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『夏の夜の夢』他、シェイクスピア、サリンジャー作品のヘレナとスパニエル

Q. 『夏の夜の夢』で、ヘレナが自分をスパニエルに例えるのはなぜか?

シェイクスピアの『夏の夜の夢』には、ディミートリアスという青年に恋をするヘレナという女の子が登場します。ヘレナは、つれない態度のディミートリアスに「私はあなたのスパニエル I am your spaniel」「スパニエルにして飼ってちょうだい Use me but as your spaniel」(45)と訴えます。
 
自分を犬に見立てて卑下し、そばにおいてと懇願する、ちょっと狂気的な愛の告白。なのですが、ここにはさらに、さまざまな犬種のなかでも〈スパニエル〉でなければならない理由があるのではないかと思う。前回、前々回『ハムレット』読解で見たような耳や聴覚の問題がかかわっているのではないか、というのが私の解釈。ということで、本稿で示したい読み方はこう。
 
A. 心がひねくれているヘレナは、現実の音に耳をふさいでいる者だから。
以下に理由を述べます。


※一部シェイクスピア作品、サリンジャー作品についてネタバレになりますのでご注意ください。



1 マゾヒスティックなヘレナ

『夏の夜の夢』で、ヘレナはディミートリアスに恋をしているのですが、ディミートリアスはハーミアに夢中で、ヘレナのことなどまるで眼中になく、つれない態度を取ります。けれど、ヘレナはめげるどころか、ディミートリアスから冷たい言葉を投げかけられるほど、ますます執拗に相手を追い回す。ディミートリアスからみれば「嫌えば嫌うほど、追いかけてくる」ヘレナからいわせれば「慕えば慕うほど、嫌われる」(22)状態。
 
ヘレナはつらい思いをすると分かっていながら、「自分の傷に塩をすりこんでやろう I to enrich my pain」(25)とつぶやきつつ、ディミートリアスがハーミアを追いかける様子をわざわざ見に行く。ディミートリアスに「お前なんか愛してない」といわれれば、ヘレナは「そう言われるとなおさらあなたが恋しくなる」(45)と返し、以下のように言い募る。

私はあなたのスパニエル、ねえ、ディミートリアス。
あなたがぶてばぶつほど私はじゃれつく。
スパニエルにして飼ってちょうだい、蹴ってもいい、ぶってもいい、
無視してもいい、ほうっておかれてもいい。ただ許してほしいの。
こんなだめな私だけれど、あなたについて行かせて。
あなたの心のなかでこれほど卑しい立場があるかしら。
でも私にとっては最高の立場。
犬並みでいいって言ってるのよ。
I am your spaniel, and, Demetrius,
The more you beat me I will fawn on you.
Use me but as your spaniel: spurn me, strike me,
Neglect me, lose me; only give me leave
Unworthy as I am to follow you.
What worser place can I beg in your love
And yet a place of high respect with me
Than to be usèd as you use your dog?

(45)

訳者の松岡氏も『深読みシェイクスピア』で指摘しているとおり、ヘレナは少々マゾヒスティックな傾向にある女の子なんですね。以下もヘレナのセリフ。

恋は程を知らないから、卑しく醜いものも
並はずれた立派なものに変えてしまう。
目で見るのではなく心が見たいように見る。
だから、絵に描かれたキューピッドはいつも目隠しをしているんだわ。
恋の神さまには判断力もない。
Things base and vile, holding no quantity,
Love can transpose to form and dignity.
Love looks not with the eyes but with the mind;
And therefore is winged Cupid painted blind.
Nor hath Love’s mind of any judgment taste.

(24)

ヘレナはディミートリアスへ盲目的に思いを寄せていて、正常な判断力を失っている。それが、自分を犬に例えるような、ちょっと異常な言葉になって出てきているんですね。

2 垂れ耳の猟犬

『夏の夜の夢』の後半では、角笛が鳴り響くなか、公爵シーシアスが登場し、以下のように自慢げに語る場面があります。

私の猟犬もスパルタ種だ。
大きな顎、砂色の毛並み。朝露を払わんばかりに
大きく垂れた耳。
膝は曲り、喉もとの垂れ具合はテッサリアの牡牛そっくりだ。
獲物を追う脚は遅いが、声はまるで大小さまざまな鐘のように響きあう。掛け声や角笛に合わせ
これほど調和した声を発する猟犬の群れは(略)いないだろう。
My hounds are bred out of the Spartan kind,
So flewed, so sanded; and their heads are hung
With ears that sweep away the morning dew
Crook-kneed, and dewlapped like Thessalian bulls;
Slow in pursuit, but matched in mouth like bells,
Each under each. A cry more tunable
Was never holloed to, nor cheered with horn,

(120)

私はこれが、前半でヘレナが言及する「スパニエル」と呼応しているのではないかと思う。過去記事でも何度か述べたことがありますが、シェイクスピア作品では、心が分裂している状態、狂気にかかわるモチーフは、二度繰り返されることが多い。二度繰り返すことで、心が二つになっている状態を示すわけです。
 
