03_J.D.サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん/アンクル・ウィギリー」読解
J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「コネティカットのひょこひょこおじさん」の解釈と感想を4回に分けて掲載します。こちらは03です。01、02は以下よりご覧ください。
第二幕
▶道化としてのウォルト
エロイーズは元恋人のウォルトを思い出し、「あたしを笑わせてくれる男の子はあの子しかいなかった。しんから笑わせてくれるのはさ」(49)「あのイカれたルイーズ・ハーマンソンが、シカゴで買ったって、あの黒いブラジャーをして部屋に飛び込んできたじゃない?」「ウォルトはね、あのときみたいにあたしを笑わせてくれるんだ」(50)と語る。ウォルトもまた道化。
エロイーズはこの直前、第一幕の最後にストリップの真似をしている。サリンジャー作品では、黒い服はシャドウであることを示すものだから、ブラジャー姿の友人は、エロイーズの分身。ウォルトがエロイーズを笑わせる道化だという話をしながら、それとよく似た笑いを提供した女友達をエロイーズのシャドウとして語ることで、ウォルトとエロイーズが道化の二人組、ぴったり息のあったパートナーであったことが示されているのではないかと思う。
▶たばこ放って
エロイーズが「たばこ一本放ってくれない? throwing me a cigarette?」(50)というのに、メアリ・ジェーンは「手が届かないな」と答える。第二幕の最後にも、エロイーズは再び「一本放っておくれ Throw me one」(59)と同じことをいっている。些細なやりとりだけれど、本作が道化芝居であることは間違いないと思うし、サリンジャー作品では、シェイクスピア作品と同じように、キーワードは二度繰り返される。「ハプワース」で、シーモアがウォルトと双子のウェーカーに「ジャグリングの練習はさぼらないように!」(212)といっていることを鑑みれば、煙草を投げるという何気ない行為だって道化のジャグリングかもしれない。
ちなみに「ハプワース」で、シーモアはウォルトには「そのすばらしい魔法の足にタップシューズを履くように」といっている。これは「ひょこひょこおじさん」を意識してのものだと思う。
▶電話でも手紙の中でも
エロイーズは「話をしてるとき」も、「電話でも手紙の中でも」ウォルトは笑わせてくれたのだという。サリンジャー作品において、電話や手紙などの間接会話は、目には見えない領域を通じてつながり合うこと。エロイーズにとって、ウォルトは心の奥深くから分かりあえる相手だったということ。
▶人生笑わなきゃ損よ
エロイーズは「尼さんにでもなろうってんならともかく、人生笑わなきゃ損よ」(柴_53)という。尼さんというのは先に引用した、エロイーズの名前のモデル、聖職者だった女性を意識したものだと思う。エロイーズは元恋人を失った悲しみを心の奥に隠して、道化的におどけ、つらい現実を笑いに紛らわしてやりすごそうとする。そして、かつての恋人ウォルトがいつも笑わせてくれたのに対して、今の夫ルーはそうではないのだと不満を漏らす。
メアリ・ジェーンが「笑ったりなんかすること」が「すべてじゃない」と慰める言葉は、「エズミに捧ぐ」で語り手が、「本当の苦境に立ち至ったとき、ユーモアの感覚では役には立たない」(153)という言葉とも重なる。心の奥深くから悲しんで流す涙と、停滞する日常に活気を与える笑い。両方がバランスよくあってこそ、道化カーニバルでは、汚れが浄化され、豊饒のために新しいエネルギーを得られる。
▶コートとブルーのカーディガン
エロイーズはウォルトと汽車に乗った思い出を語る。「車内が寒くって、あたしのコートを二人で頭からはおるみたいにしてたんだ。下にはあたし、たしかジョイス・モローのカーディガンを着てたわよ」「あのかわいいブルーのカーディガン」(51)。コートは先に述べたように、英雄を試練から守り、傷を癒して再生へ導くアイテム。前述の〈聖衣〉であるローブとも重なる。
汽車は冥界・異世界への乗り物でもある。エロイーズがいる一帯は、現実でありながら、雪と氷に覆われた虚構の世界のようになっており、それが彼女の寒々しく荒廃した精神性を象徴していることは先に述べた通り。ウォルトと汽車に乗った思い出を語ることで、エロイーズの心は現実を離れ、死者の世界へ近づいていく。そのなかで、コートとカーディガンのように、彼女を寒さから守るのが、ウォルトとの心温まる思い出。
