03_赤毛のユダ_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
Q.03-1 ホールデンのハンティング帽が赤なのはなぜか?
サリンジャー研究者の竹内康浩氏は、アリーやフィービーの特徴である赤毛が、オシリスの豊饒祭祀において、いけにえとして大地に捧げられる少年の特徴と一致することを指摘している(C)。
『キャッチャー』にシェイクスピアの引用があることは前回述べたとおりだが、『お気に召すまま』では、ロザリンドがオーランドーについて「髪の毛まで真っ赤な嘘の色をしてる」「ユダの髪よりいくらか茶色がかってるけど。きっとキスだって裏切り者のユダのキスと同じだわ」(124)とあり、注釈にはイエスを裏切ったイスカリオテのユダは、赤毛だったとされる、とある(松岡和子訳、ちくま文庫_123)。
神話やシェイクスピア作品において、赤毛は精神的に未熟な若者の象徴。ホールデンがかぶる赤いハンティング帽は、彼がオシリス=ユダ=オーランドーのような未熟な若者であることのしるし。
神話、イニシエーション儀式、シェイクスピア作品やそれらに倣うサリンジャー作品では、赤は若々しい生命力にあふれた、未熟で情熱的な者、神の息子、いけにえの象徴。彼らは試練に立ち向かい、大地に血を捧げながら、大人へと成長していくことは前回述べたとおり。なかでも、赤が髪の毛や帽子として表現されるとき、彼らの迷いや苦悩が、特に頭・脳内にあること、頭や脳が狂気にとりつかれていることの表現だ(これについては次回)。
Q.03-2 ユダは地獄には送られなかったと考えるのはなぜか?
ユダは、金銭と引き換えにイエスを裏切り、磔刑へ導いた、欲望にまみれた弱く汚れた心の持ち主。一般的には、イエスの磔刑のエピソードにおいては悪いことをした人物としてとらえられることが多い。
しかし、ホールデンは、「イエスはユダのやつを地獄には送らなかったはずだ」(170)という。この発言の真意は何だろうか。
シェイクスピアの『お気に召すまま』で、オーランドーがユダに重ねられているのは前述のとおり。『お気に召すまま』で、オーランドーは、英雄として兄からの不当な仕打ちと戦い、ヒロイン・ロザリンドの恋人となる主役のひとり。最後は自分を森へ追放した兄のためにライオンと戦い負傷する、いわば正義の味方。
そのオーランドーがユダに重ねられているのは、ホールデンがユダをかばう態度と同じ理由による。
詳しくは「エズメ」や「ズーイ」読解でまとめるが、自分の中にある未熟さや弱さ、欲望や汚れなどの負や悪の感情を認め、切り離し、逆説的に包摂することで、大人へと成長できる、というのが神話やシェイクスピア作品、それらに倣うサリンジャー作品に共通する思想だ。さらにいえば、負や悪の感情が強いものであるほど、それを包摂したときの成長の度合い、聖性や善的な性質も高くなるという考え方がここにはある。
『キャッチャー』や「ズーイ」「序章」などのサリンジャー作品、それを通したシェイクスピア作品読解を踏まえて、ユダの裏切りのエピソードを考えるとき、ユダの欲望や弱さは、民衆の、あるいはこの時点でまだ若さの残るイエスの中にもあったかもしれない負の感情の投影ともいえないだろうか。イエスが血を流し、命を失ったのと同様、この後、自らの行いを悔いて死へ向かうユダもまた、民衆の未熟さや負の感情を浄化するために捧げられたいけにえの一人。イエスは、民衆や自らの内に残る弱さや汚れを浄化するために必要なことだと知っていたからこそ、ユダの裏切りを事前に察しながら、それを実行するよう促した。というのが、おそらくはサリンジャーの『聖書』解釈、シェイクスピア解釈ではないだろうか。このような読み方は正統ではないかもしれないが、古くからグノーシス主義で受け継がれてきた思想と近く(S)、まったくあり得ないというわけではなさそうだ。
サリンジャー的視点で読むユダ=オーランドー=ホールデンは、未熟な若者の代表。さらにいえば、誰もが心の奥に持つ、弱さ、欲望、汚れの体現者であり、赤毛や赤い帽子は、血によってそれを浄化しなければならないという彼らの宿命を表現したものだ。
ホールデンは、良くも悪くも、子どもっぽさを残す未熟な青年。周囲の人々が見せるインチキな振る舞いを心の中で批判しながら、自らも似たような行動をとってはくよくよ思い悩む。純粋すぎるがゆえに頑なで、弱く、自分の欲望を十分に制御できない。ホールデンは自分の中にそんな、ユダ的な未熟さ、幼さがあることを知っている。そして、理想の大人へ成長するためには、それを認め、克服しなければならないことを、心のどこかで感じ取っている。だからこそ、ユダを擁護するような発言をし、自らの内にある未熟さを浄化すべく血を流す。寒さに身をさらして象徴的に死へと近づき、大雨にうたれる。
もちろんこれは物語の中での話。実際に血を流さないようにするために、物語はある。
このテーマについては、シェイクスピア『十二夜』からの影響が大きいと思われる。詳しくは下記よりご覧ください。
つづきはこちらから、ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
■参考文献
S_『キリスト教とは何か。』pen 2010年5月15日号別冊、阪急コミュニケーションズ
