01_J.D.サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん/アンクル・ウィギリー」読解
J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「コネティカットのひょこひょこおじさん」の解釈と感想を4回に分けて掲載します。こちらが1回目の記事です。物語の流れに沿って考察していきます。ネタバレになりますので未読の方はご注意ください。
▶アンクル
「ひょこひょこおじさん/アンクル・ウィギリー/Uncle Wiggily」は、注釈によれば連作童話の主人公の名前、親切な年寄り兎でリューマチの脚をなげいているとのこと(50)。本作の主人公エロイーズが、かつて転んで足をくじいたときに、当時つきあっていたウォルトが「かわいそうなひょこひょこおじさん Poor Uncle Wiggily」といって笑いあったという思い出からとられたもの。uncleおじさんとankle足首をかけたダジャレ。フロイト好きのサリンジャーのこと、何気ないダジャレが実は大事。
▶オイディプス
サリンジャー作品は神話や昔話を下敷きにしているものが多いことは、過去記事でもみてきたとおり。神話でankleくるぶし・足首といえば、オイディプス王。赤ん坊の頃、両のくるぶしを金具で留められて捨てられていたことから、「腫れた足」を意味するオイディプスという名を与えられた男の物語。
本作を書くにあたり、サリンジャーがオイディプス神話を意識していたかどうかは分からない。けれど、ankle、眼鏡、金釘、いくつもの二重性、車のキーなど、オイディプス神話と重ねて読むことで意味がぐっと深まるモチーフが複数あることは間違いない。また、サリンジャーはフロイトが好きで、「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」などの作品にはオイディプス・コンプレックスについての記述と解釈できる部分もある。「対エスキモー戦争の前夜」で「セリーナの兄は身体を曲げて無心に素足のままの踝をボリボリ掻きながら Absently, he bent over and scratched his bare ankle.」「セリーナの兄はなおも踝を掻き続けている Selena’s brother went on scratching his ankle.」ジニーは「踝を掻く相手(フランクリン)の手もとを見ていると、踝はしまいに真っ赤になった She watched him scratch his ankle till it was red.」と繰り返されるのは、「コネティカットのひょこひょこおじさん」においてankleが重要であることを示すもの。オイディプス神話について意識していた可能性は高いというのが私の想像。どこまでが作者の意図的なものかは各自の判断ということになるけれど、本稿では作品を楽しむために、オイディプス神話とも照らし合わせながら解釈していきたい。
サリンジャー作品では、心の揺らぎが足もとのぐらつきとして現れることは、「バナナフィッシュ」読解でみた通り(詳細過去記事ご参照ください)。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデンは、雪道で何度も転びそうになり、自宅へ帰った際にはエレベーター係の前で足を引きずる振りをする。「バナナフィッシュにうってつけの日」のシーモアは、エレベーターの中で足を見られたといって激高する。神話のオイディプスはもちろん、アキレウス、童話の赤い靴の女の子やシンデレラ、人魚姫など、若者の未熟な精神性が足・脚の傷として描かれるのはひとつの伝統で、サリンジャーもこれに倣っている。
伝記によれば、サリンジャーは第二次世界大戦に従軍した際、母から送られてきた靴下で命拾いをしたとのこと(A)。過酷な戦闘で足を痛めるのは致命傷であり、物語のなかだけでなく、実体験においても足を守ることの大切さを痛感していたらしい。サリンジャーは足・脚もとの揺らぎや傷、足・脚を守ることの大切さについて複数の作品で繰り返し描いており、本作ではこれがタイトルになっている。
▶道化のエロイーズ