ブルーのカーディガンは、メアリ・ジェーンが腰かけるブルーの椅子と対。エロイーズも、ウォルトと付きあっていたころは、聖母マリアのような純粋さを持った娘だったし、今でもそれが完全に消えたわけではないはず。本作のエロイーズはモデルになった女性と同様、一人で聖俗一致した存在でもある。
▶きみのお腹はすばらしい
汽車の中で、道化ウォルトはエロイーズの「お腹の上に片手を、こう、当てるみたいにしてたのよ。分かるだろ。とにかく、藪から棒に言ったんだ——きみのお腹はほんとにすばらしい」。これが道化カーニバルの多産のイメージに結びつくことは先に述べた通り。このときブルーのカーディガンを着ていたということは、聖母マリアがイエスを産むイメージが重ねられているという読み方もできるかもしれない。
▶道化ウォルトの過剰なバランス感覚
思い出のなかのウォルトはこう続ける「どっかの将校でもやって来て、もう一方の手を窓の外へ突き出せって、命令してくれないかなって。そうでもしなきゃ、これでは恵まれすぎてて公平が保てないって He said he wanted to do what was fair.」(52)。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解で見たように、サリンジャー作品では、誰かをキャッチする腕や手は〈聖杯〉のひとつ。すばらしい腕や手を持つことは、誰かを丸ごと受け止め、救済できる能力があることを示す。エロイーズが転んで怪我をしたときにも、彼女を笑顔にできるウォルトは、キャッチャーとして優れたの能力の持ち主。多産のイメージが与えられたエロイーズのすばらしいお腹もまた、ウォルトにとっては心に豊かさをもたらしてくれるもの。
道化ウォルトはfair 釣り合いを保つためには、自分の片腕を差し出してもいいという言い方で、エロイーズのお腹と自分の腕を同等のものとして並べ、恋人への愛を表現する。彼らは互いに受容しあい、困ったときには助け合える理想のカップルであったことが示されているように思う。
同時にfairは美しい、正しいという意味もある言葉。シェイクスピアの『マクベス』では、マクベスの美しく着飾った外見と、内側に隠した汚れた悪意の落差がポイントとなる作品。これが、「きれいは汚い、汚いはきれい Fair is foul, and foul is fair.」というセリフに象徴されることは有名。「バナナフィッシュにうってつけの日」というタイトルには、マクベスが「ひどいのか良いのか、こんな一日は初めてだ So foul and fair a day I have not seen.」というセリフの影響があるのかもしれない、という考察については、同作読解で示したとおり。
マクベスもむろん道化。道化はfair均衡の保たれた美しい心を理想としながら、foul汚れて悩む愚か者。本作でも冒頭、メアリ・ジェーンが道に迷ったとうろたえるシーンで〈fouled 汚された〉という言葉が使われているのは前述のとおり。
それにしても、恋人のお腹が素晴らしいからといって、もう片方の腕を失うような危険な目に遭わなければならないと考えるのは、常軌を逸している。こういう過剰なバランス感覚で読者の心を揺さぶろうとするところが、サリンジャーらしさというか、さすがグラス家の一員ウォルトという感じ。
▶美しすぎて石をぶつける
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」は、シーモアとミュリエルの結婚式を描いた作品。自分の結婚式であるにもかかわらず、新郎シーモアは「ぼくはあんまり幸福でとても結婚なんかできそうにない」(56)といって逃げ出してしまう。弟のバディは暑さから非難するため、一時的に自分とシーモアがニューヨークに借りているアパートメントに参列者たち数人を案内する。そこでシーモアが子供の頃、美少女のガールフレンド、シャーロットが猫を撫でている姿があまりにも美しかったから、石をぶつけたというエピソードが語られる(120)。