だけれど、実は〈スパルタ種の猟犬 Spartan kind of hounds〉という犬種がよくわからなくて。検索しても垂れ耳という特徴と合致しない。大きく垂れた耳や、喉もとのたるんでいて脚が遅そうなイメージ、高い鳴き声はスパニエルを思わせますよね。いずれにせよ、前半でヘレナが自分をスパニエルに例えていること、後半で〈垂れ耳〉の猟犬について語られていることは確かであり、今回重要なのはこの部分です。

3 『じゃじゃ馬馴らし』のスパニエル

上記の引用にあるような、脚が曲がっている犬種が実際にいるのかわからないのですが、シェイクスピア作品では、脚が曲がっているという表現は、精神的なねじれを抱えていることの表現ですね。『じゃじゃ馬馴らし』では、気性が荒く、周りに嚙みついてばかりいるキャタリーナ(ケイト)について以下のようにいわれます。

なぜ世間ではケイトの脚がねじ曲がってるなんて言うんだ?
Why does the world report that Kate doth limp

(86)

そして、『じゃじゃ馬馴らし』でも、ペトルーチオが召使いにいう以下のセリフに、スパニエルや垂れ耳という言葉が出てきます。

ブーツを脱がせろ、ごろつきめ!(略)
馬鹿野郎! 俺の足をねじ切る気か。
これでも食らえ(召使いを蹴る)もう片方はちゃんと脱がすんだぞ。(略)
俺の猟犬〈スパニエル〉、トロイラスはどこだ? おい、お前、
従弟のファーディナンドをここへ呼んでこい。(略)
このゴキブリ頭の垂れ耳野郎!
Off with my boots, you rogues, you villains! …
Out, you rogue! You pluck my foot awry. …
Where’s my spaniel Troilus? Sirrah, get you hence
And bid my cousin Ferdinand come hither.
A whoreson beetle-headed flap-eared knave!

(134_ヤマカッコ内引用者追記)

足は精神性を表すから、ブーツを乱暴に脱がされるのをペトルーチオは嫌がる。「足をねじ切る気か」というのは、俺の心をねじ切る気か、という意味。そして、それはペトルーチオの妻キャタリーナの心がねじ曲がっていることを投影しているのではないでしょうか。

4 『トロイラスとクレシダ』現実をねじ曲げるトロイラス

『じゃじゃ馬馴らし』にトロイラスやファーディナンドは出てきません。この二人は、シェイクスピアの別の作品の主人公ですね。トロイラスは『トロイラスとクレシダ』の主役。この戯曲の中で、トロイラスは、自分の恋人クレシダが敵軍の兵士と浮気をしている現場を目撃してしまいます。けれど、あまりのショックに、トロイラスは自分の目で見た現実を受け入れることができない。それで、以下のように呟いて、自分の目で見たことを信じることを拒否します。

唯一のものは二つにならないという法則どおりなら、
あれはあの人ではない、ああ、論理の狂気だ、
一つのことを同時に肯定し否定するとは!
論理に内在する矛盾だ(中略)
あれはクレシダであってクレシダではない

(223)

あれはクレシダではないと、目の前で確かに目撃した事実を、自分の都合のいいようにねじ曲げて解釈しようとします。それは、自分の心をねじ曲げてしまうことと同じ。トロイラスは、恋人に浮気されたショックで、心がねじ曲がった人といえます。

5 『恋の骨折り損』恋心を隠すファーディナンド

『恋の骨折り損』の主人公ファーディナンドは、三人の貴族男性とともに、3年間学問に専念し、女性を遠ざけると誓う。けれど、その直後にフランスの王女とその侍女たちが外交交渉で来訪。ファーディナンドと三人の仲間たちは、それぞれの女性に恋心をいだき、誓いを破ってラブレターをしたためます。
 
ファーディナンドはフランス王女への思いを詩に綴りながら、自分の恋心に気づく。けれど、貴族らとともに誓いを立てた手前、自分の恋心をたやすく認めることができない。自分の思いを記した紙を落しつつ、「木の葉よ、愚かな思いを隠してくれ(紙きれにしたためた言葉の中に、誓い破りの恋心を隠してしまおう)」(98)とつぶやく。自分の思いを、一方では隠し、見て見ぬふりをしつつ、もう一方では気づかれたいという葛藤が描かれていきます。

そして、それぞれに恋をして、誓いを破った仲間の男性貴族とともに、ロシア人に変装をしてフランス王女と侍女たちに会いに行く。ファーディナンドら男性陣は自分たちの正体を巧みに隠しているつもり。だけれど実は、女性たちはすべてお見通し。誓いを破ったこと、嘘をついたこと、滑稽で見当違いな恋心の告白、すべてを思うさまからかわれ、笑いものにされてしまいます。
 
自分の恋心に気づいているくせに、体裁のために必死で見て見ぬふりをし、隠そうとする。そういう意味では、彼も自分の本心をねじ曲げようとする人ですね。

6 『テンペスト』ねじ曲げられるファーディナンド

『テンペスト』に出てくる王子もファーディナンドですね。基本的には純粋で優れた人物として描かれていますが、後半、ミランダとチェスをする場面には、以下のようなやり取りがあります。

