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02_両手に提げた七面鳥とは?_ J.D.サリンジャー「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」考察

Q. 両手に一羽ずつ感謝祭の七面鳥を提げたポーズの意味とは? 
前回、「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」のXとZは分身なのではないかという解釈を示しました。今回はこの読み方をさらに掘り下げてみたいと思います。わかりやすいのは、このイメージではないでしょうか。
 
後半に、全国に読者を持つある大雑誌が、激しい戦闘のあったヒュルトゲンの森にいるZを写真に撮ったことがある。そのとき、「快く、という以上に積極的に、両手に一羽ずつ感謝祭の七面鳥を提げたポーズをZはとってみせた he had posed, more than just obligingly, with a Thanksgiving turkey in each hand.」(柴_174)と記されています。このポーズの意味とは?
 
本稿の解釈はこう。
A. 己惚れの強い未熟者が精神分裂した姿の象徴。
以下に理由を述べます。



J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解をマガジンで連載しています。こちらの記事から読んでいただいてもお楽しみいただけますが、01から順番に辿りたい方は下記よりご覧ください。

1 白と黒

「エズメ」前半の語り手〈私〉は、基本的には善い人間でありたいと望み、行動する人物です。エズメが、アメリカ人について「獣みたい」(柴_156)と評した際に、兵士がみな恵まれた人生を送ってきたわけではないと諭す言葉などは、語り手が日ごろから分別ある言動をすべく心がけている様子がうかがえます(『グレート・ギャツビー』ファンということだけでなく)し、後半でZが浅はかな発言を繰り返す際にも、冷静に、ときにはユーモアをまじえながら(その試みが成功しているとはいえないにせよ)会話をする様子には、精神的に追い詰められてもなお、理性的であろうとする姿勢がにじみ出ています。
 
けれど、彼は決して善良なだけの人間ではありません。

語り手は「白のソックスをはいた少女」エズメを「実にかわいらしい。」(158)と語る一方で、自分については、「二本の前歯の間につめた軍の真っ黒な間に合わせの詰め物をかくすために、上唇を動かせなかったのである。」(144)「私は、真っ黒な歯の詰め物が目につかないように、なおも心しながら、また微笑を浮かべた。」(145)と二度繰り返します。
 
河合隼雄氏は、「全世界に存在する無数の伝説、昔話においても」「白が善を、黒が悪を示す」、白と黒との対比およびその意味は明白であると述べています(『影の現象学』河合隼雄、講談社学術文庫、1987年)。シェイクスピアの『オセロー』は白と黒の対比の分かりやすい例ですね。作中での悪魔はイアゴーですが、心の弱さから悪魔の囁きに耳を貸してしまい、最終的に罪を犯すのはオセローです。
 
「エズメ」の白と黒も、この意味に当てはめて考えていいのではないでしょうか。白はエズメの純粋無垢な精神を表しているのだろうし、黒は語り手の心の中に潜む汚れた気持ちを表していると読めます。
 
サリンジャーは、戦前に書いた「最後の休暇の最後の日」で「いまは、銃撃戦に飛び込んでいって殺し合いをしたくてしょうがない」(54)という心情を告白しています。そして、自分の大切な人たちの生活を守るために敵を殺したいと思ってしまう、戦争によって黒々と汚れていく心情を、「最後の休暇」では〈ゴキブリ〉、「バナナフィッシュ」では〈目に見えないタトゥー〉として描いていることは、「バナナフィッシュ」読解でも示したとおり。
 
「エズメ」前半の語り手〈私〉もまた、これから危険な戦闘の最前線に行って敵に銃を向けることになるかもしれない、自分が殺されてしまうかもしれない極限の精神状態で、黒々とした感情に呑み込まれそうになりながら、エズメにそれを悟られまいと、黒い歯の詰め物を必死で隠しているのではないでしょうか。

そんな語り手が掲示板の「黒地に白で書いた数字に目を惹かれた」(149)というのは、黒く染まる自分の心の中に、白いソックスに象徴される、純粋な心を持つ少女エズメと、幼いチャールズとの出会いが、心を洗われるひとときとなる、その予感として読めるように思います。

これも何度か書いていますが、善悪などに心が引き裂かれていることを表現するために、サリンジャー作品では、重要なことはしばしば二度繰り返して書かれます。語り手が歯の詰め物を隠すしぐさが二度繰り返して描かれるのはそのためではないでしょうか。
 
