記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

02_J.D.サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん/アンクル・ウィギリー」読解

J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「コネティカットのひょこひょこおじさん」の解釈と感想を4回に分けて掲載します。こちらは02です。01は以下よりご覧ください。

▶道化としてのエロイーズ_バランス芸

エロイーズは飲物を持って進み出ると、メアリ・ジェーンのは危なっかしい格好ながら受け皿にのせたが、自分のは持ったままで、またもや寝椅子の上に身体を投げ出した(40)

エロイーズは寝たままシガレット・テーブルの向こう端に積み重ねてある灰皿に手をのばし、苦労して一番上の一枚をとると自分の腹の上にのせた(43)

(エロイーズは)床の上に仰向けに転がって、その貧弱な乳房をした胸の上にグラスをのせている 
a drink balanced upright on her small-breasted chest.(49)

(エロイーズは)転がりそうになった胸の上の空のグラスを片手で押さえた(57)

いずれも昼間からだらしない格好で酒を飲み、煙草を吸いながら、友人に夫やメイドの愚痴をいう、堕落した主婦の姿をリアルに伝える描写。であると同時に、不自然な姿勢で危なっかしく揺らぎ観客をハラハラさせながら、ギリギリのところで持ちこたえる道化のバランス芸としても読める。酔った「メアリ・ジェーンは立ち上がって、バランスを失って、取り戻し、部屋を出て行った Mary Jane stood up, losing and recovering her balance」(柴_60)も同じ。

▶メイドの大きな尻
後で出てくるエロイーズの多産のイメージと響き合う。

▶『聖衣 The Robe』
イエス・キリストの受難を描いた物語で、注釈によればロイド・C・ダグラスによる当時のベストセラー小説とのこと。イエス・キリストの受難のエピソードは、ユング派の神話学が英雄神話の典型とするもののひとつで、サリンジャー作品でも何度も使われている(過去記事参照)。

AIによれば、聖衣は、イエスが磔の直前までまとっていた赤い毛織物のローブのこと。イエスを処刑した主人公がローブをまとうと打ちのめされ、イエスを信じるようになり、殉教するというストーリーだという。ローブは英雄神話において、英雄を試練から守り、傷を癒す布のイメージと結びつく。

『キャッチャー』でスペンサー先生やアントリーニ先生が着ているバスローブ、アントリーニ先生が自殺したジェームズ・キャッスルを抱き上げた時に、彼を包んだコート、「バナナフィッシュ」でシーモアが纏っているバスローブなど、サリンジャー作品にも頻出するアイテム。オシリス神話の包帯、ヒーローのマント(詳細『キャッチャー』読解参照)。赤は英雄が流す浄化の血の色。

本作で聖衣を必要としているのはエロイーズ。メイドの名Graceは神の恩寵、慈悲を表す言葉。グレースが『聖衣』を読んでいるのは、エロイーズにやがて神の恩寵がもたらされるというこの物語の展開を仄めかすもの。

先にエロイーズが「細いけれども実にきれいな脚を投げ出して足首を重ね合わせていた her thin but very pretty legs crossed at the ankles」というのは足で十字架をつくるしぐさ。アイスピックは聖槍に見立てられると述べた。すると、上記の引用でエロイーズが落とすまいと持っているお酒の入ったglassが、イエスが磔刑にかけられた際に血を受けたという聖杯にも思えてくる。

となると最後の晩餐でワインを飲むようにお酒をあおるエロイーズが、アイスピックで心を刺し貫かれ、見えない血を流し、それをグラスで受ける、という一人芝居のイメージが出来上がる。また「転がりそうになった胸の上の空のグラスを片手で押さえた」(57)というときの不安定なグラスを、イエスがかけられた十字架、一本足で不安定にひょこひょことしか歩けないエロイーズの精神性と重ねて読むなら、エロイーズの手が聖杯にもなる。

すると、表面上は友人を招いて昼間からお酒を飲み、愚痴を言って昔を懐かしんでいるだけの堕落した主婦の日常が、深層では聖母マリアに見守られながら十字架にかけられ、目には見えない血を流して象徴的に死に、汚れを浄化して再生へ導かれる儀式になる。