幸福すぎて結婚できないというのも、美しすぎるという理由でガールフレンドに石をぶつけるのも、エロイーズのお腹がすばらしすぎるから、腕を失わないとバランスが取れないというのと似て、常識では理解しがたい過剰さがある。サリンジャー作品の登場人物には、幸福すぎること、美しすぎること、すばらしすぎることを、純粋にそのまま享受することを極端に恐れる傾向がある。
心がとても繊細で、不意打ちで傷つくことへの怯えがあるせいか、あまりにも幸せだったり、美しかったり、すばらしかったりすると、いつその揺り戻しがくるか戦々恐々としはじめる。自分がひねくれ者の、心が裏返っている道化であるせいか、いつ目の前の事態が反転して幸福が壊れてしまうか、いつ大きな不幸が襲ってくるかと恐れて、突然とんでもない絶望に突き落とされるくらいなら、ダメージが少ないほうがまだましと、自ら幸福を壊しにかかる。これが外から見ると不可解なひねくれ者、天邪鬼、道化的な奇行と映る。
大きすぎる幸福の先には、必ずその反動が来るものだという過剰かつ異常なバランス感覚を持っている者、心に傷を抱えている者はみな道化。痛いのが気持ちいい状況にあまりにも慣れすぎて、純粋な幸福を信じることができず、未来にもたらされるに違いない不幸を恐れて、自ら目の前にある幸福を手放し、破壊し、台無しにする。傍から見ると奇妙なほど、愚かに、滑稽に、自虐的に、マゾヒスティックに、自分で自分や周りの大切な人たちを傷つける。未熟な道化は、涙を流しながらでなければ、笑うことさえ怖いのだ。愚かだと自覚していてもやめられないのは、それが病だからなのだということを、サリンジャーは繰り返し描いているように思う。
▶足の治療の専門家
「バナナフィッシュ」では、エレベーターの中で、シーモアが同乗の女性に足を見られたといって激怒する。これは彼が心=足に傷を持つオイディプスだからであり、「ひょこひょこおじさん/アンクル・ウィギリー」と呼ばれるエロイーズと同じ。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」でバディは、シーモアが「陸軍に入る前は何をしていたの?」と問われて、とっさに「脚の治療の専門家でした」(40)と答える。また、子供タレントだったシャーロットは、収録中シーモアが「彼女の気にいるようなことを言うたんびに、兄貴(シーモア)の足を踏むんですよ」「兄貴が特別好調だった夜なんかですね、きまって彼は軽いびっこをひいて家へ帰ったもんですよ」(110)といっている。
シーモアは足に傷を持つ者であると同時に、足を治す医者のようなちからも持っていたということ。それは、「シーモア—序章—」で彼が優れた詩人だったと語られることと結びつく。別の個所でサリンジャーは、フロイトは詩人だと書いている。心の奥深くにアプローチして治療をする精神分析医は、心の奥深くに響く芸術作品を残す詩人と同じ。心の不安定さは足元に出るから、足の治療の専門家は、深層心理に訴える詩人と同じだという意味だと思う。
「シーモア—序章—」には、第一級の詩について、心の奥深くに真に訴える芸術作品を鑑賞することについて、「極端なものは常に危険であり、通常はまったく有毒であ」るという文もある。心を根底から揺るがすような作品は、過剰で危ういともいう。実際の犯罪者が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を愛読していたという事実が関係あるかは分からないけれど。サリンジャー作品にときどき描かれる極端で常軌を逸した表現は、読者の深層心理にアイスピックのように突き刺さり、ときに見えない血を流し、良くも悪くも新しい感覚をもたらす効果があるのかもしれない。
▶愚かなり我が心
ウォルトとペアの道化のエロイーズには、過剰さはないけれど、ひねくれ具合は似たようなもの。目の前には自ら選んだ夫と愛する娘がいて、家政婦に家事を手伝ってもらえる恵まれた環境で、考え方や態度を改めればいくらでも幸せになれそうなのに、自らそれを壊そうとしているところがある。
確かにルーの文学的な好みは浅はかだし、見栄っ張りな性格は欠点かもしれない。ラモーナも自分だけの空想の世界に閉じこもりがちで、母としては娘が何を考えているのかいまいち理解しがたいのだろう。けれど、その程度の欠点は誰にだってあるし、家族として許しがたいほどのものではない。ルーはおそらく妻を愛しているし、ラモーナも悪い子ではない。エロイーズが変われば、家族仲は好転しそうに思える。
