04_J.D.サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん/アンクル・ウィギリー」読解
J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「コネティカットのひょこひょこおじさん」の解釈と感想を4回に分けて掲載します。こちらは04です。01、02、03は以下よりご覧ください。
第三幕
▶ストッキングのまま
七時五分過ぎ、メアリ・ジェーンとともに酔いつぶれて横になっていたエロイーズは、電話の音に「起き上がって、暗がりに靴を手探りしたが、見つからなかった。彼女はストッキングのままで電話の方へ歩いて行った」。ラモーナから足を守る大切さを教えられ、靴を探そうとするも、見つからず、やむを得ずまだストッキングのまま。道化芝居はまだ続く。
▶眠るメアリ・ジェーン
一幕から二幕にかけて、エロイーズは何度か欠伸をする。その眠気を引き受けるかのように、三幕ではメアリ・ジェーンがカウチでお酒に酔って眠り込んでいる。眠ることは象徴的に死ぬことだから、まさに「メアリ・ジェーンは殺されました」状態。それは鏡像関係にあるエロイーズが半分、現実を離れて夢の世界へ入り込んでいるということ。精神分析を受けている人が夢の中にいるようなイメージでもある。
▶車のキー
お酒を飲んでふらふらのエロイーズは、雪が降っているので迎えに来てほしいという夫の頼みを、メアリ・ジェーンが彼女の車の真ん前に駐車したうえに、車のキーを失くしたから出られない、「キーが見つからないのよ、二人で二十分くらい探したのよ、だからほら、雪とかなんとかのなかを」(柴_62)と嘘をついて断る。
『ナイン・ストーリーズ』収録の「小舟のほとりで」では、鍵が心の奥にある扉を開けるアイテムとして登場するから、ここのキーも同じ意味で解釈していいと思う。エロイーズは自分の心の奥の扉を開ける鍵を見失って、今日の午後じゅう、メアリ・ジェーンと喋りながらそれを必死で探していた。それはまるで、泥で汚れて凍りついた雪の中に手を突っ込むような作業だったし、いまだに鍵は見つからない。
ソポクレスの『オイディプス王』でも、鍵こそが読解の鍵(しょーもないけどダジャレは大事)。冒頭、オイディプスが館の扉から登場するシーンからはじまり、この後、ライオス王殺しの犯人を捜し、国の疫病と飢饉を解決しようと奔走するにあたって、オイディプスが邸を出入りする様子が何度か挟まれる。そのうえで、真実が明らかになって絶望すると、母で妻のイオカステは部屋に閉じこもって嘆き悲しみ自害する。悪い予感がしたオイディプスは、周囲の誰かに教えられたわけでもなく、「何者かに導かれるかのように」「恐ろしい叫び声をあげて両開きの扉に突進し、/閂を受け金から落とし、/押し倒して、部屋に転がり込みました」(107_注釈参考)。
イオカステが死んでいるのを見つけたオイディプスはあまりの事態に現実を見ることに耐えられず、イオカステの服を飾っていた金の針を取って自らの目を刺す。このあとにも騒ぎは収まらず、「誰か館の扉を開けと叫んでおられます」「ほら、お邸の扉が開きました」(109)と語られる。
『オイディプス王』において、オイディプスのくるぶしを刺し貫いていた金具が彼の残酷な運命のはじまりとなり、金の針がその運命を終わらせることは、先にふれた通り。戯曲全体で邸の出入りを繰り返し見せたのち、最後に人知を超えたちからに導かれるようにして、自ら閂を外す様子が劇的に描かれるのは、閂がくるぶしに刺された金具や目を潰した金の針、彼の運命の扉を開け閉めする鍵と重ねられるからだと思う。
オイディプスは、ライオスを殺した犯人を、自らが妃とした女性の正体を、自分が本当は何者なのかを、周囲が止めるのも聞かずに、執拗に探り続けた。預言者から言葉を引き出し、それに突き動かされるようにして、闇に隠されていた秘密を暴き、グロテスクな真実を明るみに出した。閂は、彼が開いた真実の扉、開けてはならないパンドラの箱をこじ開けるアイテム。
「コネティカットのひょこひょこおじさん」では、エロイーズが指をピストルの格好に突き出して「ここはすっかり囲まれてるんだ」ということで、氷に閉ざされた自宅のイメージをつくりだす。これが彼女の心の中のメタファー。彼女は友人とお酒を飲みながら、心の奥深くに閉じ込めていた夫への不満やウォルトとの思い出を、氷を割るように少しずつ取り出して語り始める。
そしてこの後、ラモーナの寝室で、娘の言葉や眼鏡を鍵として、彼女の胸のさらに奥にあるものが明るみに出てくる。オイディプスが、暗闇に閉じ込めていた残酷な運命、己のおぞましい欲望に気づいたとき、逆説的に目を潰すように。エロイーズは視力の悪いラモーナの分厚い眼鏡を通して、電気を消した暗い部屋の中で、自分の心の奥深くにある本当に大切なものに気づいていく。
▶雪の中を行軍してきたら?
