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「バナナフィッシュ釣りにうってつけの日」 J.D.サリンジャーとC・G・ユングの魚釣りのイメージ

前回まで、J.D.サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」の読解を連載してきました。今回はサリンジャー作品と、ユングの著作に描かれている〈釣り〉のイメージについて考察します。



1 誰もがバナナフィッシュ、誰もが釣り人

シーモア・グラスをはじめ、「バナナフィッシュにうってつけの日」に登場する主要な登場人物たち六人が六匹のバナナフィッシュなのでは、という解釈については下記の記事で述べました。同時に、シビルがシーモアの方へ行くときに、「漁師館Fisherman’s Pavilionの方へ向かって歩き出」(22)すのは、シーモアが漁夫・漁師・釣り人だからだというのも、グラス家の人々がみな船乗りであることも、下記で示したとおり。

『キャッチャー』に描かれている、冬にセントラルパークの池の中で凍り付いている魚がホールデンに重ねられることは先行研究で指摘されていますね(D)。これが、博物館のエスキモーが吊り上げる氷の中の魚、DBが描く秘密の金魚、フィービーがノートに記しているアラスカの鮭の缶詰のイメージへと結びついていく。娼婦サニーがホールデンを、映画で「ボートから落ちる」俳優に似ているという(165)ことも、ホールデンが船乗り・釣り人であり、同時に魚であることを示しているのでしょう。

『ナイン・ストーリーズ』の「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」にも、釣りをしている様子を描いた絵画の描写があります(223)し、サリンジャーの伝記によると、1941年の未発表作品には「釣り人」(A_74)というタイトルのものもあったそう。内容は分かりませんが、戦前から釣りをテーマに作品を書いていたことは確かなようです。

サリンジャー作品においては、誰もが魚であり、同時に漁夫・漁師・釣り人。聖書のエピソードで、イエスが漁師をしていたペトロらを弟子にするときに、「これからは人間を獲る漁師になりなさい」と告げた(「ルカによる書」5章10節)という部分が下敷きになっていることは、先行研究で示されています(C)。

これは、『キャッチャー』でキャッチする者とされる者が常に反転可能であることとも重なります。時と場合によって、誰もがどちらにもなりうる。ホールデンとフィービー、フラニーとズーイらは、互いが互いの救世主(聖杯)であり、互いにキャッチしあうべき間柄なんですね。

2 シーモアの詩

「シーモア-序章-」で、バディはシーモアが詩を書き始めたときの思い出を、以下のように語っています。

(シーモアは公共図書館で)書架のまわりをのんびり泳ぎまわったり、立ち泳ぎしたり、時たまちょっと真面目になって新しい作家を釣り上げたりして楽しく時を過ごしていた(中略)ご存じのように、図書館であれどこであれ、釣りというものは難しい。誰が誰を釣り上げるか、確かなことはまったくわからないのだから(だいたい釣りの偶然性ということそれ自体がシーモアの気に入りの話題だった。

(159)

ここでは、シーモアが魚のように本の海を泳いでいる。同時に、図書館で本や作家を選ぶことが、釣りのイメージと重ねられています(偶然性については改めて考察します)。シーモアの詩の説明は以下のように続きます。

弟のウォルトは小さい頃ピンを曲げて作った針で釣りをする名手だったが、九歳か十歳の誕生日にシーモアから詩をもらった(中略)それはハドソン川でラファイエット(魚の一種_引用者追記)を釣った金持の少年に関するものだった。その子はリールで魚をたぐりよせたとき、下唇に激しい痛みを感じるが、間もなくそのことは忘れて、家に帰ってまだ生きているその魚を浴槽に泳がせてみると、それが、つまり魚が、頭に自分のと同じ学校の徽章のついた青いサージの帽子をかぶっているのを発見する。その子は濡れた小さな帽子の内側に自分の名札が縫いとられているのを見るのである)。あの朝からシーモアは永遠に針にかかってしまったのだ。

(同上)

ここで、釣り人と魚が両方とも自分になるんですね。「バナナフィッシュにうってつけの日」読解で、シーモアは実像=正気を失い、鏡像=狂気にのっとられた状態ではないかと述べました(詳細下記参照)。実像・正気と鏡像・狂気への分裂は、魚と釣り人、獲る者と獲られる者への分裂でもあるわけです。

