ダイジェスト版_J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解_通読まとめ(後半)
J.D.サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」について、私なりの読解を連載してきました。今回は作品全体を通読する形でまとめてみたいと思います。こちらは後半です。前半は下記よりご覧ください。詳細につきましては、過去記事をご覧ください(最後にリンクをおきます)。
(後半)
■see more glass もっと鏡見て
巫女シビルが告げる神託。頭のなかが苦しみでいっぱいで、大変な現実のことなんか忘れて、ナルキッソスのように鏡の世界へ引きずり込まれたいと思っているんでしょう? それならもっと鏡を見ればいい。それは死を意味するけれど、神話の世界では死んで浄化されることが再生への道であり、恐れることは何もないのだといっているかのよう。(読者にほんとうに死んだ方がいいといっているわけではありません。むしろ読者が大変な現実を生き抜くために、神話の英雄は物語の中で代わりに死ぬのです、あたりまえですけども)
■シビルの翼を思わせる肩甲骨とカナリアンイエローの水着、オリーヴ
シビルが三位一体の精霊や、ノアの方舟神話でオリーヴの枝をくわえて吉報を知らせにくる鳩に重ねられているのでは。
■シビルは巨大なビーチ・ボールの上に、海の方を向いて落ち着かなげに腰かけている
ビーチ・ボールはシェイクスピアのグローブ座のシンボル、ヘラクレスが肩の上に担いだ天球globe。神話の英雄ヘラクレスもまた、若いころは狂気にとりつかれた道化。彼が肩の上に載せているのは狂った頭。それは、欲望にとりつかれ、自我肥大して膨れ上がった頭であり、一人ひとりが心の中に構築した世界観の象徴でもある。同時に、シェイクスピア作品に登場する、運命を映すガラス玉(水晶玉)の意味もあるかもしれない。後の「シーモア-序章-」や「ハプワース」で語られる道化のバランス芸やジャグリングへつながるイメージ。自分の運命をいかに操るか、未熟な道化として運命に翻弄されるか、熟達した道化として運命をコントロールしていくかはジャグリングの腕次第。シビルは巫女として冥界を意味する海の方を向いて、シーモアの不安定な運命を見透かしている。
■かわいらしく結ばれていた絹のハンカチ
オルフェウス神話やオシリス神話、シェイクスピアの『お気に召すまま』に見られるような、象徴的に死ぬ主人公の首もとを守り、再生へ導く包帯。
■カーペンター夫人
大工は創世神話において世界を創造した神さまのイメージに結びつく。サリンジャー作品には、大工の息子も大人になるときには、神(父)に倣い次の世代の大工となって、周りから教えられた所与の世界観を壊し、自らの世界観を再構築しなければならないという思想が語られているように思う。
■シビルの母が娘に「オリーヴ持って来てあげる」という
ノアの方舟神話の吉報のオリーヴを、母は娘に持ってきてあげると約束する。このセリフを受けて、後にシビルはシーモアにオリーヴが好きかと尋ねる。巫女のいうオリーヴという言葉に、シーモアは死後の再生、暗い運命の先にある希望のようなものを感じたはず。前半のミュリエル母娘の対決めいた会話とは対照的に、幼いシビルとその母との会話には、母から娘へ受け継がれるものの善い面が現れてもいるように思う。
■ハベルさんの奥さん、シビルが崩れた砂の城を踏みつけること
バベルの塔の崩壊のイメージ。前半のドイツ語が読めないという記述と響きあう。砂の城は、傲慢な人類が築いたマディソン街の高層ビル、そこで生み出される広告宣伝、戦意高揚のプロパガンダや拝金主義の危うさを連想させる。これがシーモアの肥大した自我、戦争で負った心の傷などで膨れ上がった狂気が脆く崩れ去る物語と重なり合う。
■漁師館
シーモアが漁師・漁夫王であることの表現。漁師や漁夫王は気分の波や世間の荒波に翻弄されて心を迷わせる未熟者。前半のミュリエルの船旅と対になっている。