ミランダ あら、いまのはずるい手。
ファーディナンド まさか、全世界を
         もらってもそんなことはしない。
ミランダ うそ、王国の二十ももらえばずるをして、しないと言い張る、
     でもいいの、きれいな手だと言ってあげる

(150)

一見、好青年に見えるファーディナンドも、心の奥深くには狡さや欲深さ、負けず嫌いな性格を隠している。それがちらりと見えたとき、ミランダはそれを見なかったことにする。ミランダとファーディナンドはこのとき、出会って恋に落ちたばかり。『夏の夜の夢』のヘレナや『トロイラスとクレシダ』のトロイラスと同じ〈恋は盲目〉状態。ファーディナンドが「ずるい手」を指した現実を、ミランダはねじ曲げて、「きれいな手」だったことにしてしまうんですね。
 
シェイクスピア作品において、トロイラスやファーディナンドは、恋の狂気によって現実をねじ曲げるような精神性を象徴する名前なのだと思う。現実にはクレシダは浮気をしているし、『恋の骨折り損』のファーディナンドは誓いを破って恋をしているし、『テンペスト』のファーディナンドはずるい手を指したのだけれど、恋人たちはみな相手の悪い部分さえ、現実をねじ曲げ、自分の心をねじ曲げて、良く見ようとしている。あばたもえくぼ、愛してその醜を忘る状態ですよね。
 
『じゃじゃ馬馴らし』は、夫ペトルーチオが妻のねじ曲がった心を調教する物語。上記のブーツを脱がされる場面で、ペトルーチオは妻のねじ曲がった心について考えながら、トロイラスやファーディナンドを〈スパニエル〉だといい、命令をきかない召使いを〈垂れ耳〉野郎と罵っている。垂れ耳のスパニエルは、現実を直視できない、現実の音を聴けない、ねじ曲がった心の例えではないでしょうか。

7 『夏の夜の夢』現実が聞こえないヘレナ

『夏の夜の夢』のヘレナも彼らと同じ。恋の狂気で、「卑しく醜いものも/並はずれた立派なもの」に見えてしまう、心がねじれた状態。
 
ディミートリアスはヘレナに向かって繰り返し「お前なんか愛してない、だから追い回さないでくれ」(44)「お前なんか愛してないし、愛することもできない」(45)「お前なんか見ているだけでむかむかする」(46)「俺は逃げるよ、藪のなかに身を隠す。/お前なんか野獣にでも喰われちまえ」(47)「どうしてもついて来るなら、覚えてろ。/森の中でひどい目に合わせてやるからな」(48)とかなり辛辣な言葉をぶつけて拒絶しているのですが、厳しい言い方をされればされるほど、ヘレナの恋心は燃え上がり、以下のようにいって後を追いかける。

ついて行こう、これほど愛してる人の手にかかって死ぬのなら地獄の苦しみも天国の歓び。
I’ll follow thee and make a heaven of hell to die upon the hand I love so well.

(48)

そんなヘレナが自分と重ねるのは、垂れ耳のスパニエル。戯曲の後半では、角笛が響く中、シーシアスが自分の猟犬の垂れ耳の美しさや「調和した声」について自慢し、〈聴覚〉のテーマが強調されている。
 
だから、垂れ耳のスパニエルは、現実の調和した声、美しい真実の音に耳をふさぐ者の例えであり、ディミートリアスが拒絶する声を素直に聴きとることができないヘレナの姿を象徴しているのではないでしょうか。垂れ耳はキューピッドの目隠しと同じ。自分にとって都合の悪いことには耳を塞いでしまい、現実の正しい音や言葉に素直に耳を傾けられない、ねじれた恋心の表現だと思うのです。

8 逆転する心と、恋の矢印

さらにいえば、ヘレナの心はねじれすぎて逆さまになり、嫌いだという言葉を好きだという意味に受け取ってしまう、地獄の苦しみも天国の歓びに思えてしまうような状態になっている。上記の引用には、そんな様子が表現されているのではないでしょうか。

『夏の夜の夢』の別のシーンでは、恋人との出会いは「天国を地獄に変えてしまった」(22)「偽りの恋が本物になるどころか/まことの恋が偽りになってしまった」(83)といった価値観の転倒が繰り返し語られます。これがヘレナの逆さまになった心と響きあう。
 
ヘレナはスパニエルのように耳を閉じていて、最も愛する人の言葉が聞こえない、あるいは逆さまに聞こえてしまう。そんな自らの転倒した精神状態を、「昔の物語の逆ね、/アポロが逃げてダフネが追いかける」「臆病が追いかけて勇気が逃げる cowardice pursues and valor flies!」(47)と神話を反転させた例え話で茶化す。
 
けれど、自分を「臆病」と表現する言葉には、本当は傷つきやすい彼女の胸の内が見え隠れする。彼女だって本当は好きな人に愛されたい、冷たい態度を取られれば傷つくし、「愛していない」と繰り返し言われれば傷口に塩をすりこむように心が痛い。だけれど、心がねじ曲がりすぎて、耳をふさぐことに慣れ、いつしか外からの声だけでなく、「傷ついた」という自分の心が発する声にさえ、耳を傾けられなくなっている。そんな痛々しい姿が表現されているように感じます。
 