だけれど、エロイーズのなかでは、ウォルトが戦地の事故で死んだときの傷がまだ疼き続けている。ウォルトと結婚していたら違う未来があったかもしれないといった空想や、戦地で死んでしまったウォルトを忘れて自分だけ幸せになることへの罪悪感など、複雑な感情がエロイーズの中で絡まり合って、家族やメイドの悪い所ばかりを探し、冷たくあたって、それが跳ね返って自らを傷つけるような行動をとってしまう。
「コネティカットのひょこひょこおじさん」が映画化されたときのタイトルは、「愚かなり我が心/My Foolish Heart」。それは、幸せになりたいと願っているにもかかわらず、foolish道化化して、自分が不幸になるような行動をとってしまう天邪鬼なエロイーズの逆さまの心を表したもの。
▶禁を破る
オイディプス神話における悲劇の原因は、父を殺し母を娶りたいという願望を、オイディプスが無自覚のうちに実現してしまっていたから。この物語の核心は、絶対的な禁忌がおかされたということにある。禁止されるとやりたくなる、というのがfool・道化・愚か者・天邪鬼・ひねくれ者の厄介な心。
見るなといわれたパンドラの箱は開けたくなる。振り返ってはならないといわれたからこそオルフェウスは妻の奪還に失敗する。イザナギが妻を取り戻せないのも、夜な夜な機を織るのが恩返しに来た鶴だと知ってしまうのも、ロミオとジュリエットの恋が命をかけるほど盛り上がるのも同じこと。究極のタブーを犯すオイディプスは、究極の道化でもある。
「コネティカットのひょこひょこおじさん」でウォルトが汽車の窓から腕を出すのは、それが危険で禁止された行為だから。愛する人を抱きしめる腕は、ウォルトにとって最も大切なもの。最も失いたくものだからこそ、エロイーズの素晴らしいお腹、最高の愛とのバランスを維持するためには、それをこそ差し出さなければならない。
彼とペアであるエロイーズに起こっていることにも似たようなところがある。彼女も幸せになりたいはずなのだけれど、心の奥深くで、どこかウォルトを忘れて幸せになることへの罪悪感を持っている。それで心がねじ曲がり、周囲に冷たい態度を取って、自分を不幸にしてしまう。
▶制服を誇りに
汽車でウォルトはエロイーズにあてていた「お腹の手を引っ込めたと思ったら、車掌さんに向かって、両肩をぐっとうしろに引いて胸を張って、なんてね。自分の制服を誇りに思わんような人間には我慢ならん、なんて言うの。そしたら車掌さんが、どうぞお休みくださいって言ったっけ」(52)とつづく。
軍の制服は、軍隊の規律に従って行動する兵士であることの証。それは社会のルールに従って行動できる、教育を受けた大人であることの例え。上記でウォルトは軍の上官の真似をしておどけてみせている。物まねは、子供が社会の規則を学ぶときの最初の一歩。誰もがみな大人の真似をしながら成長する。『ハムレット』で主人公が両親の口真似をしたり、旅役者に芝居を指導したりする場面も同じ(詳細同作読解ご参照ください)。親エロイーズから子ラモーナへ引き継がれる資質のテーマとも呼応する記述。
そうして身につけた規律や技術は、社会人として生きるためには欠かせないけれど、サリンジャー作品ではこれがときに人を縛る鎖になる。例えば『キャッチャー』の序盤、ホールデンは、大人の社会はゲームであり、ルールを守らなければならないというスペンサー先生の教えに心の中で反抗する。
窮屈なルールから解き放たれるためには、覚えたことを一度象徴的に死んでリセットしなければならない。象徴的な死は、しばしば眠りという形で描かれる。「シーモア—序章—」で語り手バディが何度も「おやすみ」と繰り返すのはこれで、本作で車掌さんが「お休みください go back to sleep」と挨拶するのは、象徴的に死んでリセットしてください、という意味だと思う。これにウォルトの戦死が重なる。さらに過去や世俗的な価値観にがんじがらめになって不幸になっているエロイーズが、そこから解き放たれて再生する本作のストーリーと響きあう。
▶階級はなんだ
エロイーズの昔の恋人の話を聞かされた時、夫のルーは、まず「そいつの階級はなんだ」と訊いたという。軍の階級、身分などで人をランク付けしようとするのは、サリンジャー作品では未熟者のすること。とはいえ、そんな些細なものさしで、妻の昔の恋人と張り合おうとするなんてちょっと可愛らしくもある。これを苦々しく思ってしまうのは、エロイーズの心がすさんでいるからかもしれない。