■「水に入らないの?」と訊かれたシーモアが、バスローブの襟を押える
水に入ることは神話の水死を連想させる。シーモアはバミューダの絵をダメにするほど水死に敏感になっていたし、オーシャン・ルームでピアノを弾くシーモアはオルフェウスにも重ねられる。オルフェウスは首を切られ八つ裂きにされて死に、その首は死後も川を流れながら歌をうたっていたいたといわれている。ここでシーモアは、巫女シビルが自分の死を預言したことを感じ取り、首を切られる危険を感じて襟に手をあてているのでは。
■シーモアがシビルに「きみを待ってたんだ」「何か新しいものある?」「プログラムに何か出てない?」と尋ねること
シーモアは巫女が神託を告げにくるのを待っていた。プログラムとはシビュラの託宣と重ねられるエピソードのことだろうか。
■シビル「パパが明日ヒコーキで来るの」シーモア「もう来るだろうとしょっちゅう思ってたんだ」
巫女シビルのパパは神さまで、空からやってくる。死を告げる最後の神託がそろそろ来るはずだと、シーモアは予感していた。自分の運命は分かっていると、巫女に告げているのでは。
■青年(シーモア)は薄い髪の毛についていた砂を払い落とした
「シーモア-序章-」でもシーモアの薄い髪の毛について語られる。シェイクスピア作品、サリンジャー作品では、帽子と同様、頭髪も精神状態を表す。おそらく道化の伝統的な散髪芸とも関係があるのだと思う。髪の毛を整えることは心を整えること。髪が汚れていることは心が汚れていること。髪が薄いシーモアは、精神的に荒廃しており、砂を払うしぐさはそれでも心を整えようとしている姿と読める。対して、前半では櫛とブラシを洗い、今は美容院へ行っているかもしれないミュリエルはおそらく豊かな髪を持っている。前半の日焼けの対比でも触れたように、真逆の性質を持つ二人が夫婦になることが重要。
■女の人(ミュリエル)がいそうなところは何千とある
シーモアが大勢のバカ者ども、foolの一人であるように、ミュリエルもまた、当時アメリカ中にいたはずの帰還兵の恋人や夫を待っていた若い女性の一人。サリンジャー作品では、どこにでもいる女性こそが誰かにとっての究極の女神。
■美容院で毛をミンク色に染めてもらっているかもしれない
獣になることもまた狂気におちいること。本能が理性を上回ること。だからここでは、『キャッチャー』に登場する髪を染めた娼婦サニーのように、ミュリエルのなかの外見ばかり気にするような俗っぽさ、マグダラのマリアのような娼婦性が語られているように思う。けれど、「コネティカットのひょこひょこおじさん」では、赤毛をブロンドに染めるのは精神的な変容の意味。ミンク色から聖杯や錬金術の黄金を連想することも可能。あえて両義的に書かれているのか微妙なところ。
■かわいそうな子供たちにあげるお人形を作ってるかもしれない
ミュリエルはマグダラのマリアのような娼婦性と、聖母マリアのような純粋さや優しさを併せ持つ、聖俗が一致した究極の女神。これは聖母マリアのイメージだろうか。
■(腹ばいのシーモアは)両手の拳を握り、二つ重ね合わせてその上に頤をのせた
頭がぐらつく不安定な態勢。未熟な大工が建てた不安定な土台としての拳の上に、自我や欲望で肥大した頭がのっている様子を表しているのかも。ぐらつく頭は今にも転がり落ちそう。首が転がって死ぬイメージが、オルフェウスや英雄の首を守るハンカチの記述と結びつく。
■シビルの黄色い水着をブルーに見間違える
シーモアは現実を見る目を閉じて、彼岸世界を見る目を開きつつあることの表現では。黄色は西洋の宗教画では卑しさを意味するが、黄金へ変容する可能性を秘めている。青は聖母マリアや海を思わせる、傷ついた主人公を包み込んで癒す色。シーモアは、黄色い砂浜と青い海に片方ずつ足を踏み入れて心を揺らがせている未熟者。黄色と青を混ぜた緑色は心が統合された状態や夫婦が一緒にいることを意味し、それが理想。
■ぼくはオバカサンだねえ What a fool I am.