この作品の設定として、実はヘレナとディミートリアスはかつて恋人同士だったんですね。だけれど、劇がはじまる前の段階で、ディミートリアスがハーミアに心変わりをしてしまっている。この酷い失恋体験が、ヘレナの心に大きな傷を残し、感情が逆さまになってしまった。
 
感情が極まるあまり、心が裏返る現象は、シェイクスピア作品でしばしば見られるテーマですね。『夏の夜の夢』では、これが恋の追いかけっこの矢印の反転と重なります。妖精の魔法によって、ベクトルが以下のように変化しますね。

▶冒頭時点
ヘレナ → ディミートリアス(片思い)
ディミートリアス → ハーミア(片思い)
ライサンダー ⇔ ハーミア(両思い)
 
▶妖精の魔法によって
ディミートリアス → ヘレナ
ライサンダー → ヘレナ
 
▶魔法が解けて
ライサンダー ⇔ ハーミア (カップル成立)
ディミートリアス ⇔ ヘレナ (カップル成立)

最初はライサンダーもディミートリアスもハーミアを愛していたのに、森の中で魔法にかけられて、二人ともヘレナに心変わりをする。恋の追いかけっこが急に逆回転しはじめる。惚れ薬が目に塗られることによって、気持ちがいともたやすく変化してしまい、恋は盲目になる姿が、滑稽に描きだされています。
 
この心変わりは、『夏の夜の夢』では大笑いできる場面ですが、『ハムレット』で王子がオフィーリアに愛してるといった直後にお前なんか愛したことはないといい直して、相手の心を振りまわし、傷つけるのと本質的には同じ、とも言えると思う。気持ちがころころ変わりやすいのは、シェイクスピア作品では、心が未熟であることの証です。

9 コウモリ 

妖精の女王が妖精たちにいう、「コウモリ退治に行ってなめし革のような翼をもいできて」(51)というセリフに出てくるコウモリは、逆さまにぶら下がる生きもので、これも逆転した精神性の象徴。夜行性で洞窟など暗いところを好む習性には、地獄や悪魔のイメージもあるでしょうか。翼はイカロスなど、未熟な若者の気持ちを急上昇させるもの。だからこのセリフは、「ヘレナたち恋に狂った未熟者の、コウモリのように逆さまにねじ曲がった心を癒しておいで。恋に舞い上がって狂気におちいり、地獄めぐりをしている若者たちの翼をもぎ、正気に戻してあげましょう」と読める。この戯曲の展開を象徴するひと言ともいえますね。

10 猟犬の特徴

大きな顎、砂色の毛並み。朝露を払わんばかりに
大きく垂れた耳。
膝は曲り、喉もとの垂れ具合はテッサリアの牡牛そっくりだ。

シーシアスがこう自慢する猟犬の特徴は、以下のように読み解けるように思います。大きな顎や唇は、シェイクスピア作品において、地獄の口を連想させるキーワード。苦しい恋の狂気にとりつかれているヘレナは、地獄を彷徨う者。砂色は未熟者の黄色を思わせますね。朝露を払わんばかりという描写は、とても美しくて意味を見出すのをためらいたくなりますが、野暮を承知でいうなら、やはり神話における浄化の水なのでしょう。

それを「払わんばかり」なのは、ヘレナをはじめとするこの戯曲の登場人物たちの狂った恋心が、浄化を拒否する仕草でしょうか。あるいは目に塗られた惚れ薬による恋の狂気がやがて浄化されて、大団円へと至る予告なのでしょうか。牡牛は心の奥深くに隠そうとしているのに、獣のように暴れて表面化しようとする深層心理や本能的な衝動のようなものを連想させるように感じます。

11 麝香バラと阿呆のロバ耳

『夏の夜の夢』で、目に惚れ薬を塗られたティターニアは、ロバ頭になったボトムに恋をして「すべすべしたおつむには麝香バラを刺し/美しい大きな耳にキスしてあげる、ああ、私の歓び And stick muskroses in thy sleek smooth head,/ And kiss thy fair large ears, my gentle joy.」(112)と言いますね。思わず笑ってしまう楽しい場面ですが、ここで耳が強調されるのも、スパニエルの描写と響きあっていると思う。
 
『テンペスト』では、精霊エアリエルが何度も音楽を鳴らしながら現れ、アントーニオらに魔法をかけるときに、「小太鼓を叩いてやると、/(中略)子馬みたいに耳をぴんと立て、/目をまん丸にし、音楽の臭いを嗅ぐつもりか/鼻先を上げる。ここまで耳を狂わしてやりゃあこっちのもの I beat my tabor, /At which, like unbacked colts, they pricked their ears,/Advanced their eyelids, lifted up their noses/As they smelt music. So I charmed their ears」(130)といいます。
 