前半の語り手〈私〉の内面では、白=善と黒=悪、両方の感情が拮抗している。それは、彼がXとZ、両方の性質をあわせ持っていることを意味します。そしておそらく、Z的なものが優勢になっているように思うのです。

2 死んだ猫になりたい

「エズメ」の後半で、ZはXに、戦地で自分が猫を撃ち殺したことを覚えているかと問いかけます(170)。そのときのことをZが恋人への手紙に書いていたり、新米兵士に話したりしていることから、Zはその出来事をどこか自慢に思っている様子がうかがえます。XはZの傲慢で浅はかな行為を思い出し、未だに愚かな言動を繰り返すZに吐き気をもよおし嘔吐します。
 
伝記には戦争中、サリンジャーの目の前で、アーネスト・ヘミングウェイが「自分のルガーでちかくの鶏を撃って頭を吹き飛ばしてみせた」(A)というエピソードが実話として載っていて、Z伍長は、この経験を元に造形された架空の人物だと考える先行研究もありますね。
 
また、戦前サリンジャーはポーランドで父親のハム輸入業の勉強をしていた際、食肉用に豚を解体する仕事に従事していました。そのときの相棒が、「自分の通り道を横切る小鳥に銃をぶっぱなすのが好きだった」(A)という話も伝記に書かれています。
 
「大工よ」でシーモアは「死んだ猫になりたい I would like to be a dead cat.」「死んだ猫には誰も値をつけることができないから」(96)といいます。値段がつけられないことは、現世的な価値観を超越し、彼岸の価値観で物事を認識できるようになるということ。そんな思想を語ると同時に、シーモアは無垢な猫に心を寄せ、自分を重ねている。
 
けれど、サリンジャー作品では、魚と漁師、獲る者と獲られる者が常に反転可能であることは、過去記事でも言及してきたとおり。シーモアが死んだ猫になりたいと望む背景には、彼がそれを殺す側に周る可能性だってあったし、目の前でそのような行為が行われたときに、自分は止めなかったという罪悪感や恥、反省や恐怖の感情があるのかもしれません。
 
「エズメ」で心理学を専攻していたというZの恋人によれば、Zが猫を殺したのは「一時頭がおかしくなってた」(170)から。狂気にとりつかれたという意味では「バナナフィッシュ」のシーモアと同じ。シーモアが自分に向けて銃を撃つことと、猫に向けて銃を撃つことが重なる。だからシーモアは死んだ猫になりたい、自分は戦地にいた猫と同じように、狂気に殺された者なのだという意味にも読めます。
 
「シーモア-序章-」には、以下のような記述もありますね。あくまで比喩として読むか、ある程度現実に起こったこととして受け取るかは読者次第。ただ、サリンジャーの中には、Zが戦地で行った残虐な行為を、自らの汚れとする思いが濃く残って忘れられずにいたらしい。そのことは確かなように思えます。

いつでも、公然と告白する人間から聞くべきものは、彼が告白していないことなのだ。(中略)勇気のある告白それ自体は、当人がペットのハムスターに腹を立てて、その頭を踏みつけたことがあったかどうかを探りだせるということを保証するものではない。

(「シーモア-序章-」_217)

グラス家サーガでシーモアは基本的には聖人のように語られますが、「シーモア-序章-」にはシーモアの「首筋はほんとうに汚れていた」(249)とも記されています。これは、シーモアが内面にひどい汚れを抱え込んでいたことを示すもの。シーモアの双面性は、「エズメ」のXとZというキャラクターとも結びついているように感じます。

自分の鏡像=シーモア・グラスが善にも悪にもなるのは、鏡を見る者が善にも悪にもなる、気分が乱高下する未熟者ゆえなのであり、シーモア・グラスの聖性や汚れが極端であることは、気分の振れ幅が極端であることと重なるのではないでしょうか。

3 獣みたい

前半で、エズメは語り手に対して「あなた、アメリカ人にしては、ずいぶん知的に見えるわね」「これまで私が見たアメリカ人は、たいていみんな獣みたいにふるまったのよ」(柴_156)といいます。ここでは、XとZが、人間的・理性的・知的にふるまう人と、獣的・本能的・野蛮にふるまう人の比較で表されていますね。
 