デビュー作「若者たち」のデルロイ、『キャッチャー』のホールデン、グラス家の一族まで、神話やシェイクスピア作品から影響を受けているサリンジャー作品では、登場人物たちが道化的な性質を持つことも、過去記事でふれたとおり。
終始足もとがぐらついている愚か者は、バランス芸を披露するfool・道化でもある。山口昌男によれば「ナバホの道化はびっこを引いている」とのこと(『道化の民俗学』)。『キャッチャー』にはナバホの毛布についての言及もあるし、作中に登場するニューヨークの自然史博物館はインディアンについての展示も充実しているらしい。足元がふらつく未熟者は、fool・道化でもあるというのも古くからお決まりの表現。
本作の主人公エロイーズも道化。自分で選んだ夫と結婚して娘を持ち、家事はメイドに任せて優雅に暮らしている主婦で、気の持ち方次第でいくらでも幸福になれそうなのに、かつての恋人で戦死したウォルトが忘れられず、精神的に不安定。昼間から酒に溺れ、友達に愚痴をこぼし、揺らぐ心が酩酊でふらつく足もとと、思い出の中の足首をくじいたというエピソードにあらわれる。目の前にある幸せに気づかない愚か者。
▶道化芝居
この短編は三つの章に分かれていて、それぞれの章の始まりに「三時近く」(36)「五時十五分前」(49)「七時五分過ぎ」(59)と時間が記されている。AIによれば、イタリアの伝統的な道化芝居コンメディア・デラルテは三幕構成のものが多いとのこと。各幕の役割は、1,導入(対立の提示)、2,混乱・ドタバタ、3,解決・和解。これが本作にもそのまま当てはめられる。
サリンジャーはデビュー作「若者たち」から道化祭りをモチーフにしているし、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」はコンメディア・デラルテのストーリーにほぼそのまま重ねて読むことができる、というのが私の解釈。「シーモア—序章― Seymour: An Introduction」というタイトルは、その前口上としても読める遊び。「フラニー」も「ズーイ」もそれぞれをお芝居仕立てとして読むと面白い。ベッシーがカーテンを取り払うのが、緞帳が上がる合図になっていたり、フラニーが最後にお辞儀をしたり(詳しくは各作品読解でまとめます)。
サリンジャーは作家を志す前は役者志望だったそうで、演劇への思い入れは人一倍。「この世界すべてが一つの舞台、/人はみな男も女も役者にすぎない」と記したシェイクスピア作品からの影響も大きく(『ハムレット』読解の操り人形の考察もぜひご覧ください)、これがグラス家サーガの役者一家という設定へ結びついていく。「コネティカットのひょこひょこおじさん」はそれ以前に書かれた作品で、後にグラス家の兄弟の一人に組み込まれるウォルトが登場する。だから、この作品も三幕構成の道化芝居として構想されたのでは、というのが私の考え。主役はエロイーズ、見物人はメアリ・ジェーン、素人演劇のはじまり、はじまり。
第一幕
▶メアリ・ジェーンの遅刻
物語はメアリ・ジェーンが、コネティカットのエロイーズの家に遅刻してやってくるところからはじまる。前にも来たことがあるのに、なぜだかひどく道に迷ったという記述が、異世界に迷い込んだような雰囲気を演出する。現実にいながら、少しのあいだだけ虚構の世界に迷い込む感じ。かつてルームメイトだった二人は、この後、お酒を飲みながら学生時代の思い出話をする。しばし現実を忘れて、過去に戻って記憶の世界を彷徨う。
▶言い間違い
メアリ・ジェーンが「メリック・パークウェー」へ曲るまでは問題なかったのに道に迷ったというのを、エロイーズは「メリット・パークウェー」だと正す。言葉の覚え間違いについては、「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解で述べた通り。これが後で出てくる書棚の記述と響きあう。
▶二時間
メアリ・ジェーンは、前に「二度」もここを訪れたことがあるのに、道に迷ってしまって「二時間」も遅刻する。過去記事でも述べたように、神話やシェイクスピア作品に倣うサリンジャー作品では、「二」は人の心を引き裂き狂気へ導く不吉な数字。「二人そろって」(36)「二十分の後」(37)「二箱」(38)「二つの書棚」(40)「二人のジャクソン」(41)「二分もたたぬうちに」(57)「二人して二十分もかけて」(60)など、本作でも一つのキーワードになっている。