3 無意識の深淵へ

以下はChatGPTによる、釣りの神話的・心理学的解釈の説明(抜粋)。

・水は無意識を象徴し、そこに釣り糸を垂らすことは意識から無意識へ下降する試み、無意識との接触を意味する。
・ユング心理学では、夢の中で魚を釣ることは、無意識に沈んでいる感情や記憶を意識に引き上げることを意味する。

『世界シンボル辞典』の魚の説明には以下のようにあります。

「みずからの中で魚という存在に出会うことは、一般的には冷血動物(声なき冷血動物である魚)の姿をした人間存在の元型に、つまり魂の深層に出会うことである」(深層心理学者E.エップリ)

(ピーダーマン,ハンス、藤代幸一監訳、八坂書房)

シーモアの詩に描かれた魚も釣り人も自分であるイメージは、このとおりに解釈してよさそうですよね。精神的に分裂し、正気を失ってしまったシーモアは、自分の一部=逃げたバナナフィッシュを取り戻すために、無意識の深淵に釣り糸を垂らす。無意識に隠れた自分の魂の一部を釣り上げることで、忘れていた過去やトラウマを意識の側に包摂し、治癒へ向かおうとする、釣りにはそんな意味があるのだと思います。

4 ヘンダーソンの患者の詩

釣りの意味は以上のようにすんなり解釈できるのですが、私が面白いと思うのは、これがユングの提示する魚釣りのイメージとつながっていること。

以下は河合隼雄の著作で紹介されている、ユング派の分析心理学者ジョゼフ・ヘンダーソンの患者が書いた詩です。

とらわれ 
                    
私は海から釣りあげられた魚である         
それを釣りあげた海岸にいる男、それは私だった   
えさで私をさそい、そして釣り糸を引いたのは私だった
私は下へ、深く、もどりたいと願う         
しかし、陸にいる男は容赦しない         
私の少年時代は砂の上に死んだ          
それは大きな手の中に横たわっている       
その手が糸を引き、針をはずす          
そして私を料理するように妻に渡す  

(『影の現象学』河合隼雄、講談社学術文庫、1987年_274)

これ、シーモアの詩とほとんど同じですよね。魚も、それを釣り上げた人も、両方とも自分自身であるというイメージ。シーモア・グラス=鏡を見る者は、魚であると同時に釣り人でもある。
 
河合隼雄によるこの詩の解説は以下。

少年から成人へと変化するとき、その人はひとつの死の体験をしなければならない。通過儀礼の基本的な構造を支える死と再生のパトスがここに詩として歌われている。

(同上)

自分の影、自分の一部、自分のなかの幼い部分や過去を儀式や想像のなかで殺すことで、成長していく心の動きがある、ということですね。この詩の釣り人を作者サリンジャーに、殺される魚は「バナナフィッシュ」の最後に死ぬシーモアに重ねてみると分かりやすいのではないでしょうか。

「バナナフィッシュ」執筆時点でのシーモア・グラスという存在は、作者にとって、殺して料理をして(『ちびくろサンボ』でいうなら、バターになった虎はパンケーキにして)食べてしまうべき魚だった。それが戦争などをとおして自らの内に染みついてしまった負のいれずみ・汚れを浄化し、包摂して成長のエネルギーにする手段だったのだと思う(下記参考)。

ジョゼフ・ヘンダーソンがこの詩を紹介したのがいつなのか、サリンジャーが「シーモア-序章-」を書いたとき、これを見た可能性があるのか、今のところ調べられていません。AIによれば、ジョゼフ・ヘンダーソンの主な著作は「シーモア-序章-」発表の後。その前にも論文などは執筆していたでしょうから、私は当時サリンジャーが精神分析の専門誌のようなものを購読していて(サリンジャーが精神分析に興味を持っていたことは明らかだし、「逆さまの森」のコリーンがそういう設定になっているので)、どこかで目にする機会があったのではないかと推測していますが、確証はない。

だから、この類似は偶然かもしれません。偶然だったとしたら、むしろその方がすごい気もしますが、神話、シェイクスピアから続く魚や漁師の意味を考えれば、ある程度自然に導き出されるイメージなのかもしれない。

5 永遠に針にかかる

「バナナフィッシュ」では、シーモアの精神分裂が戦争によるもののようにも読めますが、「シーモア-序章-」の記述によって、この傾向が戦争よりもずっと前、シーモアが若いころから始まっていたのだということが分かります。

