02_見えない傷_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
Q.02-1 ホールデンがイエス・キリストと重ねられるのはなぜか?
本作のタイトルにある〈キャッチャー〉が〈聖杯〉を意味すると思われること、〈聖杯〉が『聖書』のイエスの受難のエピソードで、イエスと弟子たちが最後の晩餐で用いた器、あるいは、イエスが磔刑にかけられて十字架から降ろされたときに、ヨセフがイエスの血を受けた器ともいわれることは前回述べたとおり。
「ズーイ」には、「僕は大学でキリスト磔刑についてペーパーを四回書いたけど——いや、正確には五回か」(128)という場面がある。ここで、サリンジャーはおそらく、自身の作品について、イエスの磔刑をモチーフにしたものが、四つから五つあることを告白している。そして、『キャッチャー』はそのひとつ。(他は「ズーイ」読解にて)『キャッチャー』には、イエスの受難の原因を作ったユダについて、ホールデンが「イエスはユダのやつを地獄には送らなかったはずだ」(170)と語る場面があり、サリンジャーが本作を書くときに、イエスの受難のエピソードに意識的だったことも確かだ。
『キャッチャー』の1・2章と後半の一部は、戦前に書かれた短編「ぼくはちょっとおかしい I’m Crazy」を改稿したものとなっている。この「ぼくはちょっとおかしい」は、明らかにイエスの受難をモチーフとして描かれたもの。ここで、ホールデンは答案に「古代エジプト人は現代のわれわれにとって、多くの点で興味深い。また、聖書にもしばしば登場する」(27)と書いたのをスペンサー先生が読み上げる。この場面では、古代エジプト人がミイラを埋葬した話と聖書が、はっきりと結びつけられている。イエスの受難における死と復活のエピソードは、オシリス神話が起源だといわれているのだが(S)、サリンジャーはそれを踏まえて「ぼくはちょっとおかしい」を書いているわけだ。
そして、『キャッチャー』では、スペンサー先生との場面から〈聖書〉という言葉が消され、そのつながりがあえて外されている。オシリス神話と聖書が即座に結びつかないように、あえて分かりにくく改訂されているようなのだ。
ただ、そのつながりが完全に断ち切られたわけではなく、丁寧に読めば『キャッチャー』でもオシリス神話とイエスの磔刑のエピソードが、実は結び付けられていることが分かる。サリンジャーはここで、ホールデンをオシリス=イエス・キリストと重ねながら、その精神の象徴的な死と再生を描こうとしている。
これも、おそらくは先人たちから影響を受けてのこと。シェイクスピアは『ロミオとジュリエット』や『テンペスト』をはじめ、有名な作品のいくつかにイエスの受難のエピソードを思わせる記述を盛り込んでいる。また、『ハムレット』には、オシリス神話を思わせる記述も複数ある(詳しくは改めて)。シェイクスピアから影響を受けた、エリオットの『荒地』にも、オシリス神話やイエスの磔刑のモチーフが描きこまれている。サリンジャーは彼らを真似て、ホールデンをオシリス=イエスとして描いている。シェイクスピア、エリオット、サリンジャーらにとって、聖杯伝説の型を使うことは、オシリス神話・イエスの受難の物語を重ねることにもつながっているのだ。
Q.02-2 ホールデンが息を切らせているのはなぜか?