サリンジャー後期のグラス家サーガのファミリーネーム glass は、「バナナフィッシュ」では perfect 完璧さを求めて脆く崩れるシーモアのガラスの心を象徴するものだったが、本作を通じてもう一つの重要な意味、〈聖杯〉と重ねられる。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のキャッチャーは聖杯と読める、という解釈については、過去記事で述べた通り。グラス家サーガにおいても、サリンジャーは聖杯探求の物語を描き続けている。そこではグラス家の人々が読者にとっての聖杯になることが目指されている、という言い方もできると思う。「コネティカットのひょこひょこおじさん」の時点で、ウォルトの苗字がグラスであり、シーモアの弟だということが決まっていたのかどうかは分からないけれど。

また、ロイド・C・ダグラスについては初期短編「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」にも言及がある。この作品では、聖衣が浄化の雨に打たれるレインコートとして語られる。そして、最後はヴィンセントが戦地で行方不明になっている弟ホールデンに「兄さんのローブを着て海岸にいくのも、(テニスのダブルスで)兄さんのほうにきた球まで打とうとするのも、口笛を吹くのもやめて、テーブルについてくれよ……」と心の中で語り掛ける言葉で終わる。
 
弟と兄の分身関係をレインコートとローブが象徴する。テニスの球でダブルスを組むのは兄弟が一心同体であることの表現で、兄のほうにきた球を打つのは、ホールデンが先に出兵して危険な目に遭っているということ。口笛はシェイクスピア読解で述べた通り、運命に翻弄される操り人形になること。テーブルは最後の晩餐で、ここにもイエスの受難のイメージがある。戦地で命を落としているかもしれない弟の再生(帰還)を願う兄の気持ちが込められているのだと思う。
 
この作品にはほかにもアベラールとエロイーズ、ジャクソン(後述)、腕を引っ込める(後述)など、「コネティカットのひょこひょこおじさん」と同じモチーフが複数みられるので、比較して読むのも面白い。

▶製氷皿を落とす
未熟な道化エロイーズはキッチンでバランスを崩して「冷蔵庫から製氷皿を取りだそうとして落っことした」(40)という。drop物を落とす、は『キャッチャー』にも頻出するキーワード。物をcatch捕まえる、誰かをhold抱きしめることができる人が、誰かの聖杯になることができ、それが鏡に反射して、自分自身を救済することになる、というのがサリンジャー作品の考え方。『キャッチャー』のホールデンも、「コネティカットのひょこひょこおじさん」のエロイーズも、物をしっかり捕まえることが出来ずに、手に持ったものを落としてしまう。誰かをキャッチする能力に欠けた者は、自分も救済できない(先に見たグラスを支えるしぐさは二幕の後半で、ここでは少し成長しているのかも)。

また製氷皿を落として氷を割るのは、固く凍りついた自らの心を粉砕し、溶かそうとする行為にも読める。『キャッチャー』でホールデンがレコードを落として割るのと同じ。心を粉々に砕くのは、イエスが十字架に掛けられるのと同様の象徴的な死。大変な痛みが伴うことだけれど、神話ではこの試練を潜り抜けてこそ、再生の春がやって来る。心の奥深くに凍結させてしまいこんでいたウォルトの記憶をよみがえらせるのは、苦しく悲しいことだけれど、思い出のかけらを少しずつ取り出して友人に語ることで、凍りついていた心は溶けだし、傷はゆっくりと癒えていく。

▶アキム・タミロフ
AIによれば、悪役から道化のようなコミカルな役まで幅広く演じた俳優で、突き出たような目を活かした演技がトレードマークだった。未完成に終わった映画『ドン・キホーテ』では、太った道化の相棒サンチョ・パンサ役を演じたとのこと。サリンジャー作品では、テディやシーモアがやぶ睨み気味だと語られる。現実を斜めから見ているような雰囲気が、此岸と彼岸に半分ずつ足を踏み入れ、両方の価値観を見透かす道化的な資質と重ねられるので、目つきが独特なところがサリンジャーの気に入ったのかもしれない。視力が悪く、眼鏡をかけたラモーナの目と呼応する。

『キャッチャー』のホールデンのこっけいな振る舞いがドン・キホーテに似ているというのは以前から指摘されること。道化といえば、ドン・キホーテとサンチョ・パンサのように、やせっぽちとふとっちょの二人組というのも一つの典型。サリンジャーの『フラニーとズーイ』では、やせっぽちのフラニーと太っちょのベッシーの対比もある。エロイーズが「あなたじょおだんうまいねえ——はぁ? You make beeg joke—hah?」(柴_42)と物まねをするとき、彼女は酔っぱらった道化。おどけて冗談ばかりいい、本音が話せないというのも精神的に病んだ道化の典型。