電話の向こうで、おそらく雪がひどくて帰れないというようなことを言っているルーに対して、エロイーズは「いっそのこと(職場の同僚と)隊を組んで家まで行軍して来たら?」「あんた、隊長風が吹かせられるじゃない」(60)と嫌味までいって冷たくあしらう。雪の中を行軍できるということは、厳しい世界を自分の足でしっかり歩けるということ。ひょこひょことしか歩けない未熟な道化エロイーズに最も必要な資質。ラモーナとよく似ていると言われる父ルーにも、雪の中を自分の足でしっかり歩く強さがあることが仄めかされている。
「バナナフィッシュ」に引用のあるT.S.エリオットの『荒地』でも、荒れて動植物が死に絶えた大地が、氷に覆われた南極探検と重ねて語られる。仲間は二人しかいないのに、極限状態で三人目がいるように感じたという幻覚については、エリオット自身が註に、実際の南極探検記を参考に記したと書いている。これを、聖書のイエス・キリストの復活のエピソードと結びつける解釈も有名。イエスが十字架にかけられた後、復活したことを知らず、失意の底にいる二人の弟子のもとにイエスが第三の男として現れた。けれど、死んだと思われていたから認識されなかったのだという。
聖書や『荒地』は二人プラス一人で計三人だけれど、本作ではルーと同僚二人の三人にプラス一人、実際の南極探検記と同じ計四人。プラス一人とはむろん死者であるウォルト。これが先に見たアラスカで餓死した四人の男という記述と響きあう。この時点でエロイーズが帰ってきてほしいと望んでいるのは、夫ルーではなく死んだウォルト。『荒地』に描かれた、漁師の夫が海に出ているあいだ、陸で浮気をする堕落した女のように、エロイーズの気持ちはルーから離れていて、そんな感情が刺々しい言葉の端々ににじみ出る。
エロイーズはアラスカで四人の男が餓死した話が好きだというルーについて「Christ! 神よ」、という感嘆詞を使う。野崎訳では「おふざけないでよ!」柴田訳では「馬っ鹿みたい!」で、表向きの意味はルーを罵る言葉。同時に、『荒地』の解釈も重ねて読むなら、ここに神の現れが表現されている、ともとれる。本作にイエスの受難が重ねられていることは前述のとおり。
南極探検の男たちは、死に限りなく近い地点を潜り抜ける瞬間、本来は目に見えない存在が近くにある幻覚に囚われる。これを聖書のエピソードと結びつけると、臨死体験を通して、人知を超えた救世主の存在をすぐそばに感じ取るということになる。これとラモーナが幻視する二人のイマジナリーボーイフレンドが重なりあう。三幕のはじめ、酔いつぶれていたエロイーズがルーの電話で目を覚ます。ここから彼女の精神的な復活と変容がはじまる。「Christ!」と罵るエロイーズ本人も気づかないうちに、彼女は救済され、心の中が変化し始める。この南極探検のテーマは、『ナイン・ストーリーズ』の次の作品「対エスキモー戦争の前夜」にも続いていく。
▶変なのは顔だけ
ルーは電話の向こうで、エロイーズの様子が変なのを察知し、おそらく心配している。エロイーズは「ちっとも変なことないわよ。変なのはあたしの顔だけよ」(60)と答える。これは道化カーニバルや仮面舞踏会でお面をつける風習から、エロイーズがお酒に酔って道化になっていることを仄めかすものではないかと思う。
▶メイドの夫
メイドのグレースは外が大雪のため、「うちの亭主を今晩ここに泊めちゃいけないかね?」と頼むのだけれど、エロイーズはこれを拒否する。自分が夫よりも元恋人の帰還を待ってしまうような心境だから、夫を思いやるグレースの言動に苛立ち、狭量な受け答えしかできない。身近にいる人を思いやれない態度が、エロイーズを孤立させ、自分自身を苦しめていく。
▶オーバーシューズを投げる