道化とは心を引き裂かれた愚か者のことなので、たいてい二人組か、王や主人公などの影として現れる。一人の場合も、顔の半分に笑い、半分に涙を描く引き裂かれた存在で、一人では半人前。エロイーズの心は、夫や娘への愛憎、笑いと涙、善と悪、正気と酩酊(狂気)、聖と俗、現在と過去に引き裂かれて迷っている。また、道化は日常と非日常、現実と虚構、此岸と彼岸に片方ずつ足を踏みいれ、越境する存在でもある。本作では道化エロイーズが場を異世界化して、観客メアリ・ジェーンを非日常世界へ引き込む。と同時に、二人が道化の二人組、鏡像関係でもある。二人には「ルームメイト以上の絆があった」「どっちも中退」で「同じ年、同じクラスで、月までもほとんど同じ月」に退学したというのは二人が分身であることを示すもの。
「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」後半のXとZや、「ズーイ」の兄と妹のように、サリンジャー作品では、相反する価値観を持つ道化の二人組が会話劇を繰り広げ、双方の対立や和解が描かれていくのがひとつの典型。本作にも、エロイーズとメアリ・ジェーン、エロイーズとラモーナ、ウォルトとルー、ジミー・ジメリーノとミッキー・ミケラーノら、いくつもの「二人組」が登場する。
オイディプス神話も、父を殺し、母を妃にするという二重の罪を中心に、ライオスが流す血とオイディプスが流す血、ゼウスとアポロン、神託と人間ティーレシアスによる予言、二人の息子と二人の娘など複数の二重性がオイディプスを捕え、運命を狂わせていく物語。これが後の書棚の記述へ結びつく。
▶涙と笑い
さんざん道に迷い、やっとの思いでエロイーズの家に到着したメアリ・ジェーンは「泣きそうな声で、クリーネックスの箱がどうとかと、何かわけのわからぬことを言って Mary Jane just wailed something ambiguous, something about her box of Kleenex」「クリネックスで洟を拭きながらまだ動揺した様子で——汚されでもしたような様子さえ見せて still looking upset, even fouled.」(柴)いる。これは、ほとんど泣いていたと受け取っていいと思う。
けれど、その二十数分後にはエロイーズとのおしゃべりを楽しんでいて、「頭をのけぞらせて声高に笑った」(38)「またのけぞって大声に笑った」(39)と「二度」大笑いする。涙と笑い、悲劇と喜劇の転換が強調されているのは、彼女が道化芝居の見物人だから。これが情緒不安定で乱高下しやすい道化エロイーズの胸の内の投影にもなっている。
道化芝居には、道化が舞台背景に描かれた地獄の口に落下して、地獄めぐりをするという伝統的な物語がある(詳細過去記事ご参照ください)。二度大きな口をあけて笑うのは、エロイーズとメアリ・ジェーンが地獄の口へ落ちていくしるし。
反対にラモーナに会ったとき、メアリ・ジェーンが「下唇をくわえて感に堪えたような表情」をするのは、幼児神的な能力を持つラモーナは地獄に落ちないという意味があるのかもしれない。上記で汚されたと訳されている fouledは「バナナフィッシュ」読解でも触れた言葉。これについては後述。
▶道化としてのエロイーズ_キャメルのコート
エロイーズがキャメルのコートを着ているのは、彼女が獣化しているしるし。獣になるのは、人間的な理性よりも、動物的な本能が優位になること。サリンジャー作品では、道化になることとほぼイコール。「フラニー」で主人公がラクーンのコートを着ているのと同じ。
▶仔羊の膵臓
エロイーズは遅刻してきたメアリ・ジェーンに、「昼ご飯みんな焦げちゃったわよ、仔羊の膵臓から何から the whole damn lunch was burned―sweetbreads, everything」という。客が遅刻したからといって料理が焦げるのは変だろうと思うけれど、これもたぶんあえての奇妙な言い回し。サリンジャー作品では、心の中が荒廃することが、腹の中が地獄と化すことと重ねられ、大きな口をあけることが、口のなかに落下して地獄めぐり=体内めぐりをすることに結びつく(詳細過去記事ご覧ください)。仔羊とはエロイーズのことであり、内臓は彼女の内面の象徴。焦げは地獄の業火と、炎による汚れの浄化を表すもの。