このあと、メアリ・ジェーンにウォルトがどうして死んだのか尋ねられた時、言いたくない、「アキム・タミロフにしゃべるさ」(56)と答えるのは、アキム・タミロフがエロイーズの心の中にいるもう一人の自分、道化・シャドウと重ねられているから。結局ウォルトの死因をメアリ・ジェーンにしゃべるのは、メアリ・ジェーンにエロイーズのシャドウが投影されているから。メアリ・ジェーンに、ラモーナが誰に似てきたかと尋ねられると、エロイーズはふざけて「アキム・タミロフ」と答えるのは、娘ラモーナも母エロイーズのシャドウだから。

▶二人のジャクソン
エロイーズとメアリ・ジェーンは学生時代の友人について、「どっちのジャクソンさ?」「どっちかな。あの心理の授業でいっしょだった子」「二人とも心理をとってたよ」という会話をする。精神分析、心理学で用いられるカウチについては前述のとおりで、それがサリンジャー作品でしばしば語られる精神分裂、統合失調症のようなものと結びつく。同じ名前の二人が、本作に出てくるいくつものペア、エロイーズとメアリ・ジェーン、エロイーズとラモーナ、エロイーズとアキム・タミロフ、ウォルトとルー、ジミー・ジメリーノとミッキー・ミケラーノらが分身関係であることを暗示する。

AIによれば、Jacksonのもとの意味はJackのson息子。Jackは神の恵み。父から息子へ受け継がれる名前や資質というテーマが、エロイーズとラモーナの母娘のテーマと鏡映しになる。近年は性別問わず使われる名前なのでことさら意味を見出さなくてもいいとも思うのだけれど、もともとは男の子向けの意味を持つ名前が、本作で女友達の名前として登場するのは、おばさんであるエロイーズがuncleおじさんに例えられるのと対かもしれない。ソポクレスの『オイディプス王』の続き、「コロノスのオイディプス」では二人の娘たちが男だと語られるなど、性別が揺らぎ混ざり合うのも神話の重要なテーマ。シェイクスピアのいくつかの作品にも見られ、サリンジャーも「ズーイ」などで扱っている。

男女の区別が揺らぐことは、世間の常識、これまで身につけてきた世界観や価値観が根底から揺らぐことの一つの表現。エロイーズは酩酊して足もとをぐらつかせながら、ウォルトが良い人間で、ルーは低俗といった表層的な思い込みに根底から揺さぶりをかけ、考えを改める途上にいる。自分が信じてきたもの、目に見えていると思っていたものを一度リセットし、新しい気持ちで世界を見つめ直せるようになる、その象徴的死と再生のただ中にいることを表しているのかも。

▶ホワイティング先生とバーバラ・ヒル
Whitingは白身魚。魚の意味は「バナナフィッシュ」読解でみたとおり。弱く未熟なエロイーズの心が魚のように脆く崩れ、汚れた雪のようだった感情が白く浄化される。同時に、エロイーズが最後の晩餐で食べる魚。Barbaraは聖バルバラを想起させる名前。聖バルバラは、キリスト教への信仰のために、父に塔に閉じ込められて殉教した聖人。親子の闘いと信仰。Hillは丘なので、イエス・キリストの受難と考え合わせるならゴルゴタの丘。精神的に塔に閉じ込められて身動きできなくなっているエロイーズが、ゴルゴタの丘へ導かれて魚が崩れるように象徴的に死ぬことで浄化され、再生へ導かれるイメージだと思う。

▶金釘みたいに薄情
ホワイティング先生が亡くなったのはひどい話だというメアリ・ジェーンに、エロイーズは「べつに」と答え、メアリ・ジェーンに「あんた金釘みたいに薄情になってきたね you’re getting hard as nails.」といわれる。この釘はイエスが十字架にかけられたときに手足を打ちつけられた杭を示すものだと思う。

堅い鉄と脆い魚は、サリンジャー作品でしばしば対比されるモチーフで、ホワイティング先生と金釘もこれ。『ハムレット』では「堅い堅いこの体、いっそ溶けて/崩れ、露になってしまえばいい」(29)「もろきもの、お前の名は女」(30)「曲れ、かたくなな膝。鋼と化した心よ、/生まれたての赤子のように柔らかになってくれ」(159)「若い娘(オフィーリア)の頭が/老人の命のようにもろく崩れるのか?」(205)などの記述で、もろく崩れてしまう弱い心と、反対に頑なに凝り固まりすぎて柔軟性がなくなってしまった心、両方の弊害が描かれていく。