シーモア自身も大勢のバカ者どもfoolのひとりで、道化。前半のfoolと対。
■シビルに水に入らないのと聞かれたシーモアが「そいつをいま真剣にかんがえてるとこさ。大いに考慮しているとこだ——と聞いたらうれしいだろう、シビル」と答える
巫女に死ぬ覚悟ができたかと問われて、真剣に悩んでいるのだと答えている。シビルは神話のなかで、老いても死ねないことに苦しみ、死にたいと望んだキャラクター。シビルにとっては死こそが救いだから、シーモアが真剣に死について考えていると聞いたら、シビルはうれしいはず。シーモアがシビルに「きみも若いころにはずいぶんバナナフィッシュを見たことがあるだろう?」というのは、シビルを長寿の巫女として読めというサイン。
■浮袋の空気が抜けている
サリンジャー作品では、深くすこやかな呼吸ができる人は精神的に安定している大人。浅く苦し気な呼吸をする者は心に悩みを持つ未熟者。空気が抜けている浮袋も、シーモアが精神的に病んでいて、地上では息ができない魚・バナナフィッシュになりつつあること、死が近いことの表現かもしれない。
■シーモアは、シビルの両方の足首をつかんで「ぼくの生まれは山羊座なんだ」という
山羊座は上半身が山羊、下半身が魚として描かれる。半分は陸の、半分は海の生き物であり、陸と海の境目で揺らいでいるシーモアにふさわしい星座。両足首をつかむしぐさで、読者に、山羊座に足がないことを想起せよと促す。オイディプス神話で描かれているように、足は未熟な若者の弱点であり、彼等は足のない魚・バナナフィッシュに例えられる。半分は獣で半分は魚の山羊座は、実像と鏡像に分裂したシーモアと重なる。
■シャロン・リプシャツをピアノの椅子にいっしょに坐らしてやった
オーシャン・ルームでピアノを奏でるシーモアは、冥界の入り口で竪琴を奏でるオルフェウス。犬にやさしいシャロンは、冥界の番犬ケルベロスを思わせる。
■シャロン・リプシャツをシビルだと思うことにした
シャロンはシビルの分身的な存在。この二人を起点に、作中で直接登場するシーモア(のたぶん鏡像)・シビル・ミュリエルに対し、間接的にしか登場しないシーモア(のたぶん実像)・シャロン・ミュリエルの母という分身関係を示そうとしているのでは。シャロンは犬にやさしい良い子。シビルは犬をいじめ、シャロンにあからさまな嫉妬を向ける悪い子。善と悪、光と影といった相反する二極が、シーモアの中にある実像と鏡像への分裂や、ミュリエルの中にある聖俗の双面性と響きあう。
■シビル「水に入りましょう」シーモア「よしきた」「なんとかやれるだろう」
ついに死を覚悟した、自らの運命を受け入れたセリフのようにも思える。前半のバミューダとつながる水死と浄化、シビュラの託宣のノアの方舟の洪水のイメージ。
■ああ、シャロン・リプシャツか。よくもそんな名前が思い浮かんだもんだ
シャロンは豊饒の大地、楽園、リプシャツは地獄の口から落下しないように守る人を意味する。だから、ライ麦畑で子どもたちから崖から落下しないように守る人を示す名前なのでは。それは、生者がたやすく冥界に入り込んでしまわないように入り口を守る冥界の番犬ケルベロスにも重なるイメージ。
■記憶と欲望を混ぜ合わし
エリオットの『荒地』の一節。バミューダの海の渦に巻き込まれて水死することは、現世的な心の迷いのもととなる、善悪、聖俗などの相反する二極を混ぜ合わせて、混沌へ還ること。現世において悩みのもととなる記憶と欲望を混ぜ合わせることは、現世的な価値観を超越した境地へ至ること。
■これからバナナフィッシュをつかまえるんだ We’ll see if we can catch a bananafish.