▶ヘルニア
メアリ・ジェーンの上司はヘルニアで自宅に引きこもっている。立って歩くことが難しくなるという意味で、ヘルニアもひょこひょこおじさんに連なるイメージ。『キャッチャー』の中盤、ホールデンが娼婦に、脊髄の手術をしたと嘘をつく(165)など、サリンジャー作品では、背骨がその人の世界観を支える柱の象徴。これが不調をきたすのは、エロイーズの内面に構築された世界観が崩れつつあるということ。
▶郵便物と口述筆記
メアリ・ジェーンはヘルニアで動けない上司に「郵便物を届け、一、二通手紙の口述筆記をとって来る」(36)仕事をしなければならないという。サリンジャー作品で、手紙は神話世界・集合的無意識を通過して届くメッセージ。書くことは新しい世界を創ること(詳細過去記事参照)。エロイーズの愚痴や思い出語りをメアリ・ジェーンが聞き、記憶にとどめることが、エロイーズの癒しと再生につながる、というストーリーと重ねられているのかも。
▶汚れた雪に煙草
「エロイーズは、足元の汚れた雪の上に煙草を捨て」(37)る。汚れた雪は、戦争で恋人をなくし、傷つき汚れてしまったエロイーズの心。そこをさらに荒廃させていくのは、エロイーズ自身でもある。
▶道化としてのエロイーズ_酩酊
農神祭・カーニバルでは道化が酩酊してたわごとをいうのも、参加者を非日常へ誘い込み、活気を吹き込む一つの儀式(『道化と錫杖』)。エロイーズが酔って愚痴を並べ、過去を懐かしむのも似たようなもの。杯をかさね、酔いが回っていくとともに、会話の内容も深くなっていく。自宅など同じ場に居ながら、会話やしぐさ、象徴的な小道具で心の奥へ奥へと引き込み、地獄めぐりを表現するのは、「愛らしき口もと目は緑」や「ズーイ」など、サリンジャー作品でしばしばみられるパターン。ひとつの舞台で、背景や小道具を変えてさまざまなシーンを表現する、お芝居のような小説を目指したのだと思う。
▶永遠の少年としてのエロイーズ
エロイーズは「寮の三階で、ドアを閉めたエレベーターの中に一人の兵隊といっしょにいるところを押さえられ、一週間後に退学した」(37)メアリ・ジェーンは「痩せた、空を飛ぶことで頭がいっぱいの air-minded」若者と結婚するために退学した(柴_38)。
サリンジャー作品では、エレベーターが、ユング派の神話元型における永遠の少年の急上昇・急降下する精神性を表すことは、「バナナフィッシュ」読解でも述べた通り。先にふれた『キャッチャー』でホールデンが足を引きずるのも、エレベーター係の前でのこと。
空を飛ぶことで頭がいっぱいの若者というのも、天や空を志向し、自分の限界を超えて高みへ昇ろうとする永遠の少年の特徴に当てはまる。エロイーズとメアリ・ジェーンはともに永遠の少年を恋人に持った女性であり、未熟な相手を選ぶ彼女たちもまた未熟な若者だったということになる。
▶赤毛からブロンドへ
二人は学生時代に友人が、結婚する前の晩に赤毛をブロンドに染めたエピソードについて語り合う。過去記事でも述べたように、神話やシェイクスピア作品、それに倣うサリンジャー作品では、赤毛は未熟な若者のしるし。金は聖杯や錬金術的達成、精神的な黄金の獲得を示す色。赤毛からブロンドになるのは、未熟な若者が立派な大人に成長した証であり、精神的な変容の表現。
またユング派心理学では、傷つき引き裂かれた心が癒されて統合されることが、聖なる婚姻と表現される。結婚する前の晩に赤毛をブロンドに染めた友人についての思い出話は、これからエロイーズに起こる内面の変化の予告。メアリ・ジェーンやラモーナらとの対話を通して、エロイーズの血だらけの胸の内があらわになり、癒されて変容し、成長して黄金の輝きを獲得するこの短編のストーリーと呼応する。
けれどサリンジャー作品では、染めた髪は上辺だけ取り繕った薄っぺらい変化を表すものでもある。エロイーズはこの短編を通じて、とりあえずの癒しと成長を遂げる。けれど、それは一時的なものであり、彼女が心の底から本当に改心するのはもう少し先のことなのかもしれない。そんな両義性を感じさせる表現。