▶横隔膜を震わせた笑い
エロイーズはウォルトのおかしな振る舞いを思い出して「いきなり笑いだした。横隔膜を震わせた笑い声だった laughed suddenly, from her diaphragm.」(柴_55)と描写される。AIによれば、腹の底からの笑いを表現するときにdiaphragmという言葉を使うのは不自然とのことで、あえて違和感の言い方をされているのだと思う。サリンジャー作品では、未熟者の生きづらさが呼吸の苦しさとして表現されることも、『キャッチャー』読解で述べた通り。ホールデンは自分が結核かもしれない、肺炎になって死んでしまうんじゃないかと不安を吐露し、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」では、バディが肋膜炎を患って咳ばかりしている。エロイーズのひきつった笑いも、このバリエーションだと思う。
▶裸に歩兵のバッジ
ウォルトは「ぼくも(軍の組織で)進級して行くような気がするが、ただ方向がみんなと違うようだ」「最初に一つ進級すると、袖に金筋がつく代わりに、袖をもぎ取られることになるだろうって。そうして将軍になるころには、素っ裸になっちゃって、お臍に小ちゃな歩兵のバッジがくっついてるだけで、あとはなんにもないんじゃないかって」(52)という。
進級の方向が普通とはあべこべになるのは、天邪鬼で常に逆さまの行動をとる道化だから。袖や腕は、誰かを受容し抱きしめるキャッチャーとしての資質を示すもの。袖をもぎ取られるのは、汽車の窓から腕を突き出す行為と同じ。戦地で命を落とし、エロイーズを受け止められなくなったウォルトは、実際に袖を失ったという言い方もできるかもしれない。足・脚のテーマの対として、腕・袖が出てくる。シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』でも、アキレス腱の由来となったアキレウスについて語られつつ、袖がキーワードになっているのと同じ。
素っ裸になるというのは、軍服が象徴する、軍で身につけた規律や技術——そこには、敵国の兵士を傷つけたり殺したりする方法も含まれる——を捨て去ること。そうして素っ裸になり、お臍に歩兵のバッジをつけるというのは、神話の死と再生、象徴的に死んで、生まれなおすイメージ。
本作では、はじめにエロイーズがメアリ・ジェーンに「ベイビー baby」(柴_37)と呼びかける。これも何気ないけれど、サリンジャー作品でこの言葉が使われている時には、赤ん坊への退行、神話的な死と再生として読んでいいと思う。そして、ひょこひょことしか歩けない道化エロイーズにとっては、地に足をつけて、自力でしっかり歩くことのできる歩兵が、再生後に目指すべき姿。
ウォルトが服を脱ぐというセリフは、『リア王』で狂気のリアが服を脱いで植物を身に纏うことで、常識を捨て去り、本当に大切なものに気づき、精神的に赤ん坊として生まれなおす姿を想起させる。
また、イエス・キリストが磔刑にかけられたのち、一度埋葬されて、大地の胎内から復活したエピソードとも重なり合う。このときウォルトに必要なのは、彼を守り、再生へ導く聖衣としてのローブであり、それが赤ん坊のおくるみのイメージへと結びついていく。
ソポクレス版『オイディプス王』では、アポロンの神殿があるデルポイが「聖なる大地の臍」といわれる。ライオスはここへ向かう途中で死に、オイディプスの最後は大地に吸い込まれるように跡形もなく消えたという。神話の死と再生のイメージに、母なる大地、エロイーズや聖母マリアのお腹と臍のイメージが重なりあう。
▶夫の機嫌を取るバランス芸
エロイーズは、夫に昔の恋人の話をするときには、機嫌を取るために、「ハンサムな子と付き合ってたなんて言うときには、それに続けてすぐ、それがどうもハンサムすぎてねっていうんだ。頭の良い子と付き合ってたと言うんなら、ところがその子、ちょっとブッてるみたいでとか、知ったかぶりでとか、つけ加える」(53)のが得策だと語る。これもバランス芸のバリエーションといえるかもしれない。
そして、こういう処世術のようなもの、抜け目なく立ち回るためのずる賢い浅知恵のようなものこそ、ウォルトが軍服を脱ぐように、エロイーズが真っ先に捨て去るべきものの一つだと思う。
▶ジェーン・オースティン
