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ダイジェスト版_J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解_通読まとめ(前半)

J.D.サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」について、私なりの読解を連載してきました。今回は作品全体を通読する形でまとめてみたいと思います。過去記事で言い残したこと、通読するからこそ分かることなども記していますので、本編とあわせてお楽しみいただけたらうれしいです。お時間がなくてダイジェスト版だけ読みたいという方も、ぜひ。詳細につきましては、過去記事をご覧ください(後半の最後にリンクをおきます)。

(前半)
■ニューヨークの広告マン
広告マンが大勢いるということは、フロリダではイベントか何かが行われているということ。カーニバル状態にあるということであり、それは狂気状態であることとイコール。登場人物が日常生活を送るニューヨークを離れて、非日常のリゾート地フロリダへ旅行に来ているということ。広告はイリュージョン、虚構世界、異世界、鏡のなかの世界を示すのでは、というのが私の推測で、後半のはじまり、「see more glass もっと鏡見て」というシビルの言葉とも響きあう。

■五〇七号室
「六」は、「二」つに分裂した人々や精神が「三」位一体で統合されて、死から再生・創造へ向かう「二×三=六」を表す数字。その欠如はシーモアの死を暗示する。「六」の代わりの「0」ゼロ、「O」オーは、嘆きの感嘆詞、地獄の口に通じる言葉としてシェイクスピアが多用したもの。死んで存在や身体的な感覚がゼロになること。

■二時半
聖書のイエス・キリストの受難のエピソードでは、イエスが命を落としたのは三時といわれている。これと重ね、シーモアが死ぬ瞬間が三時になるよう設定された時刻。『キャッチャー』のはじまりに、ホールデンが学校へ戻り、丘のうえからフットボールの試合を眺めるのもこの時間。

■セックスは楽し——もしくは苦し
欲望で頭がいっぱいになって、気分の急上昇と急降下を繰り返す未熟者の精神性の表現。天国に昇ったかと思えば、地獄へと墜落すること、相反する二極で心を迷わせることが狂気の原因となる。

■櫛とブラシを洗った。スカートの汚点(しみ)をとった。黒子に生えてきた二本の毛を抜いた
髪の汚れ、洋服のしみ、黒子は心の内にある汚れや悪い感情、過去に犯した罪のしるし。ミュリエルはここで、さまざまな手段で自らの内にある汚れを浄化しようとしている。「二」は引き裂かれている彼女の精神性を示す。夫の不可解な行動や、夫に不信感を示す両親からの干渉が彼女の心を不安定にさせている。

■ブラウスのボタンの位置をつけ変えた
「笑い男」や「ズーイ」には、物語の後半、登場人物が精神的な成長を遂げる瞬間にボタンをはずしたり留めたりする描写がある。サリンジャー作品においてボタンの開け閉めはおそらく精神的な変容を意味する。仏教の解脱が蛇の脱皮に例えられることや、『リア王』でリアが死の間際に「ボタンをはずしてくれ」という場面から影響を受けたものではないかというのが私の推測。ミュリエルがボタンを付け替えるのは、変容の準備ではないだろうか。

■マニキュアももう少しで終わる
色を塗り替えることも精神的な変容の準備。

■電話のベルが鳴ったからといって、やりかけてたことを慌てて止めるような女じゃない
表面的には友人が多くて異性にもモテる、高慢で計算高い女性と読める描写。だけれど、後の会話で、二晩電話をかけようとしてかけられなかったと言っていることから、ミュリエルはこれが母からの電話だと分かっているはず。ならば、母をじらせたいという気持ち、母娘の対決において、優位に立ちたいという心理の表れとも読める。それ自体が子どもっぽい振舞いだということも含めて、さりげなくも興味深い一文。サリンジャーは父と息子の対決を繰り返し描いているが、「コネティカットのひょこひょこおじさん」では母娘の対決を描いており、このテーマにも意識的だったはず。

■爪半月の輪郭をくっきりと仕上げた accentuating the line of the moon
月の女神ダイアナと聖母マリアが重なることは先行研究で指摘されている。シェイクスピア作品、サリンジャー作品において、究極の女神はしばしば月の女神ダイアナのイメージと重なり合う。ミュリエルはシーモアにとって究極の女神。シーモアが恐れる太陽=神=象徴的父と対。

