22_バターになる虎_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』考察
Q. 虎がバターになるのはなぜか?
「バナナフィッシュにうってつけの日」には次のような会話がある。
「あんた、『ちびくろサンボ』読んだ?」と、(シビルは)言った。
「そいつをぼくに訊くとは不思議なこともあるもんだ」と、彼(シーモア)は言った。「昨夜読み終えたばかしだよ」そう言って手を下にのばすと、またシビルの手をとった。
「虎があの木の周りをぐるぐる回った?」
「ああ、いつまでたっても停まらないんじゃないかと思ったね」
このヘレン・バナマンの有名な童話の中で、四頭(シビルは六匹という、その理由は[11_「6」の意味]参照)の虎たちは木の周りを輪になってぐるぐる回り、最後には溶けてギーというインドのバターになってしまう。虎がバターになるのはなぜか。シビルがシーモアに、特に虎が木のまわり回った場面について問いかけるのはなぜだろうか。
本稿の解釈はこう。
A. 縞模様の虎は道化、バターは神話の英雄が海に還った後の、再生を待つ未分化のエネルギー。
以下に理由を述べる。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
1 シェイクスピアが描く虎
シェイクスピアの『マクベス』(16)と、『十二夜』(155)には、タイガー号(Tiger・虎)と名付けられた船が登場する。シェイクスピア作品における船乗りは前述のとおり、漁夫王=魚=バナナフィッシュ=精神的な迷いを抱えた未熟者=永遠の少年を意味する。また、獣であることは、永遠の少年が理性的・人間的な領域から、本能的な領域へ移行していること、つまり狂気に陥っていることを意味する。
ちなみに『十二夜』でタイガーと対で出てくるフェニックス=火の鳥(155)もまた永遠の少年で、一角獣と同じように伝説の生き物。死と再生を繰り返す生命の神話的な象徴(手塚治虫作品がアニメ化&展覧会で話題ですよね)。
2 黄色と黒のしましま
黄色が西洋の伝統では、卑しさや欲にまみれて堕落した精神性を意味することは下記で述べた。虎もまた、バナナと同じ黄色。『マクベス』では、タイガー号の船長の妻が栗を独り占めして食べ、残飯を食べすぎて太っている、と書かれている。これは、バナナを食べすぎて穴から出られなくなっているバナナフィッシュと同じだ。
また、黒いシミが精神的な汚れを意味することも下記で述べた通り。虎の縞模様の黒は、精神的な汚れ、シーモアの足にある見えないタトゥーと重ねて読める。
『マクベス』は主人公が欲望にまみれて殺人を犯し、一度は人々を欺いて玉座につきながらも罪悪感に苛まれ、破滅する悲劇。『十二夜』は双子が離れ離れになり、お祭り騒ぎの中で恋の追いかけっこの末にいくつかの誤解が解けて双子が再会し、恋人たちが結ばれる喜劇。だが、金銭の授受に関する欲望と施しがひとつのテーマになっていて、同作の道化役マルヴォーリオの黄色い靴下(聖書でイエスを裏切った際ユダが着ていた色)がそれを象徴する。虎の黄色はそれと響きあうモチーフである(下記参照)。
黄色と黒の縞模様の虎は、欲望や汚れ、卑しい感情によって心を迷わせている未熟者・永遠の少年の象徴。六匹のバナナフィッシュと六頭の虎はイコール。下記でシーモアが海=彼岸と陸=此岸に片足ずつ足を踏み入れていると述べたが、六匹の魚と六頭の獣は海と陸の生き物の鏡像関係である。
3 まだら模様の道化衣装
まだらの毛皮を纏った獣は、シェイクスピア作品では道化が着ているまだら模様の衣装とも重ねられている。『お気に召すまま』では、鹿について「あのまだら模様の無邪気な獣たち」(50)と表現され、それを見ているジェイクイズが、「まだら模様の服を着た本物の阿呆」(75)になりたいと望んで下記のように叫ぶ。
ああ、私も阿呆になりたい!