▶カウチ
エロイーズはハイボールを片手に、カウチにだらしなく寝そべっている。堕落した内面が、何気ない仕草にも表れる。またサリンジャー作品では、カウチは精神分析やカウンセリングを連想させるアイテムでもある。ユング派心理学では、神話を語ること、道化カーニバルに参加すること、精神分析を受けることはすべて心の奥深く、無意識の領域や夢の世界におりていき、混沌へ還って現実を見つめ直すという意味で近いところがあると考える(確か河合隼雄先生のご著書にそういう記述があったと記憶しているのですが、どれだったか…)。
クライアントであるエロイーズはカウチに横になり、カウンセラーであるメアリ・ジェーンに向かって過去の思い出を語ることで、心の奥深くに隠された傷を探る。酩酊して催眠状態のようになり、夢の世界、無意識の領域に入っていく。
単に主婦がお酒を飲みながら友だちに愚痴をいっているだけの場面を、こう大げさに解釈するのは馬鹿みたいだと感じられるかもしれない。けれど、本作には「心理学」というキーワードも出てくる。また、「ズーイ」で兄がユングの物真似をしながら、カウチに横たわる妹の悩みを聞く姿(181)には明らかに精神分析のイメージがあり、本作にそれを読み取るのもそれほど無理のある解釈ではないと思う。
物語りすることで、自分の心の奥深くにある問題点に気づくこと。それを認めて受容することで、傷が癒えていくこと。これが本作の軸であり、サリンジャーが小説を書くこと、読者がそれを読むことで起こる心の動きともそのまま重なりあう、そういうことが目指されているのでは。
▶クロスするankles
エロイーズは「細いけれども実にきれいな脚を投げ出して足首を重ね合わせていた her thin but very pretty legs crossed at the ankles」というのは、タイトルにもあるankles足首で十字架をつくるしぐさ。これも、引き裂かれた心が象徴的に死んだのち、癒されて再生へ導かれるしるし。詳細は「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解参照。
▶ブルーの椅子
対するメアリ・ジェーンは「青いまっすぐな椅子に座っている She was seated in the blue straight chair.」(柴_39)。サリンジャー作品で青は聖母マリアを連想させる色彩。メアリも聖母マリアに結びつく名前。AIによれば、ジェーンは神の恵みや慈悲を意味するとのこと。『キャッチャー』でホールデンが好きな幼馴染の女の子もジェーン。
これもAIによれば、キリスト教美術において、聖母マリアが幼いイエスを膝にのせて座る姿は「知恵の座」と呼ばれ、マリア自身が神の知恵(イエス)をのせるための玉座とみなされる。そのため、彫刻や絵画では神を支える盤石な土台として垂直で揺るぎない姿勢で描かれるとのこと。前述のヘルニアについての会話で、エロイーズが「メアリ・ジェーンなどにはまず罹る気遣いのない病気」(37)だと答えているのは、この連想があるからだと思う。
ブルーの椅子に腰かけるメアリ・ジェーンは、傷ついたエロイーズを慈悲深く癒す聖母マリア。メアリ・ジェーンがラモーナに対し「感に堪えたような表情」(47)や「表情たっぷりのやさしい声」(48)で語り掛けるのも、彼女に聖母マリアのような母性が付与されているからだと思う。
対するエロイーズは、「セクシーな腰の動きを見せるストリップの真似をやりだ」(49)すなど卑猥なイメージがあり、マグダラのマリア的。究極の女神は聖俗の二面性を持つというのも過去記事で述べてきた通り。本作ではメアリ・ジェーンとエロイーズにそれぞれ、究極の女神の聖と俗の性質が与えられている。
▶アベラールとエロイーズ
以前も書いたことがあるけれど、エロイーズという名前はおそらく「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」でもふれられている実在の人物、アベラールとエロイーズからとられたもの。アベラールは聖職者だったにもかかわらずエロイーズと恋に落ち、子供を持った聖俗一致の象徴。そのあとエロイーズも修道女となり、二人がともに生きることはなかったけれど、その後も文通を続け、精神的な交流は続いたとのこと。