日常を舞台として、愛と結婚にまつわる女性の内面、理性と感情の対立と調和を描く作風は、本作でサリンジャーが表現しようとしたものと重なる。
また、エロイーズは、妻の元恋人の軍での階級を気にして張り合おうとする夫のルーを、表面的な価値観に縛られた浅薄な人物だと批判している。ジェーン・オースティンは、とくに階級意識に縛られた見栄っ張りな人々の滑稽さを描く作家だから、エロイーズからすれば、ルーこそ読むべきということになる。
けれど、ジェーン・オースティンを読むといったルーに惹かれて結婚し、結婚後にそれが嘘だったと知ってルーを軽蔑してしまうエロイーズにもまた、表面的な情報に左右されてしまう浅はかさがある。ルーの嘘は確かに愚かで滑稽で、夫にがっかりしてしまうエロイーズの気持ちは分かる。一方で、文学的・学術的に評価の高いジェーン・オースティンを読んでいる男性が偉くて、大衆受けする冒険物語を好むルーは低俗だと決めつけるエロイーズもまた、俗世間の浅はかな価値観に毒されていることは否めない。
後述するように、ルーが好む冒険物語にも、サリンジャーが注目する重要なテーマが描き込まれている。文学的に評価が高いかどうかといった些細な差異に意味を見出して、優劣をつけようとする態度は、階級意識に囚われるルーとさして変わらない。本作を通して、エロイーズはそれに気づいていく。ジェーン・オースティンを再読すべきなのは、エロイーズなのかもしれない。
▶L・マニング・ヴァインズ
ルーが好きだという作家は、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」でバディの上官が好きな作家と同じであることは、以前から指摘されていること。ルーと上官は同一人物かもしれない。ルーは「四人の男がエスキモーの氷の家にこもって餓死する話」(55)が気に入っているという。
前述したように、このときエロイーズたちがいるコネティカット一帯は雪が降り、積もった雪が凍りはじめている状態で、これをエロイーズは「動くな。ここはすっかり囲まれてるんだ」(40)と茶化す。つまり、氷の家に閉じ込められつつあるのはエロイーズ、メアリ・ジェーン、ラモーナ、グレースら四人の女たちであり、これが氷の家にこもる四人の男と鏡映しになっている。
氷に覆われた不毛の大地で、実りがもたらされずに餓死するのは悲劇。これを避けるためにこそ豊穣を願う道化カーニバルが行われる。エロイーズの心の中も、今は荒廃して凍りつき、作物が実らない状態。だからこそ自ら道化となって、心に豊かさを取り戻す儀式を行っている。
「バナナフィッシュ」のモデルになっているナルキッソスの物語には、水に映った自分に囚われ、水に落ちて死んだという説と、自分の鏡像から目が離せなくなり餓死したという説がある。この両方の物語が残っていることが重要。水に映った自分の虚像に心を奪われること=自分の心の深淵に囚われてしまうこと=水に落ちることは、現実的な物事や自分の身体感覚に鈍感になること=餓死することと結びつく。
夫や娘との生活から逃避し、お酒に酔って過去の恋人との思い出を語るエロイーズは、現実的な物事に鈍感になって自分の記憶に囚われているという意味で、ナルキッソスと同じ。氷の家に囲まれて、荒廃した心で餓死しそうになっているのは、エロイーズ自身。
そんな彼女の姿は、T.S.エリオットの『荒地』で、鳥かごに閉じ込められて暗闇の中で鳴くナイチンゲール、に例えられる、裕福な暮らしをしていても精神的に荒廃している女性たちの物語とも重なる。夜鳴鳥に変えられたフィロメラがエロイーズ、彼女を助ける姉がメアリ・ジェーン。
また先に見た二つの書棚を、ルーとエロイーズがそれぞれの内面に建てた、浅はかで世俗的な価値観の集積として読むなら、ルーの方は大衆文学的な浅知恵で、エロイーズの方は純文学的な一見少し知的なラインナップで積みあがっていると推測できる。けれど、二つのバベルの塔に大きな違いはない。夫が嘘をついていたことで、エロイーズの夫に対する信頼や夫婦の絆、二つの書棚に象徴されるバベルの塔はいま崩壊しつつある。内面に築いてきた価値観の崩壊は、ヘルニアで背骨や腰が曲がってしまうこと、二本の足で立てなくなり、ひょこひょことしか歩けなくなることとも結びつく。
▶日本のストーヴ
ウォルトは第二次世界大戦で日本へ行き、上官が記念品として故国へ送る日本のストーヴの荷造りを手伝っていたときに、それが爆発して命を落とした。作戦による戦死、アメリカという国や国民を守るという大義のための死ではなく、上官の私利私欲を満たすためにこき使われて命を落としたという事実が、エロイーズの悲しみを増幅させている。