■左手、つまり濡れてるほうの手を前後に振って風に当てた
アダムとエヴァの楽園追放で、知恵の実(りんご・バナナ)を食べろとエヴァを誘惑した蛇。エヴァと蛇はアダムを誘惑する者という意味では一体。だから、堕落した自分を脱ぎ捨てるためにボタンを付け替える、と先の記述とつながる。『ハムレット』で「ここにおいで、私のそばに」と誘う王妃のように、前後に手を振って、アダム=シーモアに甘い果実を食べろと誘っているのかも。後半の「波なんか無視しちまおう」というセリフと呼応。波もまた、未熟者・バナナフィッシュ・漁師の心を揺さぶるもの。サリンジャー作品で、右は此岸で陸、左は彼岸で海。ならば、その誘惑は反転して母なる海(青いコートを持つミュリエル)からの死への誘いとも読める。

■白い絹の化粧着のほかには何一つ身につけていない
純粋さと娼婦性を併せ持つ女性、聖俗が一致した究極の女神の表現。

■指輪はバスルームに置いたまま
シーモアとミュリエルの心のすれ違い。シェイクスピア作品では、夫婦の分裂は世界の円環が綻ぶきっかけ、秩序の破綻、狂気や悲劇、聖俗といった相反する価値観の分裂に結びつく。

■ポッポしてる。こんなに暑い日はフロリダでも——
後半のバナナ熱と呼応。熱を出すことは、イカロスの翼や蝋燭を燃やすこと、若い血をたぎらせることと結びつく。それは、『ハムレット』などで未熟な若者が起こす悲劇の原因。

■昨夜二度(電話を)かけたわ
シェイクスピア作品、サリンジャー作品で、二度繰り返されることは狂気の兆候。夫婦仲や精神が引き裂かれていることを示す。

■木を見ても例のおかしな真似をしなかったかしら?
樹木信仰で木は自分の分身であり、世界の中心軸。車が壊れているということは、ぶつかったのだろうか。シーモアは木=自分の鏡像を恐れていたのかもしれない。後半で言及される『ちびくろサンボ』で虎がまわる木と呼応する。

■一九四八年度のミス精神的ルンペン
帰還兵にとっての究極の女神。異端派では聖なる娼婦ともいわれたマグダラのマリアのイメージ。

■脚を組むミュリエル
片足になること、足もとが不安定になることは、ミュリエルの精神的な不安定さを表す。母と話すことで表面化する心の傷が、現実と虚構、此岸と彼岸に半分ずつ足を踏み入れるような精神状態をもたらす。後半、片足跳びをするシビルや、足を見られて激高するシーモアと呼応する。

■今世紀唯一の大詩人
ドイツの詩人リルケのこと。ナルキッソスやオルフェウス、木、マグダラのマリア、temple(こめかみ・神殿)一角獣など、シーモアと重ねられるイメージが多数。

■あれはドイツ語ですよ!(それを読めなんて)まあ、ひどい。悲しい。
言語がバラバラになったためにコミュニケーションがままならいことが、精神の荒廃を招く。後半の砂の城と合わせてバベルの塔の崩壊と重なるイメージ。シェイクスピア作品やエリオットの『荒地』にもみられるテーマ。シーモアとミュリエルの両親との意思疎通がうまくいっていないことと重なりあう。

■煙草に火をつけるミュリエル
後半の蝋と合わせて、神話における炎の浄化を連想させる。煙草や葉巻に火をつけ、汚れを浄化し、灰で世界を再構築するテーマは「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」「ズーイ」「シーモア-序章-」でも描かれている。

■例の窓の一件
窓ガラスはシーモアの内面と外界や、意識と無意識、此岸と彼岸の境界線。外が暗ければ、それは鏡になる。シーモアは自分の鏡像を恐れて過去にそれを割ったことがあるのかもしれない。ガラスの脆さは、シーモアの心の弱さと重ねられる。