グレースの頼みは神の恩寵であり、それを正しくキャッチできれば、エロイーズも救われたかもしれない。けれどそれを突き放したエロイーズは、居間を出て階段を上る。「踊り場にラモーナのオーバーシューズの片方が転がっていた。エロイーズはそれを拾うと、階段の手すり越しに力いっぱい放り投げた。オーバーシューズは玄関の板の間にすさまじい音をたててぶつかった」(61)。
賢者ラモーナは、足を守るようにという教えを母に再度伝えようと、これ見よがしにオーバーシューズを落としていくが、エロイーズはそれを嫌悪するように放り投げる。キャッチするのとは真逆の動作で拒絶し、キャッチャーになる機会、自らもキャッチされるチャンスを逃し続ける。
先ほど、煙草を放って、という言葉が道化のジャグリングを意味するのではないかと述べた。ジャグリングはthrow投げることとcatch捕まえること、両方に優れていなければ成り立たない。大切にすべきオーバーシューズを乱暴に放り投げることしかできないエロイーズは、投げるのも捕まえるのも苦手な未熟な道化。
▶ドナルド・ダック
ドナルド・ダックとこの後に出てくるラモーナのボーイフレンド、ミッキーが対で、ウォルトとともにディズニーのモチーフ。「ドーミエ」にはバンビ、「ズーイ」にはピーターパンへの言及もある。子どもにもわかるやさしいモチーフやキャラクターで、神話や昔話、おとぎ話的なテーマを語るという意味で、ディズニーにはサリンジャーが目指す作品と近いところがあり、共感していたのではないかと思う。
ダックといえば『キャッチャー』で言及されるセントラルパークの池のアヒル。水陸両方を行き来する鳥は、彼岸と此岸、現実と虚構を越境する道化と似た性質を持つ。ディズニーは、視力が悪く、現実が見えない代わりに空想の世界に浸るラモーナの精神性を表現する記号でもある。ウォルトは死者だから、夢の世界、虚構世界を思わせる名前を与えられたのかもしれない。彼の道化的な楽しくて優しい性格が、ディズニー作品のイメージと響きあう。
▶ミッキー・ミケラーノ
ラモーナの架空のボーイフレンド、ジミー・ジメリーノは事故で死んだはずなのに、ラモーナはいつものようにベッドの端で眠っている。エロイーズが理由を問いただすと、ラモーナは、新しいボーイフレンドであるミッキー・ミケラーノが痛がると嫌だからと答える。「エロイーズは思わず悲鳴に近い甲高い声で「ベッドの真ん中でお寝みなさい」」といって、「娘の両足首をつかみ、半ば持ち上げ半ば引きずるようにしながら、ラモーナの身体をベッドの中央まで持ってきた」(62)。
ジミーが死んですぐに新しいボーイフレンドをつくったラモーナの姿は、ウォルトが戦地で死んだあと、ルーと結婚したエロイーズと重なる。エロイーズは娘が自分と似た行動をとっていることに驚き恐れ、思わず悲鳴を上げる。最もふれられたくない傷に、よりによって最もふれられたくない娘、愛も憎も極まる分身的存在に指摘される。自分の資質を娘が引き継いでいること、自分の内面が娘に見透かされていることに慄き、激高する。
ウォルトが戦争で死んだあと、ルーと結婚したことに、エロイーズはもしかすると罪悪感のようなものを持っていたのかもしれない。ウォルトを忘れて自分だけが幸せになりつつあることに、迷いを感じていたのかもしれない。それが棘となってエロイーズの心を苛むとき、彼女はその棘を夫や娘、メイドに投げつけてしまっていた。その棘の正体を直視するのを恐れ、自分の心の痛みから目を逸らし、精神のバランスをとるために、間違った方法で周りの人に冷たい態度をとって傷つけていた。