何が何でもまだら服を手に入れたい
まだら服を着せてください。思ったままを口に出す
特権をお許しください、そうすれば、疫病にかかった世界という
汚れきった体から病毒を一掃してみせます
この笑えるセリフで表現されているのは、道化になって滑稽な芸の中に悪意や汚れを紛れ込ませ、笑いと涙で浄化したいという願い。
前にも書いたが、道化芸によって場をカーニバル化し、一時的に秩序を掻き乱すことで負の要素を浄化して、停滞した日常に活気をもたらす祝祭は、同じく太古の豊饒祭祀に起源を持つ神話やシェイクスピア作品で、主人公が狂気にとりつかれ、象徴的な死を経て、成長・再生できるという思想と重なり合う。それがここでは、まだら模様の獣になることと結びついているわけだ。
サリンジャーはこれを意識して「バナナフィッシュ」で『ちびくろサンボ』の虎をバナナフィッシュと重ねているのではないだろうか。
「シーモア-序章-」では、シーモアが、就寝中のバディに向けて書いた手紙に「眠れる虎君へ DEAR OLD TYGER THAT SLEEPS」(201)と記す。眠ることは現実世界=理性の領域から、夢や無意識の世界=獣的な本能の領域へ移行することであり、若きバディはまだまだ精神的に未熟者でもあるから〈虎君〉なのだろう。
〈old 昔なじみの〉という呼びかけは『キャッチャー』でホールデンが「まいったね」(238)とコメントする、『グレート・ギャツビー』の「オールド・スポート(古い友人)」を思わせる。昔なじみの分身、自分の中にいるもう一人の自分、オルター・エゴに向かって言っているような響きがある言葉。グレートな華やかさと汚れをあわせ持つギャツビーもまた、まだら衣装を着た道化=虎であり、ホールデン(サリンジャー)が心酔する文学上のキャラクターだ。シーモアとバディの分身関係については改めて考察する。
また、サリンジャーの初期短編「ロイス・タゲット」では、主人公の女性が、ずっと優しかった夫から突然暴力を振るわれて離婚する。しばらくして偶然、元夫に再会し、彼が精神分析の治療を受けているという話を聞いて動揺した主人公は、動物園へ行ってシマウマを見る、という場面がある(143)。ここで、主人公の女性は元夫の中にあった優しさと暴力性の二面性をどう受け止めればいいのか心を迷わせているのではないだろうか。その精神的な揺らぎがシマウマを通して表現されているのだと思う。
4 インド神話の乳海攪拌
『ちびくろサンボ』木の周りをまわる虎たちは、最後には溶けてインドのバター〈ギー〉になる。インド神話といえば、乳海攪拌のエピソード。あらすじはこう。
あるとき、呪いで力を失った神々は、協力して海を千年にわたり攪拌し続けた結果、多くの生物が死んで海中になだれ込み、海は少しずつ乳海と化し、やがてバター油のようになると、そのなかから太陽や月、女神などが誕生した。中からは不老不死の神酒アムリタも現れて、神々は不老不死になった、と伝えられている。(G、『はじめての世界神話』世界文化社)
サリンジャーはヴェーダンタ哲学に傾倒していたし、インド神話のモチーフは「ズーイ」でも使われているので、「バナナフィッシュ」に『ちびくろサンボ』を描きこんだ時点で、上記のエピソードを意識していた可能性は高いと思う。
シーモアがオルフェウスであることはすでに述べたが、オルフェウスもまた、『キャッチャー』でホールデンに重ねられていたオシリス同様、八つ裂きにされて殺されてしまう神話の英雄。神話の英雄は八つ裂きにされ、大地にばらまかれ、翌年の豊穣が願われる。あるいは水死して、海の渦、激しい水流に巻き込まれ、ばらばらになり、母なる海へ還り、浄化されることで翌年の豊漁が願われる、というのが豊饒・豊漁神話の基本的なストーリー。いつしか豊穣・豊漁は精神の充実の象徴ともなったことは、下記で述べた通り。
バターや乳海は、生まれたばかりの動物がはじめに口にするミルクにつながるイメージ。いちばん最初に必要とする栄養のすべて、生きるための滋養のすべてが凝縮されたもの。神話において英雄の身体が混沌の海へ還ったあとの姿ともつながっているのではないだろうか。