イエスの受難のエピソードから、『キャッチャー』読解に必要な要点をまとめてみると、以下のようになるだろうか。
救世主を名乗っていたイエスが、ユダヤ教の一派であるパリサイ人と対立。ユダの裏切りによって捕えられ、ゴルゴタの丘で十字架にかけられる。両手首と両足首を釘でうちつけられ、呼吸困難で午後三時ごろに亡くなり、埋葬されたが、三日後、マグダラのマリアらが墓を見に行くと、イエスが墓から出て復活を遂げていた。(S・Wikipedia)
『キャッチャー』にイエスの受難が暗示されているのは有名な話で、以前耳にした記憶があるのだが、現時点でそれが記された文献を見つけられていない。なので、以下がどこまで先行研究と重なるかわからないのだが、自分なりに読解したことを覚書として記す(以下[05_二項対立から三位一体へ]まで、少々長くなります)。(文献を見つけられたら、適宜、更新します)
物語が始まってすぐ、ホールデンは、自分のことを「結核っていうか、そういう感じ」(12)だといい、喀血と呼吸困難のイメージを背負う。これは後半で、「このまま肺炎になって死んじまうんじゃないだろうか」(261)「呼吸がすぐに苦しくなっちゃうんだよ」(297)という言葉で繰り返される。
これがさらに、ペンシーのインチキくさい卒業生が「派手に息をきらせてい」た「ぜえぜえ息を切らせてるんだよ」「すごい苦しそうに呼吸をしているわけさ」(285)と語られること、アントリーニ先生の奥さんは、「きまじめ」で「お金持ち」で、「喘息がひどい」(307)こととも呼応する。
ペンシーの卒業生はいわゆる社会のエリート。アントリーニ先生の奥さんのきまじめさや、お金持ちであることも同様に、大人の社会でのルールや規範、秩序を守り、一般的に正しいと思われている価値観にのっとって生活するために努力を重ねている人々であることを示している。
詳しくは改めてまとめるが、神話をもとに書かれたシェイクスピア作品や、それらからの影響が強いサリンジャー作品では、両親や学校、社会から影響を受けて形成された価値観と自分の本心が対立するとき、どう折り合いをつけ、いかに乗り越えて大人になっていくかがひとつの大きなテーマとなっている。学校で教わったルールや、大人の社会のなかでもまれる内に身に付いた一般的な価値観に従って生きている人々の多くは、サリンジャー作品においては、いわゆる常識とされる善悪、貧富、貴賤、聖俗といった二項対立にとらわれて、ホンネとタテマエの間で心を迷わせている人々でもあり、その苦しみはしばしば息苦しさとなって表現されていく。
『ナイン・ストーリーズ』の「対エスキモー戦争の前夜」のセリーナの母の肺炎、「笑い男」のデュファルジュの結核、「大工よ」のバディの肋膜炎、「ズーイ」でフラニーが咳ばかりしている男と結婚しそうだと語られることなど、サリンジャー作品にはしばしば、呼吸困難を思わせる描写があるが、これらはすべて、イエスが十字架にかけられた際に、呼吸困難で亡くなったとされることにつながっているように思う。『キャッチャー』に描かれたホールデンの息苦しさも、その一つではないだろうか。
また、サリンジャー作品において、呼吸がとりわけ重要なものとして扱われるのには、作者がヨガをやっていたこととも関係しているだろう。浅い呼吸は精神的に迷いのある未熟者の証であり、迷いを手放すほどに深い呼吸ができるようになるという手応えが自身の体感としてもあったからこそ、作者は何度も表現を変えて描こうとしているのではないだろうか。
Q.02-3 ホールデンが銃で撃たれたふりをするのはなぜか?
「笑い男」では、デュファルジュが結核を患っており、笑い男が血まみれになって死ぬのだが、その姿がイエスの磔刑を思わせる姿と重なることが、先行研究で指摘されている。
『キャッチャー』冒頭では、両親が「二度ずつ脳溢血(hemorrhage大量出血)を起こしちゃう」(5)と書かれ、1ページ目からたくさんの血が流れるイメージが現れる。1章では、サーマー校長の娘、セルマについて「爪はひとつ残らず噛みまくられて血だらけみたいな感じ」(8)と描写されているが、手が血だらけという表現は、磔刑の際に手から血を流すイエスの姿を思わせる。
2章以降も、繰り返し血のイメージが現れる。ストラドレイターに殴られたとき、ホールデンは鼻血をだし、「とにかく血らだけ」(80)だったことが強調される。また、ホールデンは、誰も見ていないところで二度「腹に銃弾をくらったふり」を(177・253)し、目には見えない血を流す。
これらはすべて、イエスが磔刑の際に流した血と、それを受けたとされる聖杯への連想につながっていく。ホールデンは、本物の血・目には見えない象徴的な血を流しながら、それを受け止めてくれる聖杯=キャッチャーを探して街を彷徨っている。