状況に合わせて適度な柔らかさと強さを兼ね備えているのが理想だけれど、ある者は柔らかすぎるためにもろく崩れ、あるものは堅すぎるために衝突して悲劇的な結末に至る、という解釈は『ハムレット』読解で述べた通り。サリンジャーもこの表現を受け継いでいる。『キャッチャー』のホールデンがジム・スティールという偽名を名乗る場面など、鉄、金釘には鍛冶屋のヴァルカンのイメージもある。叩かれるほど強くなる鉄は、殴られても起き上がる道化、死と再生を繰り返して成長する永遠の少年とも結びつくというのが私の解釈。本作のエロイーズも、未熟な若者、死と再生を経て成長すべき永遠の少年。同時に彼女の心を象徴する氷は、かちかちに凝り固まっている上に少しの衝撃で脆く崩れやすくもある危ういもの。グラス家の人々のガラスのような性質と似ている。

またオイディプス神話では、赤ん坊の頃にくるぶしに金具を刺されて捨てられたオイディプスが成長し、スフィンクスを倒し、テーバイの王として栄耀栄華を極めたあと、最悪の運命に巻き込まれて破滅する。そして、己の悲劇的な運命を直視するのに耐えられず、金の針で両目を潰して盲目になる物語。金具によってはじまった恐ろしい運命が、金の針によって幕を閉じる。金具に象徴される父の過ちが、金の釘を使う息子によって贖われる。オイディプスの二重性については前述のとおりだけれど、金具はそれら複数の二重性のいちばん外側、最初と最後に置かれた重要なアイテム。

さらにいえば、本作のタイトル、Wiggilyという名前はWigglyをもとにした童話作家の造語で、サリンジャーはそれを借用しているだけ、という前提は押さえたうえで、以下は単なる想像の遊びだけれど。本来の単語ひょこひょこあるくWigglyに「i」を入れる。ウィグリーをウィギリーにして可愛らしくリズミカルな名前に仕立てる。「i」を象形文字のように見れば、どこか金釘のようなイメージもある。くるぶしに金具を刺された、オイディプスのようではないか、というのはもちろん、ただのこじつけですが、そんな風に考えてみるのも面白いかも?

▶ドイツ
エロイーズとメアリ・ジェーンのかつての級友が、夫についてドイツに行っていた。豪邸に住み、「昔ヒットラーのお抱えの乗馬の教師かなんかしてた男」の馬丁がいたという噂話が語られる。「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」ではドイツでヒットラーが行ったことが汚辱の極みとして描かれており、本作のドイツやヒットラーという言葉も同じ意味で読んでいいと思う。ウォルトが死んだ日本と対で、第二次世界大戦におけるアメリカの敵国。戦争が終結した後も、そこかしこに戦争による汚れや傷跡はいまだ癒えずに残っている。エロイーズも戦争で大切な人を失った悲しみから立ち直れていない一人。

▶絨毯のしみ
絨毯にお酒をこぼして謝るメアリ・ジェーンに、エロイーズは「いいわよ、放っといて」「どっちみち、この絨毯、あたし大嫌いなんだ」(43)と答える。布についたしみは心の中に汚れがあるしるし。絨毯はひとつの世界観の象徴。エロイーズがルーとラモーナと暮らす家に敷いている絨毯を嫌いだというのは、彼女が家族や今の生活に愛情を持っていないということ。家族や自分が汚されたり傷ついたりしても放置しておくような、すさんだ毎日を過ごしているということ。

▶煙草ちょうだい
サリンジャー作品では、煙草を吸って灰にすることも、炎の浄化の意味を持つ。神話やシェイクスピア作品では、水と炎の浄化が対で描かれることが多い。本作では水は涙、炎は煙草や前述の仔羊の膵臓の煮込み料理の焦げ。

▶まさに三つ児
ルーと義母とラモーナは「まさに三つ児」のように似ていると、エロイーズはいう。家族の中で、エロイーズただ一人が似ていないという疎外感。イエス・キリストの受難のエピソードと照らすなら、三位一体をうらやんでいるようにも読める。