魚は迷える魂の象徴。脆く腐りやすい魚の身は、弱く精神的に崩壊しやすい未熟者と重ねられる。神話において、未熟な永遠の少年ははやく大地へ還って、成長した姿で再生すべきとされ、魚に例えられる。『ハムレット』の「魚屋か」というセリフと同じ。黄色と青のラインの入ったイワシ科の魚はシビルの水着の色、シーモアが見間違える色とも同じ。バナナはアダムとエヴァが食べた知恵の実。未熟者を誘惑し、ときに狂気に導く甘い果実。それを〈つかまえる catch〉のは、ライ麦畑で遊んでいて崖から落ちそうになる子どもたちを捕まえるのと同じこと。シャロンの分身であるシビルにもその資格があるのだろう。
■シビルは変哲もない波打ち際の貝殻を拾い上げると、仔細にそれを眺めていた
貝殻は伝統的な巡礼者のしるし。「ズーイ」にも、シェイクスピアの『ハムレット』や『夏の夜の夢』にも出てくる。これは推測だけれど、二つの殻が合わさってできる貝殻は、豆と同じように、分裂と統合の象徴なのだと思う。「きみも若いころにはずいぶんバナナフィッシュを見たことがあるだろう?」と問われて、否定しつつもシビルが貝殻 an ordinary beach shell を眺めるのは、巫女シビルが心を迷わせる巡礼者=片割れの貝殻を眺めることであり、それはバナナフィッシュを見つめることと同じ。
■ホヮーリーウッド Whirly Wood
『ちびくろサンボ』にでてくる木の周りをぐるぐる回る虎と重ねられる。世界の中心軸である木の周りを回ることは、バミューダの水の渦に巻き込まれて死ぬのと同じ、混沌へ還ること。『ちびくろサンボ』では、虎がインドのバター、ギーに変わる。バターは、混沌へ還った命が再生するときの未分化のエネルギーとなる。「テディ」で赤ん坊ブーパーが飲むミルクのイメージとも対になる表現。
■「四」
シビルとシーモアは「ホヮーリーウッドWhirly Wood」と二回ずつ、計四回いう。後半のはじまりには、シビルが「もっと鏡見て see more glass」と四度、「水に入らないの Are you going the water?/Let’s go in the water.」も四度いう。木の周りを回ってバターになること、鏡を見てナルキッソスのように死んでしまうこと、バミューダのような水流の渦に巻き込まれて水死することは、すべて現世を離れて原初の混沌へ還ることに結びつく。これは推測だけれど、ユングが「四」を統合や完全性の象徴と考えたことと関係があるのかも。
■シビルが左手で左足をつかんで片足跳び
前半の右脚に体重をかけるミュリエルと同じ。ミュリエルもシーモアも足もとが揺らいでいて、此岸と彼岸に片足ずつ踏み入れた者であることを、巫女として示しているのだろうか。これもユング心理学由来で、サリンジャー作品において、右は理性や意識、左は感性や無意識の領域。前半では右脚に体重をかけるミュリエルが意識の側、対して間接的にしか登場しないミュリエルの母が亡霊のような立ち位置にいる。後半では、右足で片足跳びするシビルが意識の側、対するシーモアは鏡像になっているから、そこにいるのだけれど亡霊のようなもの、ということ?
■「六」
六匹のバナナフィッシュと六頭の虎の対。これもユングが唱えた数字の意味で、二×三=六は創造と生成を意味するとされる。フロリダにいるシーモアの鏡像、ミュリエル、シビルと、この三人の鏡像関係であるシーモアの実像、シャロン・リプシャツ、ミュリエルの母のこと?
■蝋は好き?