『オセロー』では、キャシオーがオセローの耳に悪魔の囁きを繰り返し、不穏な気配が漂うのと同時に、「楽師諸君、あんた方の楽器はナポリで悪い病気をもらってきたな、鼻がかけたみたいな音たててるぞ Why masters, have your instruments been in Naples, that they speak i’ th’ nose thus?」(103)と記されている。注釈によれば、鼻が欠けるという表現は、梅毒についての仄めかしとのこと。

シェイクスピア作品において、聴覚や嗅覚が狂い混ざり合うのもまた、狂気におちいっているしるし。現実の音が聞こえなくなること、スパニエル化することとも結びつく。『夏の夜の夢』のティターニアの様子にも、麝香バラの香りにうっとり酔いしれながらロバの耳にキスをし、それが〈おつむ head〉頭の問題へと結びつけられることで、狂気的な恋心が表現されているのだと思います。

12 しっぽを振るスパニエル

『ジュリアス・シーザー』では、シーザーに反感を持ちつつ、その気持ちを隠してシーザーの前にひれ伏すメテラスがスパニエルに例えられます。また、『ヘンリー八世』では、偽善的な誉め言葉をいうガーディナーがスパニエルのようだと表現されています。

この二作では、スパニエルが、上の立場の者にしっぽを振って媚びへつらい、機嫌を取って恩情にすがろうとする卑しいしぐさの例えとして使われているんですね。いずれも、上の者に対する敵対心を心の奥深くに隠しながら、嫌いな相手の足元にじゃれついて、お世辞を言い、取り入ろうとする卑屈な精神を表現するもの。こちらは、自分の本心を認識しながら、意識的に心の奥深くに隠し、正反対の振る舞いをする者たちですね。

一方、先に見たヘレナたち恋に迷う者は、ほとんど無意識のうちに現実や自分の心の痛みに目をつぶり、耳をふさぐ者たち。という違いはありますが、いずれも本心と行動が激しく乖離し、逆転している、という意味では同じ。シェイクスピア作品のスパニエルは、本音と行動が分裂している者を表す言葉といえるのではないでしょうか。

13 『から騒ぎ』耳に鍵

『から騒ぎ』では、流行は泥棒だと表現され、その泥棒の名はアマーノ・ジャック〈Deformed 心根がねじ曲がった者〉だと記されています。ころころと変わりやすい流行は、移り気な恋する未熟な若者たちと同じ。そんなアマーノ・ジャックの一味は、当時男性の間で流行したヘアスタイルをしているのだという。注釈によれば、「’A(=He)wears a lock.」というセリフにある「lock(髪の房)」は「lovelock」のこと。左前髪のひと房を特に長く伸ばして耳元にたらすスタイルで、それに恋人から贈られた恋の印の品をつけることもあったのだそう。恋人や妻への献身、愛する人への誠実な心を意味するとされていたとのこと。

別の場面でも「その泥棒は耳のあたりに鍵をつけ、その隣に錠前をぶら下げている He wears a key in his ear and a lock hanging by it.」(166)と語られます。恋心や愛する気持ちに鍵をかけた錠前をぶらさげて、決して揺るがない想いを表現するわけですね。これが〈耳のあたり〉と表現されているのもポイントだと思う。確かに髪と耳は近い位置にありますが、ここまで見てきたスパニエルの〈垂れ耳〉の表現と照らし合わせると、それ以上の意味を読み取りたくなりますね。
 
『ハムレット』読解(過去記事ご覧ください)でも記したように、シェイクスピア作品では耳の強さ、弱さが、心の強さ、弱さの象徴になる。外から入ってくる噂話や悪魔の囁きに耳を傾けつつ、それに惑わされることなく、しっかり乗り越えていける者は、己の意志を貫いて望む未来を切り拓くことができる。反対に、外から入ってくる情報にいちいち心を惑わせ、疑心暗鬼になっていく者は、周りを巻き込みながら不幸になっていってしまう。
 
その耳の弱さ=心の弱さが極まると、外から入ってくる音にまったく耳を貸さなくなる。外の声、現実に耳を傾ける余裕がなくなり、垂れ耳スパニエルのように耳をふさいで自分の内側に閉じこもり、思い込みだけで行動しようとする。これが『夏の夜の夢』のヘレナの状態。『冬物語』のレオンティーズも、『オセロー』のオセローも、ひとたび妻が浮気をしていると思い込むと、違うという周囲の言葉に耳を貸せなくなって、悲劇を巻き起こす、という意味では、ヘレナに近い。スパニエルの垂れ耳は、耳=心の弱さの象徴、という言い方もできるかもしれません。
 
『から騒ぎ』ではこれがさらにひっくり返るんですね。ベネディックとビアトリスは、どちらもひどく天邪鬼な性質なため、両思いであるにもかかわらず、互いに素直に思いを伝えられない。そのこじれた状態を見かねて、周囲の者たちが、本人に聞こえるようにわざと大声で噂話をする。ベネディックが物陰で聞き耳をたてているのを知っていて、わざと大声で、ビアトリスはベネディックが好きらしいと内緒話をする。ビアトリスが近くにいるのを知っていて、わざと大声で、ベネディックはビアトリスを好きらしいと囁き合う。
 