▶コッカー・スパニエル
エロイーズは「あたしが欲しいのはコッカー・スパニエルか何か」「あたしに似てる人が欲しいのさ」(43)という。スパニエルは、現実に耳や目を閉ざしたひねくれ者のこと。夫や娘や義母やメイドの悪口ばかり言い、目の前にある幸せに気づかず、かつての恋人の思い出に浸り、自分を不幸にしてしまうエロイーズのこと。詳細はシェイクスピア読解参照。

▶視力が悪いラモーナ
サリンジャー作品では、幼い子供はしばしば神話の幼児神のようなちからを持つ。俗世間の常識や価値観にさらされていないぶん、真実を見透かす目を持った賢者のような性質がある、というのは過去記事でもふれた通り。エロイーズの娘ラモーナもその一人。メアリ・ジェーンはラモーナの視力が悪いことについて「眼鏡なしでも見える? 夜お手洗いに起きたりなんかしたときよ」(44)と尋ねる。ラモーナはもともと目が悪く、分厚い眼鏡をかけている子供。

サリンジャー作品で視力が悪い者は現実がよく見えないかわりに、現実の裏側にある真実を見透かすちからを持つ。オイディプス神話や、T.S.エリオットの『荒地』に登場する盲目のティーレシアスが未来を予言できるのと同じ。「逆さまの森」のフォードが、視力が悪く眼鏡をかけていて、現実的な物事を察知する能力に欠けている代わりに、芸術的な才能を持っているのも同様の表現。本作のラモーナも視力が悪いかわりに、分厚い眼鏡を通して、母の心の奥に隠された傷を見抜き、それを癒す方法をそれとなく伝えようとする。メアリ・ジェーンが、夜の暗い時間はどうかと尋ているのは、光に満ちた現実世界が見えない代わりに、闇に包まれた目には見えない世界に敏感な子供だということが仄めかされているように思う。

オイディプス神話のティーレシアスがオイディプスに「目が見えながら、自らの苦境が見えていない」(42)というように、本作でエロイーズは過去にとらわれるあまり、目の前にある本当に大切なものが見えなくなっている。視力が悪いラモーナの方が、よほど大切なものを理解している。

オイディプス神話のスフィンクスのなぞなぞで、三本足は老いて杖をつく老人の意味。これは単に足腰が衰えるからということだけではない。オイディプスは自分の過ちに気づいたあと、盲目になって見知らぬ土地を彷徨う。その姿を予言してティーレシアスは「異国の地にて杖で道を探り歩く者」(『オイディプス王』河合祥一郎訳、光文社古典新訳文庫)という。この杖には、目が不自由になったときに持つ白杖の意味がある。老人になり、成熟して目が見えにくくなくなることで、目には見えないものごと、表層的なことの奥に隠れた真実が見えるようになる。二本足の先にある、新しい成長を見据えた三本足。

『オイディプス王』では、前半でスフィンクスが出したなぞなぞを、作中でティーレシアスがオイディプスに「謎解きはお得意なはずでは?」「今は目が見えるが、盲人であり、/今は豊かだが、乞食であり、/異国の地にて杖で道を探り歩く者。/子らにとって、父にして兄弟。/産んだ母にとって、息子にして夫。/父を殺し、父の女を孕ませた男。/さあ、中へ入り、この謎を解くがよい」(46)と再度問い直す。人間とは何か、オイディプスとは何者なのか、自分の本当の姿が分かっているのかと改めて訊く。目に見えるものではなく、目には見えない領域に目を凝らして考えよ、真実を見極めよと投げかける。

シェイクスピアの『リア王』でグロスターが目をえぐられ、それを鏡像としてリアが大切なことに気づくのも、これと同じ。二本足で歩く年代が人間としての最盛期ではなく、その先にさらなる成熟がある。視力の悪いラモーナはエロイーズに、目には見えないものに目を凝らせと伝えているのだと思う。

▶身体を掻くラモーナ
サリンジャー作品で、かゆみは心の中に違和感や罪悪感のあるしるし。子供の世話をメイドに任せ、昼間からお酒を飲んでいる母の不安定な精神状態が影響しているのか、ラモーナは終始皮膚を掻いたり、身体を揺らしたりして落ち着きがない。

▶キスの拒否
口づけは離ればなれになった人と人の絆が回復し、再び結ばれること。引き裂かれた心が癒され統合されること。メアリ・ジェーンとの挨拶のキスを拒否するラモーナの反抗的な態度は、母や母の友人と気持ちをひとつにできないことの現れ。