ヘンダーソンの患者の詩に対し、「シーモア-序章-」の詩では、「あの朝からシーモアは永遠に針にかかってしまっ」ていますね。魚は水槽に離されたまま、食べられることなく今も目の前を泳いでいる。分裂したもう一人の自分は、包摂されることなく、今も目の前をうろついている。

ヘンダーソンの患者の詩のように、魚=未熟な自分を、想像の中で殺して食べることで、精神的な成長のエネルギーにしていくのが自然な心の働き、治癒の過程。だけれど、戦前からはじまっていたシーモアの精神分裂は、もう少し深刻で、簡単に殺して食べてしまえるようなものではなかった、ということなのだと思う。

「バナナフィッシュ」で殺したはずのシーモアの存在が、サリンジャー=語り手バディのなかでいつの間にか大きくなっていた、という告白が「シーモア-序章-」に記されていることは[27_シーモアとバディ](上記リンク)でみたとおり。

〈永遠にPermanently〉針にかかってしまっている状態とはおそらくこのことで、「バナナフィッシュ」発表後、サリンジャー=バディは、自分の意識がある限り、シーモアという鏡像(影・分身)の存在が自分の中から消えることは永遠にない、簡単に治癒するものではないという感覚に変わっていたのではないでしょうか。

「バナナフィッシュ」のなかで殺した後も、サリンジャー=バディの心の中には依然として自分の鏡像・分身・シーモアがおり、その存在は神格化され、むしろ前よりも大きくなっている(詳細上記リンク参照)。シーモアの詩にある〈永遠に〉とは、シーモアとの精神的な共存を覚悟する言葉のようにも思えます。この作品に記された言葉を使うなら、それは〈病める人 Sick Men〉であることを意味するのかもしれません。

6 双子か、分身か

グラス家サーガで、シーモアから詩を贈られたウォルトは、第二次世界大戦で命を落とし、双子のウェイカーは聖職者になったと語られています。けれど、最後に発表された作品「ハプワース」で幼いシーモアは手紙に、「双子が家にいたということさえ、尊重すべき確固たる事実だとはいえない!」「かわいくてしょうがない双子なんて、これまで一度でもうちにいたことがあるんだろうか?」(202)と記しています。この記述の意味は何でしょうか。

他のグラス家サーガを見る限り、双子はいた。けれど、グラス家の兄弟が紹介され、ウォルトとウェイカーが双子であると示される前、1948年発表の「コネティカットのひょこひょこおじさん」の時点で、ウォルトの戦死はすでに確定していました。ウォルトとウェイカーが双子であるとはじめて語られた時点(たぶん1955年の「大工よ」だと思う)では、その片方は戦死することが決定していたわけです。片方は死者、片方は生者の双子を設定した時点で、サリンジャーはこの二人を、二人で一人であるかのような分身として意識していた可能性が高いように思うのです。

だからこそ、シーモアから魚釣りの詩を贈られるのは、後に戦死するウォルトでなければならない。ウォルトもまた、「あの朝から」「永遠に針にかかってしまった」者なのであり、彼を釣り上げるのは「小さい頃ピンを曲げて作った針で釣りをする名手だった」ウォルト自らが作った釣り針でなければならない。釣り針のピンは、イエス・キリストの磔刑の際の杭とも重ねられるかもしれません。

十歳は、サリンジャー作品において、子どもが自我を持ち始める区切りの年齢(『キャッチャー』のフィービーと同じ。詳細『キャッチャー』読解参照)。それは、精神が分裂する年齢、とも言い換えられます。帽子は狂気、青は母なる海、浄化をイメージさせる色彩であることは「バナナフィッシュ」読解で示したとおり。

グラス家=鏡を見る者たちの真ん中にいるこの双子の分身性は、シーモアとバディ、フラニーとズーイ、ズーイとバディら、他の兄弟の分身関係を浮かび上がらせるためにサリンジャーが施した仕掛けともいえるでしょう。

「ハプワース」では、この双子は本当にいたのかという記述のすぐ後に、シーモアが負った太ももの怪我についての記述が続きます。文献によれば、漁夫王神話では、王の傷は足または大腿部に表現されるとのこと(『マグダラのマリアと聖杯』マーガレット・スターバード)。これがオイディプス王に代表される神話の主人公の足の怪我、足を見られて怒るシーモアともつながるわけですね(詳細下記参照)。