イカロス神話やシェイクスピア作品で、未熟な若者は蝋に例えられる。エネルギーに満ちて燃え上がりやすい心身を持つ一方で、蝋のようにたちまち燃え尽きて脆く崩れ、灰になってしまう危うさをあわせ持っている。ミュリエルの煙草の火から、最後の銃を撃つfireにも結びつくイメージ。炎の浄化は地獄の業火に結びつき、地獄とはシャロン・リプシャツが守る地獄の口から落下して至る場所。つまり個々人の内面にあるものだから、「蝋燭をかじるのが好き」だというシビルのセリフは、目には見えない内面の汚れを浄化すべきという巫女の神託では?
■オリーヴ
ノアの方舟神話の吉報。シーモアが「どこへ行くにも」死出の旅にも「必ず持っていく」「オリーヴと蝋」は、炎で現世の汚れを浄化して再生へ導かれるための必需品。
■犬にやさしいシャロンと犬をいじめるシビル
良い子と悪い子の鏡像関係。オーシャン・ルームでピアノを弾くシーモアは、冥界の入り口で竪琴を奏でるオルフェウスなので、シャロンにはそこにいる冥界の番犬ケルベロスのイメージが重なる。生きている人が簡単に冥界に足を踏み入れないようにする役割とは、シャロン=楽園にいる人が、リプシャツ=地獄の口から地獄へ落下しないように守る人のこと。対するシビルは、拳銃オルトギースに記された猫としてシーモアを死へ導く役目なので、犬と仲が悪い。
■水泳帽をかぶらないシビル
前半の婦人帽のお店の記述と鏡あわせの表現。サリンジャー作品では、帽子は狂気のしるし。狂気の原因は現世的な迷いだから、「テディ」の主人公や「ハプワース」のシーモアのように、現世的な知識が少ない幼い者の方が賢者。まだ幼いシビルの頭は狂っていないからこそ、シーモアを正しく神話的な死へと導けるのだと思う。
■バナナフィッシュを見張ってれば、それでよろし
巫女として心を迷わせる人々を見守り、シーモアをシビュラの神託に描かれた一連のエピソードへ案内してパーフェクトな日にし、死に導く役目に集中していればいいのだということ。ここでシビルが「放してはだめ」「あたしを押えてるのよ」と命令するように言うのは、神託に従えということ。
■バナナフィッシュがバナナを食べすぎること
食欲、情欲、金銭欲、自己愛や妄想などで脳をいっぱいにして肥大させ、もとに戻れなくなること。
■波なんか無視しちまおう
波は現実世界の荒波、それに一喜一憂して翻弄される未熟者の心。バナナフィッシュや漁師は波に翻弄される者。波に揺らがない心を手に入れるのがシーモアの理想。水の中は死の世界につながっており、死ぬことは現世的な悩みを超越することに結びつく。
■バナナを六本口にくわえたバナナフィッシュ
表面的にはシビルが嘘をついているようにもとれる。けれど巫女としてなら、シーモアがバナナフィッシュであることは分かっているはず。六はシーモアの死後、再生と創造を予感させる良い数字で、冒頭の「五〇七号室」で欠如していた「六」がここで現れているのはシーモアにとって喜ばしいこと。オリーヴの枝をくわえて吉報を知らせに来る鳩としてのシビルにふさわしいセリフ。
■シーモアはシビルの足にキスをする
上記の言葉を喜んでの行動。子どものゆがみのない足は、歪んだ足を持つ大人、オイディプス・コンプレックスに翻弄されているシーモアにとって素晴らしいもの。
■鼻に亜鉛華軟膏を塗った女
日焼けの炎症を抑える薬だけれど、バナナやホテルの部屋の匂いと関連して、嗅覚の異常を連想させる表現として読みたい。通常の嗅覚や味覚を持たない女は、甘い果実バナナの味が分からないから現世の欲望に惑わされない。代わりに、現実世界では感知できないもの、彼岸世界にあるものを感知する能力を持っている、黄色い水着も青く見えるシーモアと同じ境地にいる人ではないかと、シーモアには感じられる。ゆえに、目には見えないはずの弱点や精神的な汚れを見抜かれるかもしれないと恐れているのでは。
■エレベーターで足を見られたといって怒るシーモア