けれど、ラモーナは新しい恋人ミッキーにも、ジミーの時と同じようにベッドの端をあけてやるという気づかいを見せる。メイドのグレースが夫を気づかうのはまだわかる。けれど、幼い子供のラモーナまで、新しいボーイフレンドを思いやり、優しさを見せている。一方、自分は昼間から酒を飲み、一日働いて雪で帰れなくなったルーに、雪中行軍してくればなどと憎まれ口をいうことしかできない。これにショックを受け、エロイーズは本作のキーワードであるラモーナの足首をつかんでベッドの中央へ引き戻す。エロイーズは、ここでやっと自分の未熟さに気づくのだと思う。
▶無識別の境地へ
ジミー・ジメリーノとミッキー・ミケラーノの頭韻を踏む名前は、ジミーがウォルトの、ミッキーがルーのシャドウであることを暗示するとともに、ウォルトとルーもまた分身であることをも示唆すると思う。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」で「世界じゅうの人たちがみんな同じ顔つきをしていればいい」「誰に会っても、これは自分の奥さんだ、お父さんだ、お母さんだと思うだろうし、みんなはいつどこで会っても互いに腕をまわして抱きつくだろうし、そうなれば『とてもいい』」(94)と語られるように、サリンジャー作品には究極的には無識別の境地を目指すべきだという考え方がある。この考え方自体はかなりラディカルで、個人的には必ずしも全面的に賛成というわけにはいかないと思う。
けれど、こういうことを考えたくなる気持ちも分からなくはない。サリンジャーは実際に、第二次世界大戦でかなり激しい戦闘にも参加した経験を持つ。これは私の想像だけれど、すぐそばに爆弾が落ち、銃弾が自分の身体のすぐ横を通り抜けていく。すぐ隣で同じように闘っている仲間が命を落したり、大けがを負ったりする中で、自分はたまたま生き残った。極限の偶然性にさらされる体験を経て、自分が生き残った意味を考えて、精神的にぎりぎりまで追いつめられたら、自分と隣にいる人との間にあるわずかな差異に意味を見出すのは無意味に思えるのではないだろうか。
いつだって楽しい冗談がいえて、軍で昇進するたびに制服を脱いでいって、最後は裸になっているだろうとおどけるウォルトの方が人間的に優れていて、大衆的な冒険物語が好きで、軍での階級ばかり気にしている俗っぽいところはあるけれど、大雪の日にも遅くまで懸命に働き、家族の暮らしを支えているルーが人間的に劣っているなんて誰にいえるだろう。
エロイーズの中で、死んでしまったウォルトの思い出は美化されているだろうし、メアリ・ジェーンにいわせれば、ルーだって知性がないわけではなく、生活を共にしている夫の欠点が妻の目につくのはある程度仕方がない。好みや相性はあるにしても、優劣などつけられるはずがなく、それこそ階級のようなもので人を差別するルーと発想としては同じではないか。そういう意味では、ウォルトとルーを区別して、価値を比べようとする行為自体が無意味。識別する必要などないのだと、いま目の前にいる人に優しくすることが大事なのだと、ジミーが死んでしまった後、すぐにミッキーというボーイフレンドをつくったラモーナは伝えようとしているのかもしれない。
誰にだって美点があり欠点がある。それらをまとめて受け止めて、目の前にある幸せに目を凝らせ。それができるキャッチャーとしての腕を持て。分厚い眼鏡をかけるラモーナのように、目には見えないものへの想像力を働かせよう。とサリンジャーはいっているのではないか、というのが私の解釈。言うは易く行うは難し、ではありますが。
▶おめめをつぶって