▶ジミー・ジメリーノ
ラモーナのイマジナリーフレンド。後で出てくるミッキー・ミケラーノとともに、ポーの「ウィリアム・ウィルソン」のように頭韻を踏む名前は、本作中に描き込まれたいくつもの分身たちを象徴する。サリンジャー作品で、グリーンは分裂したものを結び付ける色彩だから、「目はグリーン」という特徴は彼がエロイーズの心を癒すきっかけを作ることを示すもの。「エズミに捧ぐ」のチャールズや、「愛らしき口もと目は緑」のタイトルにもつながる記述。詳しくは過去記事参照。黒髪は彼が目には見えない存在、シャドウであることや、日本で死んだウォルトへと連想がつながる特徴。

パパもママもいない、孤児であるというのは、神話の英雄の特徴。詳しくは『キャッチャー』読解参照。そばかすがないのは、心にしみ、汚れがないということで、絨毯にお酒をこぼしても気にしない、心の中がしみだらけのエロイーズと対照的。ジミーが持っている剣は、日本との戦争を想起させるアイテム。同時に、幼い子供が武器を持っているイメージは「対エスキモー戦争の前夜」に描かれた若者と年長者のイニシエーション儀式における対決、世代交代の戦争にも結びつく。本作にも、母エロイーズと娘ラモーナの親子対決の要素がある。

エロイーズは、目が悪く空想癖のある娘ラモーナを理解できず、どこか苦手意識を持っているような雰囲気がある。母と娘のやり取りはぎこちなく、二人のあいだには精神的な距離がある。けれど現実の家族については文句ばかり言い、映画俳優の名前ばかり出して、過去の恋人との思い出を語るエロイーズもまた、空想の世界に逃げ込み、現実を直視できない女性。ラモーナの空想癖は、母から受け継がれたものに違いない。父から息子へ、母から娘へ、資質と宿命が否応なく受け継がれていく。物語の中で両者は鏡像として対決し、一体化するという神話的なテーマも、サリンジャー作品に通底するもの。

▶道化としてのエロイーズ_多産
エロイーズの子供はラモーナひとり。なのに陰で「実りのエロイーズ Fertile Fanny」と噂されている(48)。山口昌男によればイタリアのカーニバルにおいて、「道化の行進の中には妊娠を装った女装の道化がいる。(中略)豊穣・多産(中略)こそ、祭りの宇宙的活力のイメージの凝集作用の核の部分を形づくる」(『道化の民俗学』山口昌男)とのこと。

農耕祭の盛り上げ役として豊穣と子孫繁栄を願う道化には多産のイメージがあり、「実りのエロイーズ Fertile Fanny」はこれを強調するものだと思う。後で出てくるウォルトの「きみのお腹はほんとにすばらしい」という言葉や、エロイーズに付与された娼婦のようなイメージ、前述のメイドの大きな尻という言葉も、ここと結びつく。エロイーズはもともと、子供や食べ物に恵まれた、心身ともに豊かな暮らしを築く資質を持った女性。今は傷ついて落ち込んでいるけれど、ものの見方や気の持ち方を変えていけば、幸せになれるはずであり、今回の道化芝居はそれを願うものであることが仄めかされているのでは。

▶マッチの燃えさし
ラモーナは「これ、もらうよ」といって「灰皿の中からマッチの燃えさしを一本」(48)とる。これも炎の浄化を象徴するアイテム。凍りついたエロイーズの心を溶かす道具でもあり、賢者ラモーナがそのことを母に教える。

▶メアリ・ジェーンは殺されました
仕事に行かなければというメアリ・ジェーンを、エロイーズは「電話をかけて、メアリ・ジェーンは殺されましたって言えばいいさ Call up and say you were killed.」「電話しなよ。あたしは死にましたって、そう言うんだ Go phone. Say you’re dead.」(49)といって引き留める。友人が帰るのがさみしい、もっと話を聞いてもらいたいという意味だけれど、「死にました」という乱暴な言い方に、神話的な死と再生のテーマが重なる。辺りが冥界化しているという意味では、メアリ・ジェーンは死者の世界にいるともいえるのかもしれない。

▶車なんか凍らしておくさ
メアリ・ジェーンが「あたしの車には不凍液なんて入ってないし」というのに、エロイーズは「車なんか凍らしておくさ」(49)と答える。これもかたく凍りついていくエロイーズの内面と呼応する。

お読みいただきありがとうございます。続きは以下よりご覧ください。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集