ベネディックもビアトリスも、ウィットにとんだ丁々発止は得意だけれど、その分上っ面の言葉に流されやすく、奥に隠された物事の本質、目には見えない相手の本音を見極めるのは苦手。頭は切れるけれど、耳は弱い。噂話に翻弄されやすい未熟者なので、自分の恋についての内緒話を聞くと、簡単にそれを信じて、相手が自分を好きならやぶさかではないということで、周囲の思惑通りあっさりカップルになってしまう。それを象徴する、〈耳のあたりにある lovelock〉なんだと思う。

意地悪な解釈をするなら、未熟な若者の耳の弱さへの皮肉を込めた耳にかける鍵。やさしい目で読むなら、心がふらつきがちな若いカップルの恋が、末永く続くことを願った恋心にかける鍵。その移り気なアマーノ・ジャックという泥棒、つまり気持ちを盗む泥棒は、耳のあたりに鍵をつけ、その隣に錠前をぶら下げている。スパニエルのように耳を閉じるのも、開くのも自分次第。開くにしても、悪魔の囁きに対してか、それとも勇気をもって真実の声に耳を傾けるのか、鍵はいつでもそこにある。
 
『から騒ぎ』はめでたく二組のカップルが誕生し、独り者にもぜひ奥方を迎えなさいといって終わる、ハッピーエンドの物語。だけれど、終盤にベネディックが語る「人の気持ちはくるくる変わる、それが私の結論です」(185)という一節がこの戯曲のテーマ。そこかしこに彼らがいまだ、浮気をしかねない未熟な若者であることが仄めかされて終わります。最後に誕生したカップルの愛が、鍵をかけられたままつづいて行くのか、あっさり鍵は開けられて、気持ちが移り変わっていってしまうのかは、誰にも分からない。そんな何重にもねじれたシェイクスピアのユーモアなのだと思うのです。

14 『トロイラスとクレシダ』のヘレネ

『夏の夜の夢』のヘレナHELENAは、ギリシャ神話のヘレネに通じる名前。ヘレネはトロイア戦争の発端となったともいわれる神話上の美女。先にも引用した『トロイラスとクレシダ』は、これを題材にした作品です。この戯曲のなかで、ヘレネHELENは美しいけれどすぐに浮気し、そのことにまるで罪悪感を持っていないような女性として描かれています(トロイラスの恋人クレシダはその鏡)。
 
過去記事でもふれましたが、神話における究極の女神は、善い面と悪い面を併せ持つ者が多い。とても美しく、愛に満ちているのと同時に、浮気性だったり、とても残酷だったりする。ヘレネもその一人で、純粋であるぶん子供っぽくて、浮気は悪いことだという大人社会のルールをいまいち理解していない。夫が傷つくかもしれないという想像力さえ持ちあわせていないように見える。目の前に素敵な男性が現れると、本能のまま、あっさり心変わりしてしまうんですね。『ハムレット』のガートルードなどにも通じる性質です。
 
この究極の女神の双面性は、一人の中に天使と悪魔が共存しているようなイメージで、やはり心が両極端に引き裂かれているということを意味します。

15 『終わりよければすべてよし』のヘレン

また、『終わり良ければすべて良し』のヒロイン、ヘレンHELENも同じ名前。身分は低いけれど、容姿端麗で性格も良い。父から受け継いだ医術で王の不治の病を治しながら、決して驕らず、威張らない。王侯貴族、誰からも褒められる、優れた資質を持つ女性として描かれています。そのため、一見わかりにくいのですが、彼女もやはり内なる屈折を抱えた女性なんですね。
 
誰からも好かれるヘレンですが、ただ一人、彼女が思いを寄せるバートラムだけは、身分の低いヘレンを嫌い、彼女からの求婚を拒絶する。ヘレンと結婚するくらいなら「永遠に破滅したほうがまし」(76)「愛することはできません。愛する気もありません」(78)とかなりはっきり断るのですが、王の命令で結婚させられてしまう。バートラムは、ならば戦争へ行った方がましだといって逃げ出してしまいます。
 
もともと身分違いの恋、ここまで嫌われたら諦めそうなものだけれど、ヘレンの恋心はますます燃え上がる。一度は巡礼になって夫の前から姿を消そうと決意するものの、外国で再会するとたちまち恋心を再燃させ、知恵を働かせて計画を練り、最終的にはかなり無理やり、バートラムを振り向かせて結婚してしまう。果たしてこれはハッピーエンドなのか。バートラムにとって、身分に関係なく人を見る目を持てたのは成長だとしても、好みではない女性と結婚させられるのはどうなのか……と、なんとも言えない読後感が残る物語。

この作品のヘレンも『夏の夜の夢』のヘレナと似ていて、清く正しく生きているのに、身分という自分ではどうにもならないハンデによって思い人から邪険に扱われることに深く傷ついている。それが感情を狂わせ、相手から嫌われるほど諦められなくなってしまう、身分的に不釣り合いな相手を執念深く追いかける姿が痛々しいキャラクターです。