エロイーズがラモーナに「おめめをつぶって」「おめめをつぶりなさい」と二度命令するのも、一度は娘に、二度目は彼女の分身である自分自身に言い聞かせているようにも思える。目が悪いラモーナが、空想の世界に浸っていたのは、現実を直視できず、ウォルトとの美しい思い出に浸っている母エロイーズの資質を引き継いだもの。ここではそれが反転し、目を閉じることで、今まで目を開いて見ているつもりになっていたのに、実は見過ごしてきたもの、目の前にある現実の家族との幸せな生活を見つめなおそうとする行為が語られる。視力を失うことで、今まで見逃してきた本当に大切なものに気づくのは、オイディプス神話やシェイクスピアの『リア王』などから引き継がれたテーマ。
▶ベッドの脚に膝をぶつける
ラモーナが目をとじて夢の世界へ入っていくのと同時に、エロイーズも部屋の電灯を消したあと、そのまま戸口に長いこと佇み、気づきを得る。暗闇の中で、今まで見えなかった世界に目を開いていく。そしてベッドの脚に膝をぶつけながらナイト・テーブルに駆け寄る。脚の強打は、彼女が足もとのおぼつかない未熟者であることを再度示すもの。ウォルトが彼女をひょこひょこおじさんと評した過去のまま、止まってしまっていたエロイーズの心が、ここからやっと前に進みだす。
▶かわいそうなひょこひょこおじさん
エロイーズはラモーナの眼鏡を手に取り、両手で握りしめ、頬に押し当てて泣く。「かわいそうなひょこひょこおじさん Poor Uncle Wiggily」という、かつてウォルトがエロイーズに向かって言ったのと同じ言葉を、何度も繰り返しながら。前述のとおり本作では、エロイーズもウォルトも道化。だからここでエロイーズがかわいそうだといっているのは、第一に戦地で命を落としたウォルト、第二に最愛の恋人を失って傷ついた、当時のエロイーズ自身だと思う。
▶眼鏡を濡らす涙
先にエロイーズたちがお酒を飲むコップを指す〈glass〉には〈聖杯〉の意味が重ねられると述べた。ここでエロイーズが頬に押し当てているラモーナの眼鏡もまた〈glasses〉。本当に大切なものに目を見開かせてくれたラモーナの眼鏡もまたひとつの〈聖杯〉と考えると、エロイーズの目から「涙があふれ出て、眼鏡のレンズを濡らした」(63)という描写の涙は、聖杯に流れ込む浄化の水に思えてくる。
「人生笑わなきゃ損よ」と強がりをいいながら、やけ酒を飲んでいたエロイーズが、ラモーナに導かれて最後に心の底から涙を流す。エロイーズの中で凍り付いていた感情が溶けだす。笑いと涙に満ちた道化芝居によって、エロイーズの中にあった汚れた感情が浄化され、傷が癒される。
エロイーズは、ラモーナの毛布をベッドの中へたくし込んでやる。毛布もコートやカーディガンと同じ。神話で傷ついた者を癒すアイテムであり、『キャッチャー』や「ズーイ」などにも登場する。エロイーズは、ベッドの中のラモーナも、眠れずにずっと泣いていたことに気づき、娘の唇に口づけをする。前半では、ラモーナがメアリ・ジェーンと挨拶のキスを拒んだ。これが引き裂かれたエロイーズの心の投影になっているのだと述べた。傷つき、分裂していたエロイーズの心は、ラモーナの涙によって癒される。この口づけはそれを表現するもの。
先ほど、ラモーナの足首をつかんだとき、エロイーズは、夫や義母にばかり似ていると思っていたラモーナが、実は自分の悪い資質を引き継いでいたことに戦慄し、激高していた。けれどここで彼女は、娘が自分にそっくりであること、分身のような存在であることこそが救いなのだということに思い至り、娘への愛情を取り戻したのではないかと思う。自分とは異質で、同時に怖いくらい似ている娘こそが、自分を救う存在であると気づく。「あたしに似ている人が欲しい」というエロイーズの願いがここで叶えられる。本作におけるエロイーズにとっての究極の聖杯は、ラモーナなのだと思う。