■バミューダ土産のきれいな絵をダメにした
神話や『荒地』に描かれた水死を連想させる場所。シェイクスピアの『テンペスト』でもバミューダが同じ意味で使われている。シーモアは自分が水死する運命であることを恐れて、それをダメにしたのかも。

■シーモアは完全に自制力を失ってしまう可能性がある、とミュリエルの母は二度いう
正気を失って狂気にのっとられてしまう。それは、実像を失って鏡像に主導権を奪われてしまうこと。その究極は、狂った自分が正常な自分を殺してしまうこと。精神分裂に関する事柄は二度繰り返される。

■このホテルにも精神分析の先生はいる
フロリダとニューヨークに一人ずつ精神分析医がいるという会話を通して、非日常のリゾートと生活の拠点ニューヨーク、ミュリエルとその母の鏡像関係が示される。シェイクスピア作品、サリンジャー作品で、二度繰り返される表現には否定的な意味が込められるので、「とても優秀な人」「とても優秀な先生」と二度繰り返されるのには、皮肉が込められているのかも。

■日焼けしたミュリエルと色白のシーモア
光と影、聖と俗、相反する要素を持つ二人が結ばれるのが夫婦の理想形。錬金術的な発想のあるシェイクスピアの『リチャード三世』で天使のようなアンと悪魔のようなリチャードが結ばれるように。

■オーシャン・ルームで二晩ともピアノを弾いていたシーモア
オルフェウスの竪琴。海の底は無意識の深淵や冥界、異世界(フロリダの陸より更に深い部分)を思わせる。二晩ともなのはシーモアの精神状態が実像と鏡像、正気と狂気に分裂しているから。ミュリエルのいるにぎやかなバーと、海の底の静寂を思わせるオーシャン・ルームは鏡像関係。

■ビンゴ
シビュラの託宣のエピソードがパーフェクトに出そろって、ビンゴのようにそろう日、だろうか。『ハムレット』では賭け事に一喜一憂するのも若気の至りのひとつで、「ズーイ」でのルーレットへの言及とも結びつく。

■グリーンのディナードレスとブルーのコート
グリーンはマグダラのマリアや錬金術の緑玉板に結びつくイメージ。シェイクスピア作品では精神を分裂させたり、統合させたりする不思議な力を持つ色彩で、サリンジャー作品にもこれが引き継がれている。後半で語られる吉報のオリーヴとも重ねられる。ミュリエルが持っているブルーのコートはこれと鏡像関係。母なる海、聖母マリアの表象。

■マディソン街の婦人帽のお店
サリンジャー作品において、マディソン街の広告産業や高層ビルは、未熟で傲慢な人間が、天へ挑もうとするバベルの塔のイメージと結びつく。冒頭の広告マンが大勢フロリダに来ているという表現は、マディソン街のバベルの塔が一時的にフロリダに現れているということかも。帽子は狂気のしるし。婦人向けにしてあるのはシーモアとミュリエル、どちらも狂気の中にいることを強調するためだろうか。この作品では、広告宣伝が戦意高揚のプロパガンダによって狂気におちいった若者の心情と結びつく。

■おばあちゃまの椅子
神話やシェイクスピア作品では、椅子も世界の中心。心のなかの玉座に座り、自分の領土=精神を治める王になることが大人になるということ。自分のなかの狂気や汚れを認め、受容して制御できる人になるということ。サリンジャー作品では、精神分析のカウチにも結びつく、心の傷を癒して再生へ導くための場所。寿命が迫るおばあちゃまの椅子にシーモアが何かしたことを、精神分析医に相談すべきだという部分が重要なのでは。

■トラックにでも乗って来たみたいな顔の客
トラックは、『アーサー王と円卓の騎士』やシェイクスピア作品にでてくる荷車のことでは。英雄を異世界に運び、敵から守り、闘いで負った傷を癒し、変容を助けて再生へ導く乗り物。象徴的に死んだ英雄のための仮の棺でもある。戦争で死んだ兵士を蘇らせる大釜ともいわれる聖杯の乗り物版。トラックにでも乗って来たみたいな顔とは亡霊みたいな顔のことであり、フロリダが異世界であることの表現だと思う。

