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12_ シャロン・リプシャツ_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』解釈

Q. シャロン・リプシャツの名前の意味とは?
「バナナフィッシュにうってつけの日」で、シーモアは「ああ、シャロン・リプシャツか。よくもそんな名前が思い浮かんだもんだ。記憶と欲望を混ぜ合わし、か」(25)とつぶやく。
今回は、この名前の意味についてみていきたい。
 
本稿の解釈はこう。
A. 楽園にいる人が地獄に落下しないように守る人、つまり、ライ麦畑のキャッチャー
以下に理由を述べる。



J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

1 地獄の口

「バナナフィッシュ」のシーモアをはじめ、サリンジャー作品の主要な登場人物たちが道化であることは下記で述べた通り。

西洋の伝統的な道化芝居の舞台では、背景に〈地獄の口〉が描かれ、道化がそこから地獄へと落ちて冥界巡りをすることがあるという(U)。『キャッチャー』や「ド・ドーミエ=スミスの青青の時代」、「エズメに捧ぐ」では、フィービーやドーミエやエズメの弟チャールズが大きく口を開ける様子が印象的に描かれる。これは、道化が冥界巡りへ出立する際の入り口〈地獄の口〉の表現だと思われる(詳細下記参照)。
 
イカロスは墜落する、永遠の少年=シーモアやホールデンは墜落・落下する運命にあることは下記で述べた通り。永遠の少年の落下は、道化が地獄へ落下することとも結びついている。

『ハムレット』には「地獄があんぐり口を開け」(37)「墓はあんぐり口をあけ」(153)とある。これは狂気におちいったハムレットが落下する〈地獄の口〉。オフィーリアが、亡霊を見た後のハムレットの様子を「地獄の恐ろしさを告げるため、そこから抜け出していらしたばかりというように」(75)と表現するように、永遠の少年ハムレットは正気と狂気に引き裂かれて〈地獄〉にいる。
 
シェイクスピアに倣い、サリンジャーも、「ドーミエ」や「エズメ」、「最後の休暇」など複数の作品で永遠の少年の苦しみを〈地獄〉と表現している。それは、戦地の地獄とも重なっている。

2 抜歯とイニシエーション

「ドーミエ」は、母・義父・息子のオイディプス的な三角関係が分かりやすく描かれた作品。同作では、主人公が、神父(象徴的父)と同じ名を持つ歯医者によって、八本もの歯を抜かれ、『キャッチャー』では投身自殺した同級生の歯が飛び散る。
 
フロイトの理論を引き継ぐ夢分析においては、抜歯もまた、象徴的な去勢の表象といわれ、太古からのイニシエーション儀式でも抜歯の儀式があるという。
 
「記憶と欲望を混ぜ合わし」の引用元であるエリオットの『荒地』二章チェスゲームにおいても、上流階級の堕落した妾である女性は、階段の上に足を引きずって歩く音を聞く。この女性と鏡合わせで対比される下流階級の女性は、漁師(下記参照)の夫がいない間に浮気をし、堕胎のために飲んだ薬のせいで歯がぼろぼろ、「歯を皆抜いて、入れ歯をして貰いな」と言われる様子が描写される。脚を引きずる仕草と歯の不具合は、ともに精神的な荒廃の象徴として用いられ、五章では荒地、すなわち地獄が「腐食した歯の死の山」と描写されている。

だから、サリンジャー作品における抜歯はオイディプス・コンプレックスによって、永遠の少年が精神的に追い詰められ、道化になって地獄へと落ちていくことを意味すると読める(詳しくは各作品読解にて)。

3 シャロン・リプシャツ

「バナナフィッシュ」後半で、若い男(シーモア)は「ああ、シャロン・リプシャツか。よくもそんな名前が思い浮かんだもんだ。記憶と欲望を混ぜ合わし、か」(25)とつぶやく。
 
〈シャロンSharon〉はユダヤ教とキリスト教の理想郷、草花が生い茂り、乳と蜜が流れ、羊が群れる肥沃な平原を意味する。この理想郷は、『キャッチャー』でホールデンが、ライ麦畑という豊饒の楽園で、子どもたちが崖から落ちないように受け止めるキャッチャーになりたいと願う、そのライ麦畑や、『Little Shirley Beans リトル・シャーリー・ビーンズ』(194)の〈Shirley シャーリー〉輝かしい草原にも結びつく(詳細下記参照)。

〈リップLip〉は唇や縁を表す言葉、〈シャツschutz〉はドイツ語で「保護」。
 
すると、〈シャロン・リプシャツ〉とは、理想郷、黄金に輝く豊穣のライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、リップ=地獄の口の淵から地獄へ落下しないように守る人を意味する、すなわち、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を別の言葉で表現した名前ではないだろうか。

4 フロリダは楽園? それとも地獄?