サリンジャーが描くエロイーズも、かつての恋人ウォルトを思い続けるなど、心の奥深くには純粋なものが見え隠れしている。この後、彼女も思い出の中ではブルーのカーディガンを着ていたと語られるように、ウォルトと付きあっていたころはエロイーズも聖母マリアのような純粋さを持った娘だったし、今でもそれが完全に消えたわけではないはず。本作のエロイーズはモデルになった女性と同様、一人で聖俗一致した存在でもある。
▶ベラ・ルゴーシ
エロイーズは、かつての旧友の恋人を、アメリカの映画俳優に例えて笑いを取る。注釈によれば、ベラ・ルゴーシはドラキュラなどの怪人役で有名とのこと(38)。ドラキュラ伝説も棺で眠る、杭で打たれる、十字架に弱いなど、神話の死と再生と結びつくモチーフが多い。
▶道化としてのエロイーズ_ストッキングだけの足
エロイーズが室内で「ストッキングだけの足」(38)だと語られるのも、彼女が道化だから。道化は舞台でアクロバット芸を披露するために、裸足に専用の薄いシューズを履いている。「ド・ドーミエ=スミスの青青の時代」で言及されるピカソのアルルカンの絵を思い浮かべると分かりやすい。もちろん、ピカソの友人だと嘘をつくドーミエも道化。初期短編「大戦直前のウェストの細い女」でも裸足が同じ意味で使われている。
▶神聖な装身具
メアリ・ジェーンは喉もとに、母の形見のカメオのブローチをかけている(39)。母エロイーズから娘ラモーナへ受け継がれる資質、母と娘の分身性という本作のテーマを象徴するアイテム。神話の英雄は首を切られて死ぬことが多いというのも、「バナナフィッシュ」読解で示したとおり。先に述べたアベラールとエロイーズの実話では、アベラールは馬から落ちて首の骨を折ったが一命をとりとめたといわれている。神話の英雄のような人生を地で歩んだ人物で、サリンジャーはそこに惹かれたのかもしれない。
喉もとに神聖な装身具をつけるのには、喉もとを守る意味が込められているとも読める。「バナナフィッシュ」で、死を意識したシーモアが襟に手をやるのと同じ。「コネティカットのひょこひょこおじさん」で、象徴的に死んで再生するのは主人公エロイーズ。「そんな神聖な装身具なんてただの一つもないんだな」というエロイーズは、無意識にその危機を感じ取り、メアリ・ジェーンの神聖な装身具をうらやんでいるのかも。
▶アイスピック
エロイーズは「もしもルーのお母さんが死んだら、形見に——ハッ、ハッ——時代もののアイスピックにイニシアルを入れた奴でも遺してくれるかな」(39)と自嘲する。本作ではエロイーズの心が外の雪のように汚れたまま凍り付いていくさまが描かれていくが、アイスピックはそんな心を砕いて溶かし、死と再生を促す道具。同時に、母と娘の世代間対決における武器でもある。
また、先ほど足首をクロスする表現があったように、本作には聖書のイエス・キリストの受難のエピソードも重ねられる。アイスピックは十字架にかけられたイエスの脇腹を刺し、血を流した聖槍。民衆の対立や不信心、赤毛のユダの裏切りに象徴される汚れは、イエスが生贄となって血を流すことで浄化されるというのがユング派の神話学の考え方(G)。
「イニシアル入り」なのは、神話における象徴的な死と再生が、名前に代表される言葉の解体と結びつくから。「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解ではそれが、単語がアルファベットに解体される表記で示されている。さらに、キリストがかけられた十字架に「I.N.R.I.」ナザレのイエス、ユダヤ人の王 Iesus Nazarenus, Rex Iudaeorumの頭文字を記されたというエピソードとも結びつくのではないか、と解釈した。先にふれたMerrick とMerrittの言い間違いもこれに類するもの。聖槍を思わせるアイスピックに、イニシアル、アルファベットに解体された名前が記されることで、同様のテーマが語られているのでは。
▶埃っぽい窓枠、汚れて凍る雪