特に、目には見えない血を流す場面は、ホールデンの精神的な弱さと、思春期の青年特有の目には見えない心の傷を鮮やかかつ滑稽に描き出している秀逸なシーン。『キャッチャー』は、十六歳のホールデンが子どもから大人へ成長するイニシエーションを描いた物語ともいえるが、かつてさまざまな民族で行われてた原始的なイニシエーション儀式では、血を流す、血を飲むなど、流血と関連するものが多く見られる(『通過儀礼』アルノルド・ヴァン・ジェネップ、秋山さと子・彌永信美訳、新思索社、1977年)。
イニシエーション儀式もまた、イエスの磔刑のエピソードと同様、太古の豊饒祭祀とつながりがあるといわれているから、これも当然のことなのだろう。自然界の動植物の死と再生の循環サイクルにまつわる豊饒祭祀が、やがて、子どもの成長や人間の精神的な真実探求の過程とも結びつけられて語られるようになっていった。同時に、血液は、若々しい生命力、情熱や愛の象徴として、また、翌年の豊饒を願って大地に捧げられるいけにえ、あるいは子どもから大人へと成長を遂げる際にくぐり抜けるべき試練=肉体的・精神的痛みの象徴として、伝統的に用いられてきた、ということなのだろう。
上記文献でジュネップは、これがキリスト教におけるミサで、イエスの血を象徴するといわれるワインを飲むのもこれらと結びついていると述べている。『キャッチャー』で、アックリーが「明日の朝はミサがあるんだ」(83・86)という場面があるのは、サリンジャーがそれを意識していたからであり、それはむろんイエスが磔刑にかけられた際に流される血へとつながる。さらに、エリオットの『荒地』に記された「血を捧げよ」という一節や、赤茶けた岩だらけの荒廃した大地のイメージを重ねて読んでも良いだろう。
シェイクスピアの『マクベス』は、「血まみれ」「血が血を呼ぶ」「血の雨」「血の川」といった表現が繰り返し出てくる、まさに〈流血〉をモチーフとした悲劇だが、「この国を浄化するため/主君とともに我々の血を一滴残らず流すのだ」(159)という一節には、神話やイニシエーション儀礼において、〈流血〉に汚れを浄化する作用が期待されていたことがうかがえる。
Q.02-4 尼さんと『ロミオとジュリエット』について語るのはなぜか?
『キャッチャー』には、ホールデンと尼さんがシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』について語り合う場面がある(188)。『ロミオとジュリエット』では、乳母が使いに出て、「三時間もたったのに」(99)「(ロミオの)妻になって三時間の私(ジュリエット)が」(127)「三時間とたたぬうちにジュリエットが目を覚ます」(203)と、〈三時間〉というキーワードが繰り返される。
イエス・キリストは、十字架にかけられてから亡くなるまで、三時間苦しんだといわれており、薬により、仮死状態となって一度埋葬され、墓穴から蘇るジュリエットにはおそらくイエスの受難のイメージが重ねられている。シェイクスピアの『テンペスト』でも〈三時間〉のキーワードは頻出し、ここにも同様にイメージが重ねられていると思われる。ちなみに、『テンペスト』はエリオットの『荒地』のモチーフのひとつでもある。そして、サリンジャーの「バナナフィッシュ」には、『テンペスト』の影響と思われる記述がある(下記参照)。
『ロミオとジュリエット』では、「墓の入り口が血まみれだ」(213)と流血が印象的に描かれる。さらに、「恋は酷い、/残酷で荒々しいものだ。茨のように人を刺す」(44)「ある人(ジュリエット)がいきなり僕(ロミオ)に深傷を負わせ/相手も僕から傷を受けました」(82)と、恋の痛みが目には見えない傷や血のイメージで語られる。
ロミオがジュリエットと出会う前に恋をしていた女性の名は〈ロザラインRosaline〉。『お気に召すまま』のヒロインは〈ロザリンド Rosalind〉。男性を魅了する美しい女性は、棘で皮膚を破り、赤い血を流させるバラ。これもまた別の神話につながるモチーフだ(続きは「ズーイ」読解にて)。
サリンジャーの初期短編「ロイス・タゲット」(143)や『ナイン・ストーリーズ』に収録された「対エスキモー戦争の前夜」のセリーナ(66)がトマトジュースを飲むのも、「大工よ」でシーモアが何にでもケチャップをかけるのも(93)おそらくは、彼らが精神的な迷いを抱えた未熟な若者であり、心の中で見えない血を流していることのサリンジャー流の表現だ(詳しくは各作品読解にて)。
だから、『キャッチャー』でホールデンが流す血にも、彼が子どもから大人へと成長へ遂げる際に必要ないけにえや痛み、試練や浄化の意味があるのではないだろうか。目に見える血とともに、目には見えない血が流されることが、主人公の内面で起こる目には見えない痛みと、それを乗り越えた先にある成長を効果的に示唆しているように思う。『キャッチャー』で、ホールデンがミイラの展示室で見つける「ファック・ユー」の落書きが「赤いクレヨン」で書かれてる(345)のは、それが未熟な若者の叫びだからではないだろうか。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