16 『終わりよければすべてよし』ひねくれ者たち

この作品の別の場面では、ラヴァッチという道化が鞭で打たれたときのことを「まあ、そこそこ!——容赦しないで O Lord, sir!—Spare not me.」(64)とふざける場面がある。直訳は「ああ、神さま、私を憐れまないで」で、少々マゾヒスティックなイメージ。
 
また、パローレスが影でG卿の悪口を言うのを、こっそりG卿本人が聞いている場面では、悪口の内容がかなり辛らつになったところで、G卿が「いまの話であの男が好きになってきた」(161)といい、バートラムに「あんなことを言われても?」といぶかしがられています。ひどいことを言われすぎて、ちょっと気持ちよくなっているという、これも笑える場面ですね。こういう表現が、ヘレンの嫌われるほど追いかける心理と響きあうように散りばめられています。
 
自分の心が発する「痛い」という声に耳をふさぎ、痛いことが気持ち良くなってしまっているひねくれ者は、自分の本心にさえ嘘をつき、本当の気持ちと、偽りの気持ちに心が引き裂かれている人。ヘレンの様子を表す「ひとり言を言っていました、自分の言葉を自分の耳にというふうに」(35)という言葉はそれを表すものですね。
 
バートラムの愚行について「自分自身の裏切り者さ」(147)、「憎んでいるものをあんなに/かわいがれる」「情欲は嫌悪する者と/たわむれる」(167)と表現されることも、バートラムは「陛下にも、母御にも、ご妻女にも/大きな罪を犯しました、しかし最大の害をなした相手は/伯爵自身です」(183)と言われるのも、自分の本心とは逆の行動をとって、自分に対して害をなしてしまう逆さまの心理が表されているように思います。
 
バートラムに逃げられたとき、夫を戦争の危険にさらすのは私なの? とヘレンが必要以上にしつこく長々と自分を責めるセリフが描かれている(109)のも、自分をいじめたいという心理の表現かもしれません。未熟者や精神的に傷ついている者たちが精神的に分裂し、自分がもう一人の自分を痛めつけてしまう、そんな姿が表されているのではないでしょうか。

17 『終わりよければすべてよし』謎めいた一節

以下は序盤で、バートラムの母に、バートラムへの恋心を知られてしまったときのヘレンの言葉。ヘレンは身分が釣り合わないことは承知しており、この想いが叶うとは思っていない。それでも愛さずにはいられない私を憐れんでほしいと訴え、以下のようにいいます(注釈にある直訳です)。

彼女の探索が意味するものを見つけ出そうとしない者、
だが彼女の死ぬところで謎のように甘く生きる者
That seeks not to find that her search implies,
But riddle-like lives sweetly where she dies.

(43)

注釈によれば、ヘレン自身のことを言っているのに「she」と三人称で語っていて、内容もかなり謎めいているとのこと。私は、これもヘレンの引き裂かれた心と、倒錯した精神状態を表すものではないかと思う。
 
シェイクスピアは、精神的な分裂が決定的になったとき、自分自身のことを三人称で語るような描き方をすることがある。例えば『ジュリアス・シーザー』で、シーザーが暗殺される日の朝、周囲の人たちが、悪い予感がするから外出しない方がいいといい、シーザーが出かけるべきか迷う場面。
 
シーザーは、それまでは「俺」「私」といっていたのに、急に自分で自分のことを、「シーザーは行く」「シーザーは危険よりも危険なのだ That Caesar is more dangerous than he.」「シーザーは出かけるぞ Caesar shall go forth.」と急に三人称で語りだす。本当は出かけるのが怖いけれど、周りから勇気がないと思われたくないので行くことにする。ホンネとタテマエが乖離した状態で、自分自身を突き放し、自分自身に言い聞かせるかのように三人称を使うんですね。(サリンジャーの「エズメ」後半で三人称になるのと似ていますね)
 
だから、『終わりよければすべてよし』の上記のヘレンのセリフも、ヘレンの心が分裂していることを示すものだと思う。そして、謎めいた内容をひねくれた心の説明と読むなら「彼女の心の奥深くにある本音が求めているものをあえて見ようとせずに、死にそうに痛い気持ちになる状況を喜びと勘違いして、甘い気持ちで過ごしている者」もう少しかみ砕くと、「バートラムに愛されたい、身分を乗り越えて恋を成就させたい、という思いにあえて蓋をして、死ぬほど苦しい片思いに甘い歓びを見出し、自己満足しようとしている者」という意味だと思う。なんだかものすごいセリフですけど、この気持ち、わからなくもないですよね。

18 ヘレナ、ヘレネ、ヘレン

またいろいろ遠回りしてしまいましたが、シェイクスピアは、究極の女神的な双面性を持つヒロインたちに、HELENA やHELENという名前を付けているのではないでしょうか。そして、痛みと喜び、ホンネとタテマエ、異様なまでの純粋さと貞操観念のなさといった両極に心を引き裂かれたヒロインたちは、物語の中で、罪悪感なく浮気をしたり、極端に一途な恋をして、精神的に追い詰められたりしている。『夏の夜の夢』ではそれが垂れ耳のスパニエルと重ねられながら、歪んだ恋心の表現として、使われているように思います。