「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」にでてくる釣りは、絵画教室の生徒が書いた下手な絵画作品について説明したもの。絵の中で、三人の小さな男の子が「魚釣り厳禁」と書いた立札のある沼のような場所で釣りをしているのですが、拙い画力のせいで一人の子の片方の脚は佝僂病(くるびょう)にかかり、もう一方の脚は象皮病にかかっているように見える。その絵のタイトルは「彼らのあやまちを免せ」(223)。上記リンクとあわせて読んでいただければ、この絵の意味も分かりやすいかと思います。

7 ユングの詩

心理学者のC・G・ユングは自伝で、自邸の庭に置いた石について語っています。

私(ユング)は、そこに目を刻んで、その目の中に小さな人間の像、ホモンクルスを彫った。それはあなたが他人の目のひとみのなかにみいだす一種の「人形」——つまりあなた自身——

『ユング自伝――思い出・夢・思想』A.ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子 共訳、みすず書房、1973年_39

ホモンクルスは、ヨーロッパの錬金術師が作る人造人間、魔術的方法によって生命を吹き込まれた小人のこと。土をこねて創った人形や、傲慢の象徴(イカロスやバベルの塔につながる)と結びつけられることもあるそうです。(『ユダヤ神秘主義』ゲルショム・ショーレム、山下肇・石丸昭二・井ノ川清・西脇征嘉訳、法政大学出版局、1985年)

さらに、ユングはその石に、以下のような詩を彫ったと記しています。

時間は子どもだ——子どものように遊ぶ——ボアード・ゲームで遊ぶ——それは子どもたちの王国。

私は孤児で、ただひとり、それでも私はどこにでも存在している。私はひとり、しかし、自分自身に相反している。私は若く、同時に老人である。父も母も、私は知らない。それは、私が魚のようにうみの深みからつり上げられねばならなかったから、あるいは天から白い石のように落ちてくるべきであったから。私は森や山のなかをさまようが、しかし人の魂のもっとも内奥にかくれている。私は万人のために死にはするが、それでも私は永劫の輪廻にわずらわされない。

(同上)

ここにある魚釣りのイメージも、シーモアの詩と同様のものとして解釈できますね。サリンジャーが描き続けた精神分裂、分身・鏡像、魚釣りのイメージは、ユングが学者として追求し続けたテーマとも重なります。ユング自身も精神的な危機を通して、自分の内面(影)と向き合い、対話・対決する過程を『赤の書』に書き残していますね。

上記のユングが石に刻んだイメージは、『キャッチャー』に描かれた世界観とも重ねられる部分が多い。楽園(黄金に輝くライ麦畑)で遊ぶ子どもたち。両親がいながら自らを孤児になぞらえるフィービーや、自分自身に相反しているかのように矛盾した行動をとり続ける主人公。自分は十二歳だと冗談を言いながら、白髪が生えてもいる、若者でありながら老人でもあるかのような年齢不詳のホールデン。社会から追放され、彷徨い、生贄として死へ向かうような感覚。
 
「どこにでも存在している」「人の魂のもっとも内奥にかくれている」ホモンクルスは、ユングが、サリンジャーが、あるいは私たち読者が無意識の深淵に垂らした釣り糸の先にいるもう一人の自分であり、同時にホールデンや、シーモア・グラスでもある。

ちなみに、上記が記された『ユング自伝――思い出・夢・思想』の初版は1962年、『キャッチャー』発表の11年後。「シーモア-序章-」発表の3年後。例によって影響関係は分かりません。

8 シェイクスピアから『荒地』へ

「バナナフィッシュ」に引用があることで知られるT.S.エリオットの『荒地』三章で、語り手として登場する盲目の予言者ティーレシアスもまた釣り人。テムズ河のほとりで「釣りをしていた」と二度繰り返し、すみれ色の時刻は漁夫が沖から戻る時刻だと語ります(K)。

エリオットがロンドンを舞台に書いた『荒地』を反転させて、サリンジャーはニューヨークを舞台に『キャッチャー』を書いている、ということは、『キャッチャー』読解でも示したとおり。『荒地』でティーレシアスが釣り糸を垂らすテムズ川が、「シーモア-序章-」ではハドソン川になっているんですね。

エリオットの『荒地』はシェイクスピア作品を参照して書かれており、シェイクスピア作品でも、釣りは重要なモチーフ。これらの解釈については改めてまとめます。

今回はここまで。お読みいただきありがとうございました。


J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解11~20のまとめはこちらから。


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