メアリ・ジェーンは「窓ガラスの枠に片方の手首をのせかけたが、埃でざらっぽかったので、すぐに引っ込め」る。「外を見ると、さっきまでぐしゃぐしゃしていた汚い道路の雪が、凍りかけているのがはっきりと分かる」(39)。サリンジャー作品で、ガラス窓は心の中と外界や、意識と無意識を隔てる境界線。埃っぽい窓ガラスの枠は、汚れたまま手当てされず、放っておかれたエロイーズの心の扉。外で凍りかけている汚い雪は、傷つき流された目には見えない血や、俗っぽい考えで汚れたまま凍りつきそうになっているエロイーズの胸の内。
ウォルトが戦争中の事故で命を落としたのは悲劇であり、エロイーズの悲しみにも同情できる。けれどその後、夫や娘を大切にせず、使用人に対しても冷たくあたるエロイーズにも改めるべきところはある。先ほど、外の雪に煙草を投げ捨てたように、彼女の心の荒廃を悪化させているのは彼女自身でもある。時間が経つほど凍りついていく窓の外の雪が、頑なになっていくエロイーズの精神性と呼応する。
▶二つの書棚
メアリ・ジェーンは「ぎっしり本が詰まった二つの書棚の前を通りながらも、本の背文字に目をくれるでもなく」(40)行き過ぎる。書棚はこの家に住むルー&エロイーズ夫妻の心の内に築かれた言葉の構築物、世界観や価値観の集積を表しているのだと思う。過去記事でバベルの塔と述べてきたもの(詳細過去記事ご覧ください)。Merrick とMerrittの言い間違いや、アイスピックに記されたイニシアルとも響きあう。「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解でみたように、言い間違い、覚え間違いは、言葉(バベル)の塔の崩壊と結びつく。
メアリ・ジェーンは書棚にまるで興味を示さない。表面的には、メアリ・ジェーンも結婚直後に刑務所に入るような伴侶を選ぶほど浅はかな未熟者であり、友人の読む本になどまるで興味がないと読める。深層では、聖母マリアと重ねられるメアリ・ジェーンは、窓枠の埃や外の雪の汚さに敏感に反応する清らかな女性。
少し先回りすると、エロイーズはジェーン・オースティンのような純文学を好むのに対し、ルーは冒険物語など大衆文学が好きで、妻はそのことで夫を軽蔑している。のだけれど、最終的には純文学も大衆文学も書かれていることに大差なく、そんな些細なことを気にするエロイーズもルーと同じ俗物で似たもの夫婦だというのが本作ににじむサリンジャーの思想だというのが私の解釈(詳細後述)。本当の清らかさを知る聖母マリアは、本棚に並ぶ書名で人を判断するような俗っぽい価値観を超越した存在であることが示されているのかもしれない。
▶スフィンクスの謎かけ
二つの書棚は、エロイーズの二本の足とも重ねられると思う。かつて足首をひねってひょこひょこおじさんとからかわれ、今も酩酊して足元をふらつかせているエロイーズは、二本の足で現実の世界にしっかり立つことができない未熟者。ウォルトと付きあっていた頃から自分一人で立つ能力を持たなかったエロイーズは、まず自分の力で立つことができる二つの足、二本の書棚(柱)を構築しなければならなかった。
そのうえで、エロイーズを一本の柱と考えたとき、もう一本の柱として互いに支え合える相手と結婚すべきだった。けれど、若いころに人生の伴侶になるはずだったウォルトを失って傷ついたことで、精神的なバランスはますます悪くなってしまった。おそらく自分一人で立つ能力が身につかない状態で結婚したこともあり、もう一本の柱として頼りたい夫ルーとの関係もぎくしゃくし、不満がつのるばかりで物足りないと感じてしまっている。
オイディプス神話では、怪物スフィンクスが、朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足。これは何か、というなぞなぞをだす。ハイハイを卒業して、二本足で自立して歩ける大人になることは、心の中に社会で生き抜くための、言葉で出来た現実的な世界観をしっかり構築すること。メアリ・ジェーンが結婚したような、空ばかりを夢見て地に足のついていない永遠の少年になることなく、無謀に天ばかりを目指す傲慢なバベルの塔を建てようとするのではなく、身の丈にあった、地に足の着いた自分らしいラインナップの書棚を構築すること。エロイーズにはこれが出来ていない。