■バレリーナと呼ばれるドレスが長すぎること
サリンジャー作品において、バレエは女性の足の痛みやゆがみ、オイディプス・コンプレックスを示す記号。(エレクトラ・コンプレックスというべきなのかも)長すぎるのは、ミュリエルの精神的なバランスが崩れていることを暗示しているのでは。ミュリエルが過去にもこれを訴えたことがあるのに、母は忘れている、という表現も秀逸。母はミュリエルを心から心配しているのだけれど、どこかポイントがズレていて、ミュリエルの方はこれ以上シーモアとのことで心配をかけまいと、自分は大丈夫だと言い張る。どこにでもある家族間のちょっとした、でも見逃せないすれ違い。

■ミュリエルの父母が娘に、一人になりたいなら旅費を出す、船の旅でもしろということ
漁師や船乗りが海へ出ることは、シェイクスピア作品、エリオットの『荒地』、サリンジャー作品において、波に揺られて心を迷わせる者になることと同義。漁に出る夫と陸で待つ妻、夫婦が離れ離れになることが、精神が引き裂かれることと重なる。〈獲る者=漁師〉と〈獲られる者=魚・バナナフィッシュ〉はどちらも波に翻弄される者であり、いつでも入れ替え可能。両親から船旅を提案されて反発するミュリエルの姿は、両親から独立して大人になり、夫と新しい家庭を築こうとする娘の精神的な葛藤の表現。これが鏡となってシーモアの中にある象徴的両親との精神的な葛藤を映し出す。そこには、戦争へ行って敵を殺すべきだという父親世代からの教えと、本当は人を殺したくないし、自分も殺されたくないというシーモア自身の正直な気持ちの闘いも含まれるのでは。

■ミュリエルが、戦争が終るまでシーモアを待っていたこと
漁に出た夫を待つ妻もまた、神話のオデュッセウスの帰還に結びつく伝統的なテーマ。漁に出て波に揺られる夫は、心を迷わせる者=バナナフィッシュだが、夫の帰還を待つ妻の側もまた、夫と離れ離れになることで精神的なバランスを崩す。エリオットの『荒地』では漁に出た夫の帰りを待てない妻が浮気をし、シェイクスピアの『マクベス』では、漁師の夫を待つ妻が栗を食べすぎて残飯太りの婆ァと罵られる。バナナを食べすぎるバナナフィッシュと同じ。「シーモア-序章-」には、バディのもとにシーモアが「まるで帆船のように夕日を浴びて」帰ってくるという描写がある。

■浜にいるシーモアについて「それじゃまるで彼がホントに頭が狂ってるみたいな——」
砂浜は此岸、海は彼岸。浜にいることは二つの世界に片方ずつ足を踏み入れていること、狂気にとりつかれていること、実像と鏡像に分裂していることを意味する。「頭が狂ってるみたい he were a raving maniac」は後半の「ママはもう気が狂いそうよ It’s driving Mommy absolutely crazy.」と対。

■バスローブを脱ごうとしないシーモア
イカロスの蜜蝋の翼を溶かして墜落死させる太陽=神を恐れているのでは。同時に、『キャッチャー』のスペンサー先生の描写を思い出すなら、バスローブは神話の英雄が死んだあと、再生するときの赤ん坊のおくるみのイメージに結びつく。

■大勢のバカ者どもにいれずみを見られるのはいや
大勢のバカ者どもとはシーモア自身を含めたfool道化=未熟者のこと。サリンジャー作品では、相反する価値観に心を惑わせている未熟者はみな道化。目には見えないいれずみはシーモアの心の中にある汚れや悪い感情のしるし。そこには、戦地で敵を殺したいと思ったことも含まれていると思われる。ミュリエルのスカートのしみと鏡像関係になっている。

■右脚に体重をかけるミュリエル
母との会話によって精神的に不安定になっていることの表現。右は現実世界を示し、シーモアがこのあと冥界に引き寄せられていくのとは逆方向の動き。

今回はここまで。お読みいただきありがとうございました。
後半は以下よりご覧ください。


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