19 シェイクスピアからサリンジャーへ

シェイクスピアには、こうしたひねくれた精神状態、狂気を巧みに描きだした作品が幾つもありますね。『夏の夜の夢』では、このような精神性について、以下のように記されています。

狂人、恋人、そして詩人は/想像力で出来ている(131)
詩人の目は、狂おしい一瞥のうちに/天から地を見下ろし、地から天を仰ぎ見る(132)

狂人も詩人も、妄想で頭をいっぱいにし、気持ちの激しい浮き沈みの中にいるという意味では似たようなものだというわけです。サリンジャー作品でいうなら、「逆さまの森」のフォードや、「シーモア—序章—」で「病める人」として語られる実在の芸術家たちがこれに当てはまりますね。精神的にひどくねじれて、逆さまになっている人は、狂気的な気持ちの急上昇と急降下に苦しみながら、現実世界を知覚する五感を閉じ、内面世界へ深く入り込んで、しばしば神話の元型・芸術的な要素をつかみ取って現実世界に持ち帰ってくることがある、という感じでしょうか。
 
サリンジャーの初期作品では、「エディに会いな」の主人公がヘレンという名前。過去記事でも書きましたが、ひどいひねくれ者の女性ヘレンが、鏡の前に座って兄と会話をする作品。奇妙な読後感が残るのですが、作品ごと鏡映しに反転させると腑に落ちる、という仕掛けになっている。作品自体が登場人物の逆さまになった性格を表しているという趣向が面白い一作です。
 
「最後の休暇の最後の日」「他人」に出てくるホールデンの兄ヴィンセントのガールフレンドの名前もヘレン。こちらは、すべての男性がひと目で虜になってしまうような絶世の美女、究極の女神として描かれています。ここにも、神話はもちろん、シェイクスピアからの影響があるのではないかと思います。
 
また、「笑い男」には、「コッカ―・スパニエル(cocker spaniels)の耳に、唇を動かさないで命令をとどこおりなくささやいてみたり」(100)という一文がありますね。これも、『夏の夜の夢』の影響かもしれません。サリンジャーはここで、狂気におちいって耳を閉ざしている人に向かって、「唇を動かさないで」つまり現実には音を発することなく、狂気の人にだけ聞こえる特別な音域でメッセージを送るイメージを描こうとしているように思えます。
 
「コネティカットのひょこひょこおじさん」のエロイーズは、「あたしが欲しいのはコッカースパニエルか何か」「あたしに似てる人が欲しいのさ」(43)とつぶやく。エロイーズは、夫と娘と暮らす、はたから見れば幸せな家庭を持つ主婦ともいえる女性。だけれど、戦争で死んでしまったかつての恋人が忘れられずにいる。恋人を失ったときの心の傷が、現在の夫や娘、使用人に対する冷たい態度、棘のある振舞いとなって現れてしまう人なんですね。自分の大切な人を傷つけることが、めぐりめぐって自分を傷つけると分かっていながら、彼女はそういう態度を改められない。そんな女性の姿がコッカースパニエルに例えられているんですね。

ちなみに『ナイン・ストーリーズ』はディズニー作品への言及も多い短編集ですが、「わんわん物語」は「笑い男」や「コネティカットのひょこひょこおじさん」より後で、関係がなさそう。ただ、サリンジャーがディズニー作品を思わせるような子供でも分かる言葉やモチーフを使って、普遍的なテーマを語ろうとした作家であることは重要だと思う。古くから伝わる神話や昔話のように、誰にでもわかる言葉で大事なことを表現しようとしていますよね。結果、象徴的過ぎて分かりにくくなっている部分もありますが笑、それが不思議とクセになる、独特の作風になっているような気がします。

『キャッチャー』には、タクシーの運転手がコウモリみたいに去って行ったという記述もありますね。同作の最後、回転木馬の場面では、「煙が目にしみる」が流れていて、この曲には「恋は盲目」という歌詞がある。クリスマスの祝祭感漂う街を彷徨うホールデンもまた狂気の人。大人になりたいと思いつつ、インチキな社会に素直になじむことを良しとしないひねくれ者です。

「バナナフィッシュ」のシーモアもまた、現実の水着の色が青か黄色かもわからなくなった狂気の人。海の底を思わせるオーシャン・ルームで奏でるピアノは、現実には聞こえない音を響かせているのかもしれません。現実の音が聞こえなくなった狂気の人は、自分の傷口に塩を擦りこむ行為の究極として、自分のこめかみに銃口を向けてしまう。そうすることでしか、音のない世界から抜け出せないほどに追い詰められてしまった。そんな風に読むこともできるかもしれません。
 
さて、垂れ耳スパニエルはヘレナが耳をふさいでいるという意味かな、というのを短くまとめようと思って書き始めた記事なんですが、気づいたらこんな長文になってしまいました。シェイクスピア、おそるべし、ですね。おかしくもどこか痛々しいスパニエルたちについ共感して、いろいろ考えてしまうのは、私がひねくれ者だからかもしれませんが笑。お読みいただき、ありがとうございました。


シェイクスピア『ハムレット』読解はこちらから。ぜひご覧ください。


J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解はこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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