だけれど、国と国との戦争といった大きな問題だって、もとをたどれば誰かの私利私欲のようなものからはじまっているように思えなくもない。純文学と大衆文学の差が、実は世俗的な価値観に基づく浅はかな知恵でしかないように、良い人間だったウォルトの命が失われたという重大さと比べれば、死因が何だったかということは重要ではないのかもしれない。
ここでの日本は、先に見た、級友が暮らしていたドイツと対でアメリカの敵国。だけれど、部屋を暖めるストーヴは、凍りついたエロイーズの心を溶かすアイテムでもある。ウォルトとの思い出が、エロイーズの心を温めて救うという意味も読み込める。西洋と東洋の一致も、サリンジャーが複数の作品で繰り返し描いているテーマ。ウォルトの死を悼みながらも、自分の中に受け入れて、元恋人との良い思い出を、自分の心を温める熱源にできたとき、凍りついたエロイーズの心は溶けていくはず。
▶片目の失明
ウォルトがストーヴの爆発事故で命を落としたとき、一緒にいたもう一人は片目を失明したが命は助かったという。目を失うのは、現実の世界が見えなくなることで、視力の悪いラモーナや眼鏡のモチーフと響きあう。ウォルトと一緒に行動していたもう一人はやはり道化の二人組で、その兵士がやはりウォルトとペアのエロイーズと重なる。
▶空のグラス
ウォルトの死について語ったあと、「エロイーズは泣きだした。そして、転がりそうになった胸の上の空のグラスを片手で押さえた」(57)。先ほど道化のバランス芸としても引用した描写。このとき、エロイーズの心はグラスと同じように空っぽ。だけれど、そこに注がれていたお酒は、すでにエロイーズの体内へ呑み込まれ、彼女を温める熱源になりつつあることも確か。最後の晩餐で飲み食いしたパンや魚、ワインがイエス・キリストの復活のエネルギーになったように、エロイーズが新たな血肉を得て元気を取り戻す未来への準備が整いつつある、と読むこともできる。
汽車の窓から腕をだす、袖がもぎ取られるといったイメージを経て、ここでエロイーズは、たとえ空っぽであっても、自分の手の内にあるグラスを落とすまいとしっかり押さえている。先ほどは製氷皿を落して、未熟さを露呈していたキャッチャーとしての手の、本来のちからを、彼女は取り戻しつつあるように思える。それを大切にすれば、再び娘や夫を、愛情をこめて抱きしめられるようになるはず。それが彼女の心を救うきっかけになるのではないかと思う。グラスとエロイーズの手が、二重に聖杯の意味を帯びる。
▶ラモーナのオーバーシューズ
「ラモーナはホックを外したオーバーシューズができるだけ大きな音をたてるように、靴底を床に叩きつけるようにして走って来る」(57)。ブーツとオーバーシューズでしっかりと守られたラモーナの足が、ストッキングだけのエロイーズの足と対比される。
賢者である幼い子供は、自分でも気づかないうちに、大人に大切なことを教えてくれる存在。ラモーナはメアリ・ジェーンにオーバーシューズを脱がせてもらうことを拒否し、お手洗いに行っているグレースを待つこともせず、母エロイーズに脱がせてもらう。彼女のそんな振る舞い、オーバーシューズの存在をアピールするかのように、わざと足音を立てるしぐさは、足を守ることの大切さを、母に教えようとするため。泥で汚れたまま凍りついていく雪、が象徴する精神的な傷から、足元=自分の心を守る大切さを伝えるためだと思う。
オーバーシューズを脱がせながらエロイーズが「もう片っぽの足、もう片っぽの足 Other foot, Other foot」(柴_64)と二度繰り返すのは、二本の足で立つことが本作のテーマだから。オーバーシューズを逃せてもらった後も、「ラモーナはのっしのっしと大男の足どりをまねてゆっくりと部屋を出て行った Ramona slowly giant-stepped her way out of the room.」(59)というのも、酔っぱらってひょこひょこふらつく千鳥足の母に、地に足をつけてしっかり歩くお手本を見せているのだと思う。
そして面倒くさがりながらも拒絶することなく、娘のオーバーシューズを脱がせてやるエロイーズの姿には、空想に浸る娘への戸惑いや、精神的な距離を感じながらも、憎からず思う母の複雑な心境が垣間見える。すさんだ生活をおくるエロイーズの中にも、娘を思う母性や優しさは確かにある。