「バナナフィッシュ」の冒頭、ミュリエルが読んでいる雑誌「セックスは楽しい? それとも地獄?」もまた、道化の揺らぎ、永遠の少年の精神を狂わせる二項対立の表現で、そこに「地獄 hell」という言葉が使われている。
 
『ハムレット』で、ハムレットが、先王の死後、その弟と再婚した母を非難する場面にはこうある。「下劣な欲情(Rebellious hell)、(中略)燃える血潮の若者には慎みなど蝋(wax)も同然。/その火(own fire)で溶けても知ったことか」(168)急激に燃え上がる若者の欲情が〈地獄〉という言葉で表現され、イカロスを思わせる蝋やそれを溶かす炎、地獄の業火のイメージへ結びつく。
 
イカロスの蜜蝋を溶かすことが、永遠の少年の傲慢さを戒めることであったように、神話において、炎は浄化の意味を持つ。
 
サリンジャー作品においては、地獄も天国も、自分の内側にあるものとして表現される。精神的な地獄を抱えている人は、それが肉体に現れ、息苦しさを訴えたり、腹を病んで息が臭くなったりする。あるいは、道化が地獄めぐりをしているとき、それを見守る女神は腹の中の違和感からか、しきりにげっぷをする(下記参照)。

目の前の世界を地獄と思うか、天国と捉えるかは、自分の内面次第というのが神話の教え(現実にはそうとも言いきれない気はしますが、ある程度は)。だから、「バナナフィッシュ」でシビルが「あたしは蝋燭をかじるのが好き」(28)というのは、地獄を抱えているシーモアに、巫女が、精神的な世界を炎で浄化せよと告げているのではないだろうか。これは、エリオットの『荒地』における仏陀の火の説教「燃える燃える燃える燃えている」にも通じる。
 
シーモアとミュリエルが滞在しているフロリダは温暖なリゾート地で、その反対。ゆえに、二人の旅行先は、天国・楽園を思わせる。
 
地獄=冥界がサリンジャー作品において、凍てついた氷の世界として表現されることは下記で述べた。

凍てついた地獄と温暖な天国は正反対のものだが、いずれも冥界、死者たちの世界。此岸に対する彼岸。こちら側に対するあちら側。現実に対する非現実、虚構の世界、鏡の世界、イリュージョン。
 
「ドーミエ」では、地獄を彷徨っていた主人公の世界が、最後に転倒=道化のアクロバットによって一瞬で天国に変わる様子が描かれている。また、「エズメ」でも天国と地獄の対比が分かりやすく描かれているように、天国(楽園)と地獄の対比と転倒はサリンジャー作品におけるひとつの重要なモチーフである(詳しくは各作品読解にて)。

天国を地獄に、あるいは地獄を天国に、一瞬で反転させてみせる道化のアクロバットは、地に足がついていないがゆえに、重力を超越した華麗な宙返りを披露できる若者の特権であり、役割。永遠の少年は彼らにしかできないやり方、軽やかなちからで、停滞しがちな大人の理性的な世界に活気をもたらす。傷つき、停滞して荒廃した心は、笑いと涙で浄化され、価値観の転倒によって、元気と明るさを取り戻す。
 
同時に永遠の少年の価値観の転倒は、オイディプス・コンプレックスを原点とする精神的倒錯にもつながる。「四月は残酷な季節」という倒錯表現から始まる『荒地』をモチーフに、深刻なマザー・コンプレックスに翻弄される男女を主人公とした「逆さまの森」という作品を書いたサリンジャーが、このことに意識的だったことは間違いないだろう。
 
『マクベス』の「きれいは汚い、汚いはきれい」、『ハムレット』の「些細なことで悲しみは歓びに、歓びは悲しみに姿を変える」(142)のように、価値観の転倒、あべこべの世界はシェイクスピア作品にもおなじみのテーマ。サリンジャーはシェイクスピアやエリオットの作品に、自分の心の中にある倒錯的な傾向を重ねて共感し、自作に描きこもうとしていたのではないだろうか。
 
天国と地獄が常に同時にあるように、神の怒りにふれ、墜落へ反転するまで上昇をやめられないイカロスの急上昇には、すでに墜落の予感がはらまれている。永遠の少年の急上昇は天国、落下は地獄へ向かうベクトルで、それらは常にセット。上昇が急激であるほど、比例して墜落の衝撃も大きくなる。それが道化のバランス芸、鏡の世界の掟だ。
 
このイメージが、ニューヨークの摩天楼を経由して、『荒地』に描かれた「逆さまの塔」「down down down落ちる落ちる落ちる」へとつながっていく。あるいはリルケ「重力が彼のなかを逆さまに落ちてゆく」(224)。

今回はここまで。「スキ」をいただけたらうれしいです。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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