エロイーズはまずこれをやらなければならないのだけれど、読者が彼女と比べて自分は二つの書棚を持てている、二本の足でしっかり立てる人間だと考えることにも罠があるのではないかと、私は思う。オイディプス神話では、健やかで強い体と、賢い頭脳を持ち、二本の足で自由に歩ける立派な青年に成長したオイディプスが旅に出て、調子に乗って喧嘩になった老人を殺し、スフィンクスを倒し、テーバイの王になる。けれど後から、以前殺したのは血のつながった父で、結婚した相手は母だったという恐ろしい事実を知って破滅する。
オイディプスが怪物スフィンクスを倒したのは、人のためになる善い行い。だけれど、調子に乗って喧嘩になった父を殺したのは少々行き過ぎた行為。やられなければやられるという状況での正当防衛だったという言い訳はいちおう成り立つし、もとはといえば子供を捨てた父の悪行が神の怒りをかい、それが残酷な運命として息子にふりかかっているという因果もあるのだけれど、だからといって三叉路で争いになったくらいで殺すというのはやりすぎ。
神話が生まれたころの感覚は分からないけれど、まともな書棚を持つ大人なら、話し合うなど他の解決策を探るべきだと思うのが普通だし、ソポクレスの『オイディプス王』には「傲慢は、それにそぐわぬ富を得ると/とめどなく膨れ上がって/収拾がつかなくなり、/やがては真っ逆さまに奈落へ/落ちていく」(『オイディプス王』河合祥一郎訳、光文社古典新訳文庫_76)という言葉もある。オイディプスの破滅には、本人の傲慢も一因としてやはりあり、それはスフィンクスの謎かけ、とくに二本の足で歩くという言葉と呼応しているのではないか。それが、先に述べた父殺しと母を娶るという二重の罪を中心とした、いくつもの二重性の連鎖と呼応しながら、オイディプスの心を引き裂き破滅させるのではないか。そして、二本の足で歩いていたオイディプスを、三本足にするのではないかと思う。
童話のアンクル・ウィギリ―、足の悪い兎は、杖をついているキャラクター。また、「笑い男」には「乳母車や杖を振り上げて怒る老婆」という記述がある。これも、スフィンクスのなぞなぞと関連付けて読むと面白く、やはりオイディプス神話への意識があるのかなという気がする。
▶鏡を見る道化
メアリ・ジェーンは「鏡をのぞいて歯をしらべた。それから口を閉じて飢えの前歯を強く舐めまわし、もう一度鏡に映してみた」(40)と語られる、鏡を見るのも道化の振る舞い。また、シェイクスピア作品やサリンジャー作品では、歯の状態も若者の心の内を表す指標。「ドーミエ」の主人公は歯を八本も抜かれ、「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」では、黒い歯の詰め物が語り手の心の奥深くにある汚れを暗示し、『キャッチャー』のホールデンは歯磨きの空箱を蹴り、「ズーイ」ではシーモアの影響に縛られるズーイの歯をベッシーが心配する。本作でメアリ・ジェーンが歯の汚れを気にするのも、窓枠の汚れや窓の外に見えた雪の汚れ、が象徴するエロイーズの心の汚れの投影として、自分の中の汚れを確かめる行為と解釈できる。
▶ここは囲まれてる
「エロイーズは両手に一つずつ新しくつくった飲物のグラスを持ったまま急に足を止めると、両方の人さし指をピストルの格好に突き出して言った「動くな。ここはすっかり囲まれてるんだ」」(40)と、道化としておどけてみせる仕草にも、どこか物騒な雰囲気が漂う。此岸と彼岸を越境する道化は、冥界への案内人。
『キャッチャー』の後半、真冬の深夜のセントラルパークで凍えるホールデンが、死者アリーを思い、自分が死ぬことを想像するように、サリンジャー作品では、雪や氷に囲まれた極寒の世界が冥界と結びつく。エロイーズが汚い雪に囲まれて凍りついていく、このあたりが「すっかり囲まれている」というのは、エロイーズ宅やコネティカット一帯が異世界化している、現実に居ながら一時的に彼岸に近づいているという意味にも読める。このあとエロイーズは、現実に生きている夫よりも、死んでしまった元恋人のウォルトを懐かしみ、心を寄せていく。ピストルはいうまでもなく、「バナナフィッシュ」でシーモアを死者にした道具でもある。
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