親から子、父から息子へ引き継がれる資質と宿命、親子の対決と和解、一体化は、オイディプス神話やシェイクスピアの『ハムレット』『リア王』などにも見られる普遍的なテーマ。本作ではそれが母と娘の交流を通して描かれている。母と娘が分身関係で、互いが互いの聖杯で、二人でひとつでもあるようなとき、二人の立場は逆転も可能になる。これも『リア王』で描かれたテーマ。
神話では、子宮(wombウーム)部屋(roomルーム)墓所(tombトゥーム)が重ねられるのも典型。前述のとおり、エロイーズには多産のイメージが付与され、お腹が素晴らしいとほめられている。ここではそれが反転し、ラモーナの部屋こそが、エロイーズが生まれ変わるための空間になる。これが『ナイン・ストーリーズ』全体を貫く死と再生のテーマにつながっていく。
▶眼鏡の向き
エロイーズが初めに部屋に入ったとき、ラモーナの眼鏡は「つるを下にして」置かれている。これはラモーナのオーバーシューズを通した教えや、グレースの問いかけにもかかわらず、エロイーズがいまだ真実、目の前にある幸せを見られていないことを示しているのではないかと思う。
ところが、エロイーズが気づきを得て、眼鏡を頬に押しあて、「かわいそうなひょこひょこおじさん」といって泣いた後、彼女はラモーナの眼鏡を先ほどとは逆に、「レンズを下にして」テーブルの上に戻す。これはエロイーズが、目には見えない大切なことに目を向けられるようになったことを示すもの。過去ばかり見ていたエロイーズは暗闇の中で、逆説的に本当に見るべきものに心の目を開けるようになったのだと思う。
エロイーズが自ら眼鏡を反対向きに置くことで、彼女の精神的な変容と成長が、彼女の意思を伴ったものであることが示される。彼女はおそらく今後、ウォルトとの記憶、恋人を失った痛みを抱えながらも、それに囚われすぎることなく、自分が今手にしている現実の家族との幸せを見つめ、それに愛情を注げる女性へと、自らの意思を持って変化していくのではないか。そんな希望が感じられる表現。
▶茶色と黄色のドレス
エロイーズは眠っているメアリ・ジェーンを起こして、学生の頃、田舎で買った「茶色と黄色のドレス」を着ていたら、友達に「ニューヨークじゃそんなドレス誰も着てないよ」と馬鹿にされて、一晩中泣いたという思い出を語る。
茶色は雪を汚していた泥の色。つまり、エロイーズの純粋な心を汚すもの。「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」では、汚れた心を持つZ伍長がクレイ=泥と呼ばれていた。黄色は聖書のイエスの受難のエピソードで、裏切り者のユダが纏っていた色。未熟で卑しく、浅はかな精神の象徴。いずれの色彩も、いい意味とは言い難い。若い頃から、エロイーズの中には、浅はかで見栄っ張りな性質があったのだと思う。それが現在の荒廃した暮らしへと結びついている。茶色と黄色、二色のドレスは、まだら模様の道化衣装。
同時に、茶色はエロイーズが育った田舎の大地を思わせる色でもある。ソポクレスの『オイディプス王』の続き、『コロノスのオイディプス』では、オイディプスは大地に吸い込まれるようにして消えるという不思議な死に方をする。また本作の前半で、かつての友人が結婚前に赤毛からブロンドに髪を染めるエピソードが出てきたように、黄色は成長すれば黄金に輝く可能性を秘めた色(詳細「バナナフィッシュ」読解参照)。誰もが未熟なうちは弱さや卑しさなど、負の要素を持っているもの。それに気づき、認めて改めようとしたとき、はじめて茶色や黄色が黄金に輝きだす。神話における象徴的な死と再生、大地へ還るような体験を経て、心の中に輝く光をみつけられる。そんな両義的な色彩。
▶金の針としてのアイスピック
『オイディプス王』でも、主人公が目を突いて悲劇的な運命を終結させるのが「金」の針なのは、残酷な運命の発見が、真実のきらめきを伴っているからだと思う。