ユング派の神話研究者ジョーゼフ・キャンベルは、神話において、回転などを伴いながら意識の深淵へ降りていく例を紹介し、「そこでは一人ひとりの命がまさに溶けて、未分化のエネルギーになろうとしている。溶けるとは死といってもいいだろう。」(G)と述べている。バターやミルクは、永遠の少年の肉体が象徴的に死んで溶けてできた未分化のエネルギー。現世で彼を惑わせた善悪・聖俗・純粋さと汚れ・生死・男女・貴賤・貧富、あるいは黄色と青といったあらゆる二項対立を呑み込んでできた混沌のスープなのだろう。
5 「テディ」のミルク
『ナイン・ストーリーズ』で最初に収録されている「バナナフィッシュ」と最後に置かれている「テディ」は、どちらも主人公の死で終わること、「バナナフィッシュ」のバナナに対して、「テディ」にはりんごが出てくること、「バナナフィッシュ」の〈Perfect Day 完璧な日〉に対して、「テディ」には〈Exquisite Day 素晴らしい日〉という表現が出てくることなどから、対になる作品だといわれている。
「テディ」には、妹のブーパーがまだ赤ん坊のころ、「ミルクを飲んでいたんだけど、全く突然に、妹は神だ、ミルクも神だってことが分かったんだな。つまり、妹は神に神を注いでいたにすぎないんだ」(280)という記述がある。このミルクは、「バナナフィッシュ」で描かれた『ちびくろサンボ』のバターと対になるモチーフといってよいだろう。
ここでは、まだ物心つく前の原始のスープの中にいる妹ブーパーの意識が、原初の混沌のエネルギーの象徴であるミルクと一体化している様子が強調されている。知恵の実(りんご・バナナ)を食べる前の赤ん坊は心の迷いを知らない楽園にいる。それは、物語の最後にテディが水のないプールに落下して還っていく彼岸世界と同じ場所なのである(つづきは「テディ」読解にて)。
6 『マクベス』の地獄の雑炊
シェイクスピアの『尺には尺を』には、死刑になりそうなクローディオに向かって、友人が「お前の首、肩の上でぐらついてるぞ、/乳絞りの娘の恋のため息一つで転げ落ちそうだ」(25)という表現がある。神話の主人公の首については以下で示したとおり。
英雄の死は、首を落されることで表現される。そして、物語の中で象徴的に死んだ英雄は、ミルクの混沌へ還り、ミルクのエネルギーによって再生を果たすという考え方が現れているように思う。
また、『お気に召すまま』では、タッチストーンが、恋の狂気を「バター売りの女たちがバタバタ市場へ繰り出すみたいな調子」(97)に例える。ここで唐突にバターが持ち出されるのも、狂気に陥ることが彼岸の混沌へ還ることであり、それはバターのような未分化のエネルギーに戻ることだという思想があるからではないだろうか。
『マクベス』では、魔術を用いて魔女たちがマクベスの心を分裂させるとき、大釜に「蛇の切り身」「イモリの目玉、カエルの指、/コウモリの毛に犬のベロ、/マムシの舌、ヘビトカゲの牙、/トカゲの脚にフクロウの羽」「竜の鱗にオオカミの牙、/魔女のミイラに人食い鮫の/はらわた、/闇夜に抜いた毒ニンジン、/罰当たりなユダヤ人の肝臓に/山羊の胆嚢、月食の晩に折った/イチイの枝、/トルコ人の鼻、ダッタン人の唇、/淫売が溝に産み落とし、/締めて殺した赤子の指、/煮詰めてどろっとさせたらば、/最後は虎の内臓だ」(115)とさまざまな生きものの身体の部位を放り込んで「地獄の雑炊煮えたぎれ」「二倍だ二倍、苦労と苦悩、/ごうごう燃えろ、ぐつぐつ煮えろ」(114)と三度唱える不気味な場面がある。非キリスト教徒や洗礼前の赤ん坊が当時の現地の価値観で罪深い人の象徴として描かれているが、それらはイエスを裏切ったユダや、民衆の心の中にある汚れとも重ねられるのではないだろうか(参考下記)。魔女たちが地獄の雑炊に最後に投げ込むのは〈虎〉の内臓であり、〈虎〉が誰を示すのかは前述のとおりである。