語り手はエズメの前では、歯の黒い詰め物を隠しているから知的に見えている。対するZ伍長は、エズメが「獣みたい」だと表現するアメリカ人の典型。けれど、後半でXについての「散髪しなければならぬくらい毛がのびている。それに汚れてもいた。」(162)という描写では、Xが獣であるかのように語られていますね。「バナナフィッシュ」読解でも書きましたが、サリンジャー作品で、髪の乱れは精神的な荒廃を意味します。
 
サリンジャー作品において、獣に戻ることは、人間的な理性を忘れて、本能的な感覚が優位になること。それは必ずしも悪いことばかりではなく、作品や場面により、子どものような純粋な心に戻るという意味にも取れ、両義的なのですが、「エズメ」での獣は、自らの欲望にまかせて攻撃的に振舞う悪い意味が際立っているように思います。
 
『ナイン・ストーリーズ』の「愛らしき口もと目は緑」でも、同僚を傷つけることを知っていながら、同僚の妻と不倫する道徳心のなさや、弁護士が裁判において、正義よりも勝利にこだわる傲慢な性格が獣のようだといわれていますね。また、「エスキモー」や『キャッチャー』では、ジャン・コクトーの映画『美女と野獣』について言及され、野獣と王子が本能と理性の対立と重ねられています(この詳細は改めて)。
 
エズメは、語り手が本質的には善い人間であることを理解している。だからこそ、喫茶店で、自ら積極的に話をするために席を移ってきて会話を試みる。けれど、意識的にせよ、無意識的にせよ、エズメは深層で、語り手の中に潜む汚れを鋭く感じ取っている。彼が隠そうとしている歯の黒い詰め物が、彼女には見えている。
 
だからこそ、作家だという語り手に、エズメは自分のために短編を書いて欲しいと頼むとき、「汚辱のお話が好き」「汚辱。わたし、汚辱ってものにすごく興味があるの」(156)「うんと汚辱的で感動的な作品にしてね」(160)と繰り返すのではないでしょうか。
 
両親を亡くして傷ついているエズメは、ここで語り手の中にある汚れこそが、自分の傷を癒すはずだとどこかで直感している。ゆえに、彼女はここで、語り手の中にある愛ではなく、むしろ汚辱について積極的に知ろうとするように思えます。
 
そしてそれは、戦争で心が引き裂かれてしまったXが癒されるためには、彼の中にあるZ的な汚れをただ切り捨てて遠ざければよいという簡単な話ではない、という展開に結びつく。それは、「バナナフィッシュ」でシーモアを死なせた後も、サリンジャー=バディが、シーモアについて語りつづけずにはいられなかったこととも、つながっているのかもしれません。

4 泥人形

後半で語り手がXとZというアルファベットで呼ばれる理由については、前回考察しました。そのうえで、作者はZ伍長にだけ〈クレー・Clay・泥〉という呼び名を与え、泥人形に例えています。
 
キリスト教の創世神話では、最初の人間アダムは、神が土くれから作り出したとされています。この起源は、ギリシャ神話でプロメテウスが泥と水で人形(ひとがた)を作ったといわれることや、『ギルガメシュ叙事詩』で創造神が粘土から人間をつくったとされることにも遡るのだそう(『キリスト教とは何か。』pen 2010年5月15日号別冊、阪急コミュニケーションズ)。
 
誰でも、もともとは動物・獣であり、泥人形のようなもの。人間らしい思いやりの心や倫理観を獲得するためには、ある程度自分を律し、努力することが必要。Zはそうした努力を怠り、自らの汚れた感情や獣のような欲望を隠そうともしない人物。土塊のイメージはZに人間的な魂、人を思いやるあたたかな心がないことを仄めかしていると思われます。

5 髪の汚れ

Xの髪は、「汚れていた」「ガウフルトまで埃っぽい(dusty)道を長いことジープにゆられてもどって来る間にまた汚れてしまったのである。彼を病院へ迎えに来たZ伍長は、休戦になろうとなるまいとおかまいなしに、今でもフロントガラスをボンネットの上に寝かした戦闘態勢でジープを運転している」(162)と語られます。ここで語られる泥や埃は精神的な汚れの象徴と取りたい。
 
XとZのうち、精神的に汚れているのは明らかにZの方であり、だからこそ彼はクレーと呼ばれるわけですが、髪の汚れが強調されるのはXの方なんですね。Zが窓を開けているせいで、Xが汚れているわけです。
 