イカロスが太陽へ向かっていくときのように、エレベーターは未熟な若者が自意識を急上昇させる空間。そこで、鼻に亜鉛華軟膏を塗った女にいれずみ・汚れがある足を見られることは、自分の弱点や恥を見抜かれること。シーモアはそれを恐れ、過剰な反応を見せるのでは。
■ホテルの部屋には仔牛皮の新しいトランク類やマニキュアの除光液の臭いが漂っていた
仔牛皮の臭いは象徴的父、マニキュアの匂いは象徴的母の香り。だから作者はこの部屋を、原両親が一体となったウロボロス空間として表現しようとしているのでは。息子シーモアはウロボロス空間で死に、原初の混沌へ還っていく。『キャッチャー』読解で見たように、トランクはシーモアのための棺。爪の色が塗り替わることはミュリエルの精神的な変容を思わせる。前半の月と太陽と響きあう。
■七・六五ミリ口径のオルトギース
戦争が彼を殺す。ドイツの詩人リルケと、サリンジャー自身のドイツでの凄惨な戦争体験、ドイツ製の拳銃が重なる。拳銃についた猫とSのマークはシビルであり、シーモアの頭文字でもある。正気=実像のシーモアを殺したのは、狂気=鏡像のシーモアという言い方も可能だろう。ここには「六」があり、それは悲惨な結末に添えられた希望なのだと思う。
■ミュリエルの隣で自殺すること
最後の晩餐の皿にのった二匹の魚のイメージとともに、夫婦は一体化する。作中に散りばめられたいくつもの鏡像関係や対のモチーフとともに。「ズーイ」にある「優秀な詩人が死を迎えている。しかし同時にやはりこのすぐ近辺で、若い女性がその美しい身体から、膿汁(うみ)をたっぷり一パイント抜かれている」(94)という記述は、シーモアのこめかみから血が流れるとき、シーモアとミュリエルの中にあった汚れは浄化され、ミュリエルが変容を遂げるという意味なのでは。
■こめかみを撃ち抜く
サリンジャー作品では、狂気は脳や頭の病、ゆえに自我肥大に陥ったナルキッソス、欲望でいっぱいになった永遠の少年の頭は肥大する。バナナを食べすぎて穴から出られなくなったバナナフィッシュのこと。だから、こめかみを撃ち抜いてそこから血を流すことで、ふくらんだ頭は浄化される。Templeこめかみと同時に神殿を意味する言葉には、個々人が大工として構築する自らの内なる世界観のイメージが重なる。
(おわりに)
推測の域を出ないものも多いし、ほころびや矛盾もあるし、すべてが正解ではないかもしれません。これだけ読み込んでもなお、よくわからない部分も多々あります。なんとも面倒くさくて、興味が尽きない作品。英語で読んだら、きっともっと発見もあるはず。だから、ここは以下の有名すぎる書き出しに助けを求めてみることにします。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
「Perfect Day」というタイトルの考察で、「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という表現に触れた(リライト時に追記しました)ように、シーモアは純粋な完璧さ(あるいは完璧な純粋さ)を求めたがゆえにガラスのように壊れてしまった。サリンジャー同様、ユング的なテーマを多く扱っている村上春樹のデビュー作が、完璧さを放棄するところからはじまるのは面白いですよね。
永遠の少年の創造は、おのれの不完全さを認めるところから立ち上がるのかもしれない。それが大工になるということなのかも、太ったおばさんということかも、とか都合よく思ったりしまして。perfect とは言いがたい読解ではありますが、だからこそ、ここから新しい楽しさが広がるといいなということで、ダイジェスト版を終わります。お読みいただきまして、ありがとうございました。
考察の詳細は以下をご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解11~20のまとめはこちらから。