▶ハンケチ
酔ってウォルトの思い出話をしながら、エロイーズは涙を流し、ハンケチを使う(58)。ハンケチも、象徴的・精神的に死んだ英雄の心の傷を癒し再生へ導く包帯。前半でメアリ・ジェーンが涙をふくクリネックスと対で、中盤に出てくるコートやカーディガンにも連なるアイテム。詳しくは「バナナフィッシュ」読解、『ハムレット』読解参照。
▶ジミーの事故死
ラモーナの架空のボーイフレンド、ジミーは、スキッパーという犬が骨をくわえて道路に出たのを追いかけるか何かして、車に轢かれて死んだという。これはおそらく、上官のストーヴを荷造りしていて命を落としたウォルトと重ねられたもの。骨やストーヴのような、とるに足らない戦利品に欲を出した他人の巻き添えとなって、大切な人が理不尽に命を落としてしまう悲しみが、鏡映しで描かれる。
スキッパーがくわえている骨は、前述したヘルニアで不調を起こしている骨のイメージとも結びつく。『キャッチャー』の中盤、ホールデンが娼婦に、脊髄の手術をしたと嘘をつく(165)など、サリンジャー作品では、背骨がその人の世界観を支える柱、太古のオシリスの豊穣祭祀で建てられたジェド柱やオシリスの背骨と結びつく。スキッパーが骨をくわえていってしまうから、骨がスキップしてヘルニアになる。これがもたらすジミーの死とミッキーの登場が、のちのバベルの塔の崩壊、エロイーズの象徴的・精神的な死と変容へとつながる。
▶悲劇と喜劇
ジミーが死んだというラモーナの想像力を、メアリ・ジェーンは「それって悲劇じゃない? Isn’t that tragic?」(柴_61)といって感心する。悲劇という言葉を使いながら、言い切らず疑問形になっているところもポイント。ジミーの死は悲劇的だけれど、ジミーの存在自体がラモーナの空想だという事実を踏まえれば、彼の死を悲しむこと自体が滑稽な喜劇的茶番でもある。先に述べたように、本作は笑いあり涙ありの道化芝居。エロイーズはウォルトとの楽しい思い出話に笑い、ウォルトの死を悼んで泣く。
「笑わなきゃ損だ」と強がって、悲しみを隠してしまうのではなく、まずは死んだウォルトのために涙を流すこと。そのうえで、ウォルトとのあたたかな思い出を慈しみ、大切に抱きしめること。笑いと涙に紛らわせて、過去を浄化し、受け入れること。幸せな未来はここからはじまる。
▶ラモーナの発熱
エロイーズはラモーナの額に触れ、「少し熱っぽいわね」(59)という。これも凍りついた母エロイーズの心を溶かす熱なのだと思う。この直前には、メアリ・ジェーンが、ウォルトの死を思って泣いているエロイーズのおでこをなでて慰めている。
サリンジャー作品では、笑いや涙にくれること、狂気にとりつかれることは頭・脳の異常であり、おでこにふれるのはそれを癒そうとする行為。『キャッチャー』の後半、ホールデンがこっそり自宅に帰ってフィービーに会う場面でも、フィービーは熱をつくる方法を習得したといって、兄におでこにさわらせる。ここでは実際に発熱するわけではないのだけれど、幼い子供の他愛ない遊びが、ホールデンの凍り付いた心を溶かして癒す(詳細『キャッチャー』読解参照)。このあと、二人の母親がフィービーの部屋に入って来て、おでこにさわるというように、おでこにふれる行為がリレーのようにつながっていくのも、本作と同じ。
▶オレンジ・ジュースの臭い
エロイーズはキッチンが「そこらじゅうにオレンジ・ジュースみたいな臭いがプンプンしちゃって」いるから、飲物を取りに行くのが嫌だという(59)。オレンジは聖母マリアの表象。『聖衣』を読むグレースという名のメイドの信仰心に篤い雰囲気が、オレンジ・ジュースの香りとして表現される。
ウォルトが意味のない事故で死んでしまったことで、運命の残酷さを恨んでいるエロイーズは、信仰心を持てなくなっているのかもしれない。だからこそ、回心する前、娼婦だったころのマグダラのマリアのように心が荒れ、オレンジの香りを嫌悪する。だけれど、仕事に行かなければというメアリ・ジェーンを何度も引き留めて話を聞いてもらおうとするエロイーズは、実は誰よりも聖母マリアのように傷ついた心を優しく包み込んで癒してくれる存在を求めている。
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