダよりいっそう異世界感、あちら側感が強い。フロリダを現実と異世界が混ざり合う中間地点、あわいのような場所とするなら、バミューダこそが真の楽園ともいえるかもしれない。イカロス=永遠の少年の翼は溶けて彼を墜落死させる運命にあるが、それは同時に、彼を楽園の島=彼岸へ運んでいくためのものともなる。
初期短編「最後の休暇」では、白いスーツがバミューダ土産として登場する(44)。『ハムレット』に「経帷子は雪の白」(196)とあるとおり、白は伝統的に死者がまとう色で浄化の象徴。
「最後の休暇」は、サリンジャーが兵士として戦地へと送られる直前に、その率直な心情を描いていることから、作家が家族へ宛てた遺書的な意味もあるといわれる作品。冒頭で作者は、主人公ベイブに軍での自身の認識番号を与えたうえで、戦地へ赴く直前の、覚悟と恐れが入り混じった複雑な心境を語っている。ここには、もしも自分が戦場で死んだら、バミューダの海で浄化され、再生へ導かれるようにとの思いが込められているように思う。
「バナナフィッシュ」で引用されているエリオットの『荒地』は、シェイクスピアの『テンペスト』を参照しており、『テンペスト』は、バミューダ沖での船の遭難報告をひとつの材源として書かれた作品だと言われている(『テンペスト』シェイクスピア全集8、松岡和子訳、筑摩文庫_39)。
エアリエルがプロスペローに「嵐の絶えないバミューダ島から/露を取ってこいとおっしゃった」(31)という場面では、バミューダの露を使って、魔術により、プロスペローが弟やナポリ王たち一行を嵐にあわせたと読める。さらに、魔女が用いる「どす黒い露」(38)とは対照的に、バミューダの露を使った嵐の水は清らかな水であり、弟たちの汚れた心を浄化する作用があることが仄めかされている。
「シーモア-序章-」でバディは、熱心な読者からの手紙に対して「まるでプロスペロー自身の言葉のように耳をかたむけるholds our attention as if it came from Prospero himself」(131)と述べている。プロスペローの言葉とは、悪に染まった弟らの船を嵐で難破させ、水の渦で浄化したのち、兄弟の和解と、若い男女の結婚を導く魔法の言葉。
ファーディナンドは「この島は楽園です」(126)というし、ゴンザーローが語る理想郷は「テディ」で語られる理想の教育論にも近い(続きは「テディ」読解にて)。「この島をポケットに入れて持ち帰り、リンゴ代わりに息子にくれてやる」(58)「リンゴがなってるところに案内させてくれ」(86)という表現は、「テディ」で語られるりんごと重なり、これはむろん「バナナフィッシュ」のバナナともイコールだ。
バミューダの海では、1945年に大きなアメリカ海軍の大きな飛行機事故が起こっている。当時、ドイツにいたとはいえ、ニューヨークで生まれ育ったサリンジャーにとっては身近な事故に感じられただろう。バミューダ・トライアングルが事故の多発地帯として世界的に有名になるのは、1960~70年代のことのようだが、海流によってバミューダに大きな渦ができ、船や飛行機にとって危険な地帯であることは、シェイクスピアが題材にするほど昔から知られたことだったわけだ。
エリオットが『荒地』で「海底の流れは/ひそひそと死骸をバラバラにした。/浮き沈みして遂に渦へ巻きこまれるまで」と描いたような、身体をバラバラにして混沌、あるいは無へ、象徴的な死へと導く水流。シーモアが「記憶と欲望を混ぜ合わし」(25)とつぶやく『荒地』の一節は、水死から再生へ向かう、水流の渦を加速させること。母なる海で混沌に還り、バミューダ諸島の楽園に至り、そこから再生へと向かうこと。バミューダのモチーフには、そんな英雄の旅における死と再生のイメージが託されている。(ピンチョンもバミューダを同じ意味で使っていますね、これは改めて)
「フラニー」のなかで、グラス家の妹が「馬鹿っぽい金のマドラーを持ち歩いている」(54)のは、水の渦をつくって自身の精神的な再生を願おうとしているからであり、渦巻く水のイメージは下記で示したようなメリーゴーランドやレコードなどの回転とも重なりあう。
ならば、シーモアがバミューダ土産の絵(写真)をダメにしてしまうのは、この時点ですでに、自分の精神が自制できないほど危機的な状況にあり、近いうちに死すべき運命にあることを予感し、恐れていたことの表現かもしれない。
あえて深読みをしてみるなら、シーモアとミュリエル夫妻は、バミューダと、ニューヨークと点で結んでちょうど三角形を描くフロリダに旅行に来ている。これがバミューダ・トライアングルと対になっている。というのはまあ、偶然かもしれないけれど。「2×3」(上記[11_「6」の意味]参照)や、オイディプス・コンプレックスの父・母・息子の三角関係、英雄・神・精霊の三位一体、が「バナナフィッシュ」はもちろん、複数のサリンジャー作品における重要なモチーフであることは間違いない。
今回はここまで。「スキ」をいただけたらうれしいです。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