コネティカットで豊かな暮らしを送るエロイーズは、今はおしゃれなドレスを選べる大人へと成長した。けれど、そのような能力は、浅はかで見栄っ張りな性格を助長するのには役立っても、本当に大切なものをつかみ取るのには役に立たない。『荒地』に登場する、ロンドンの都市生活で心を荒廃させた女性たちと同じ。
グレースが夫へ見せた気づかい、ラモーナがミッキーへ見せた思いやりは、エロイーズの心を鋭く深く刺し貫き、目には見えない血を流すアイスピックだった。このアイスピック=聖槍は、エロイーズのくるぶしに刺さった金具=金釘と対で、オイディプス王の目を突き刺した金の針なのだと思う。
エロイーズの中にある、都市生活で培った浅はかな価値観、茶色く汚れた感情や黄色い卑しさが、アイスピックで刺されることで、見えない血となって大地へ流れ落ちる。それはラモーナと一緒に流した涙とともに、エロイーズの心の大地をうるおし、ジミーの目の色のように鮮やかな緑の芽を息吹かせるためのエネルギーになる。それはいつか、黄金に輝くライ麦畑のような実りをもたらすはず。エロイーズが披露した三幕の道化芝居は、それを願うための豊饒祭祀。
▶あたし、いい子だったよね?
エロイーズはメアリ・ジェーンに、学生の頃は野暮ったいドレスを馬鹿にされて一晩中泣くくらい、「あたし、いい子だったよね?」と腕を揺する。エロイーズは自分の中にかつて純粋なものがあったことを思い出す。いまは精神的に荒廃し、家族にも冷たい態度をとってしまっているけれど、またあの頃の純粋な気持ちに戻ることもできるよね、まだ遅くないよねと訴える。
▶揺れ動く結末
大切なことが見えるようになったエロイーズは、きっとここから少しずつ、周りの人々に愛情を注ぎ、自分自身も幸せにできるような女性へと変わっていくはず。そんな希望を感じさせる結末。だけれど、ドレスを思い出すくだりでも過去へ執着する癖がまた出てきてもいる。娘の部屋を出て階段を下りてゆくエロイーズの足どりはひどくふらついて、よろよろしている。アイスピックで心を突き刺されるようなひとときを経て生まれ変わった母は、まだ動揺から立ち直れず、いまだに不安定なひょこひょこおじさんのまま。エロイーズの再生と成長はいまやっと始まったばかりで、これからまだ長い道のりが待っている。
今回の物語でエロイーズはひと回り成長したけれど、この先にはまた新たな迷いや足もとをふらつかせる悩みが出てくるはず。よほどの聖人や超人以外、基本的には誰もがみな、多かれ少なかれ愚かさや未熟さをどこかにかかえ、死ぬまで揺らぎ続ける道化だというのが、サリンジャーが描く思想だと私は思う。だからサリンジャー作品の多くは、ハッピーエンドに見えてもどこか不穏な感じが残る。物語は読者の心の中で揺らぎ続ける。エロイーズはこの後どうなるんだろう。そう考え続けること、揺れ続けること、を楽しめる作品でもありますね。
登場人物たちのセリフやしぐさ、単語の一つひとつから、オイディプス神話、聖書のイエスの受難のエピソード、豊饒神話や道化芝居など、多様にイメージが広がり、絡まりあって、読者一人ひとりの心の中で、さまざまな形で花ひらき、実を結ぶ。そんな豊かさに満ちた短編であり、それが作者が目指したことなのではないかと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
J.D.サリンジャー「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解はこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