ここで描かれているさまざまな生きものの身体の部位のイメージは、インドの乳海攪拌の神話や、オシリス神話でオシリスの身体がバラバラにされて大地にばらまかれる物語と重ねて読んでもいいのではないだろうか。オシリス神話で大地に撒かれた身体が、次の豊饒をもたらす種、麦の粒のイメージにつながることは、『キャッチャー』読解で示した通り(上記[01_聖杯伝説]リンク参照)。
さらにいえば、この身体の部位は英雄が再生したとき、新しく作る世界の材料ともいえるだろう。前回、精神を表す神話のなかの大地は、洪水や炎で浄化され、そこに大工の息子が今度は自ら大工となって新たな世界・神殿を建設するのだと述べた。
『ちびくろサンボ』の虎たちが回る中心に生えている〈木〉は、フレーザーの『金枝篇』で語られたような樹木信仰を想起させるし、それはシェイクスピアの『マクベス』で亡霊が手にしていた木の枝とも結びつく。樹木信仰において、人体は一本の木と同等のもの。ならば、バラバラに解体された身体の部位は、次の世界を構築するための木材とも重ねられるだろう。
7 『ヴェニスの商人』の肉と血
『ヴェニスの商人』は、キリスト教徒アントーニオとユダヤ教徒シャイロックの対立を軸に進んでいく物語。借金が返せなくなったアントーニオから、シャイロックは約束通り、その体の一部〈肉1ポンド〉を切り取ることを要求する。しかし、法律家のふりをしたポーシャが、証文にあるとおり、肉は切り取ってもよいが、証文には血のことは書いていないから、血を一滴でも流したら今度はシャイロックが罪を負うことになると述べて、アントーニオの命を助ける。
マクベスでさまざまな身体の部位を混沌に返す魔術について語ったシェイクスピアは、『ヴェニスの商人』で、〈肉〉と〈血〉が本来は切り離すことができない一体となったものであることを、現世の法律に勝利し問題を解決するための切り札として用いた。
法的に有効な証文に〈肉〉とだけ記してしまったことがシャイロックの失敗のもと。言い換えれば、〈肉〉と〈血〉が一体となった本能的な感性や「慈悲」の心を忘れ、〈肉〉と〈血〉が異なる言葉によって支配される理性的な価値観に縛られ、法的な「正義」という言葉を盾にとって、復讐を果たそうとしたことがシャイロックの罪。
これは、バベルの塔の神話や下記で示した豆をより分ける神話が象徴するように、言葉を使うことにより、知恵をつけた理性を持つ人間ゆえの失敗。シャイロックが拠り所とした法律にのっとった証文は、言葉を覚えた人間界だけに通じる価値観で、「テディ」で赤ん坊ブーパーのいる境地として示されたような、ミルクと自分の身体の境目も分からないような、〈肉〉も〈血〉も、あなたとわたしの区別もつかないすべてが混然一体となった原始のスープにいたころの本能的・動物的な感覚と対立するもの。
言葉に支配され、世俗的な価値観に凝り固まった人々の思考を、象徴的な死によって混沌のスープへ還し、負の要素を浄化し、包摂して再生・成長させるのが神話の発想であることは再三述べているとおり。『ヴェニスの商人』はこれを、法律や言葉といった抽象的な概念と、肉と血が一体化した状態で実際に生きている肉体の比較で鮮やかに示してみせた物語。法的な正義、言葉の世界に翻弄されがちな観客や読者に、本当に大事なものを思い出させるストーリーは、神話的な発想に裏付けられているわけだ。
これは、劇中でポーシャに課せられた三つの箱選びによって婿を選べという亡き父からの遺言への嘆き、「ああ、「選ぶ」。なに、この言葉!」(22)という恨み言、「どれほどの卑しい種と立派な本物の種とが/ふるい分けられることか! 立派な種が/いまの世の籾殻やごみ屑から選り出され」(87)という人を分けようとする態度を経由して、ユダヤ教徒とキリスト教徒に分裂して互いを差別し、憎みあう人間の愚かさを象徴する(詳しくは『ヴェニスの商人』読解にて)。