Zが猫を殺した話を持ち出した直後にも、「Xは一度、汚れた髪の毛を指で掻き上げた」(171)と描写されます。猫の話を聞いて、Xは自らの内にある汚れを無意識に気にしている。その汚れが自分のものだということに動揺して、嘔吐するという流れになっています。
 
「バナナフィッシュ」読解(下記)でも示したように、分身同士は本来一心同体なので、両者の汚れは伝染する。ここでは、Zの汚れがXを蝕んでいることが示されているのではないでしょうか。

6 愛する力を持たないのは誰か?

Xは「諸師よ、地獄とは何であるか? つらつら考えるに、愛する力を持たぬ苦しみが、それである、と、私はいいたい」というドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』からの引用をつづります。けれど、Z伍長が猫を撃った時のことを思い出して吐き気を催すXには、猫を愛する気持ちが残っているように思える。
 
本作の中で、Xから感じられるのは、愛する気持ちがあるからこその憤りや悲しみであり、愛への感受性があるからこそ、物語の最後にエズメとチャールズから贈られた手紙に癒される。それがタイトルに〈Love〉とある意味であり、そこに本作の希望がある。
 
愛する力を持たず、副題にあるもう一つの言葉〈汚辱・薄汚さ・卑劣さ・浅ましさ/squalor〉を感じさせるのはZ伍長の猫を殺した行為と、それを未だに反省していないような態度の方ですよね。
 
ゾシマ長老の言葉に該当する、愛する力を持たぬ苦しみ、地獄を抱えているのはZの方であり、しかし、その苦しみについて書き記すのはZと対峙(おそらく分裂)する直前のX。これも、XとZが本来は同一人物であることを示す記述として読めるように思います。

7 両手に提げた七面鳥

以上のように、後半の見習曹長Xは、前半の語り手の中の〈戦争で傷つき病んでしまった心〉。Z伍長は語り手の〈戦争で露わになった醜く汚れた感情〉。XとZは分裂しつつも、Zの持つ汚れが、ところどころでXにも共有されているように思えます。
 
ならば、後半で語られる、戦時中Zが「両手に一羽ずつ感謝祭の七面鳥を提げたポーズをとってみせた」(柴_174)という記述の意味は明らかではないでしょうか。
 
シェイクスピアの『十二夜』には、己惚れの強いマルヴォーリオをからかう意味で「まるで七面鳥だ」(78)というセリフがありますね。注釈には、七面鳥は己惚れの象徴と記されています。「バナナフィッシュ」読解で見たように、シェイクスピア作品、サリンジャー作品では、己惚れや傲慢さは、ナルキッソスやイカロスにつながる未熟な精神を表します。これが、猫を殺すという残忍な行為を自慢げに語る愚かで己惚れの強いZと重なる。カメラの前でZが「快く、という以上に積極的に」ポーズをとったというのも、己惚れの強い愚か者であることを示していますよね。
 
サリンジャー作品における『十二夜』の影響は下記でも見た通りです。

「エズメ」でZが七面鳥を提げたポーズは、彼の己惚れや傲慢さを表している。両手に一羽ずつなのは、XとZが分身関係であることを示しているのではないでしょうか。定説とされている前半の語り手=後半のXという読み方をするなら、ここでの七面鳥は一羽でいいはず。Zが両手に七面鳥を提げているということは、愚か者は分裂して二人になっていることを示しているように思うのです。
 
未熟者・愚か者・阿呆・道化・foolは伝統的に鏡を見る姿で描かれ、舞台ではしばしば二人組の分身同士として現れることは下記でも述べました。

例えば、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』で、ヒロインに求婚に来た男性が、箱選びのゲームでハズレである道化の絵を引き当てて、「阿呆の頭を一つ載せて求婚に来たが/帰るときは二つになった」(89)と嘆く場面を思い出すのも分かりやすいですね。See more glassする者、心を善悪に引き裂かれる者は愚者であり、分裂する。阿呆=七面鳥とは相反する価値観で揺らぐ者のこと。「エズメ」に描かれた道化については後述しますが、この作品もそんな伝統を引き継ぎいだ物語だと私は思います。
 

今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。次回はXとZがいかに引き裂かれていくかを考察します。つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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