言葉に支配された世界で善悪や聖俗といった二項対立に迷う未熟な精神性を克服して、無識別・無差別の境地を目指すべき、すべてが一体となったような精神性を思い出すべきだというのが神話の教えであり、シェイクスピア作品の思想。言葉が積み上がってできたバベルの塔が崩れる瞬間に見えてくる新しい世界を、私たちはミルクを飲んでいた赤ん坊の頃、すでに知っていたはずなのである。
8 食べることは還ること
『ヴェニスの商人』の〈肉〉と〈血〉はいうまでもなくミサで配られるイエス・キリスト身体を表すパンと、血を表すワイン。ミサではそれらを食することで、信者たちが聖なるものと一体となるという。
『ちびくろサンボ』で木の周りをまわる虎たちは、最後には溶けてバターの一種〈ギー〉になる。主人公の少年サンボとその両親は、その〈ギー〉で大量のパンケーキを焼いて食べてしまう。これは、ミサでパンを食べ、ワインを飲む聖体拝領に通じる部分があるのではないだろうか。
シャイロックがいう、アントーニオの肉は「魚を釣る餌になる」(95)という言葉は、『ハムレット』にある「王を食った蛆虫を餌に魚を釣り、その蛆を食った魚を人が食うかもしれない」「王様が乞食の腹の中をお通りあそばすこともある」(185)という表現と重ねて読める。ここには貧富や貴賤、生者と死者といった相反する価値観の一致、無識別の境地へ通じる思想がある。未分化のエネルギーを取り入れるという行為を、神話を読むまでもなく、我々は日常の食事という行為を通して行っているのだと、シェイクスピアはいっているのかもしれない。
食べることは、此岸にいながら原始のスープを体感すること、というよりもむしろ、此岸で生きるためにこそ混沌を滋養として体内へ取り込むこと。食物を食べ、消化して肉や血や成長のためのエネルギーに変えていくことは、自分もまたそんな混沌の一部であることを思い出すことでもあるのだろう。
「バナナフィッシュ」でさりげなく『ちびくろサンボ』を描きこんだサリンジャーは、『フラニーとズーイ』で「食べる」というテーマについて、さらに掘り下げていくことになる。この続きは同作読解にて。
9 滅法うまい小説
原始のスープに還って、それをエネルギー・材料として新たな世界を構築せよという神話の教えは、サリンジャー作品そのもののあり方とも似ている。なかでも「バナナフィッシュ」は、短い中に複数のモチーフやテーマを濃密に凝縮して混ぜ合わせた、まさに混沌のバターのように濃密な作品。この未分化のエネルギーに満ちた物語から、どんな意味を読み取るか、どんな世界観を立ち上げていくかは、読者一人ひとりにゆだねられている。
『キャッチャー』に描きこまれたユダヤ神秘主義の経典カバラを意味する〈Cabelキャベル〉(289)という言葉には、ヘブライ語で〈受け取る〉という意味があるという(R)。神話や昔話、シェイクスピアやエリオットをはじめとする先人たちの作品、そしてサリンジャー作品をどう解釈して受け取り、自分の内なる豊饒の種やエネルギーにしていくか。リレーのバトンのように手渡された濃密すぎるバターは、とてもいちどでは食べられないけれど、少しずつ食べるのは〈滅法〉うまい。未熟な大工見習いとして、明日もささやかながら丸太を担いでみようと思わせられる不思議な滋養に満ちている。
さて、濃密と言えば、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』の冒頭に出てくるフォンデュ料理も、この混沌のバターやミルクのバリエーションではないかというのが私の解釈なのだが、どう思われますか?
今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。
「スキ」をいただけたらうれしいです。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解21~29のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
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