面白企画に乗り、社会人の片思い小説を書いてみた【小説】
こんばんは!私は今日からお休みです。
まだまだ年末年始はお仕事だよ、と言う方、お疲れ様です!!
い、忙しかった……情緒がジェットコースターになる、盛りだくさん過ぎる12月だった……
さて、数日前、こんな記事を書きました。
一人イルミを見た夜、昔書いた恋愛小説を引っ張り出したが酒の肴にならなかった話【エッセイ】|三笠 カヲル|働きながら試行錯誤の執筆記録
換言すれば「過去の自分の純粋で切実な恋を、今の自分は表現できる自信がない!!」という内容です。
さて、そうは言いつつ、ある種の怖いもの見たさで、
「超繁忙期の自分が、睡眠時間を犠牲にして「社会人の恋」を書いてみたら一体どうなるんだろう?……」
という悪魔のささやきが布団の中でムクムクと湧き上がりました。
そんな時、フォローしているナル様が「クリスマスだから片思い小説募集」
#片想い文芸部 、期間限定開催のお知らせ|ナル
というタイムリーに面白い企画を出されているので、これ幸いと参加させていただきます(……と思って書き上げたのですが、なんと締め切りが過ぎている!なのでタグはつけず、記事だけご紹介させていただくことにします)
眠かったので、推敲含め制限時間48時間という自縄自縛で書き上げました。もはや習作ですが、興味がある方はどうぞ。
◆ ◆ ◆
想定の範囲外
定時後は、全フロアの暖房が消える。時折両手をこすりあわせてあたためながらキーボードを打ち続けるうちに、気が付けば23時を回っていた。すべての緊急案件メールを打ち返すころには、甘ったるい缶コーヒーは二本空になり、俺は三本目を買おうか一瞬迷ったのち、そのまま本題の予算積算書に手を伸ばした。帰り際、部下の一人が印刷してくれた積算書はすっかり冷え切り、感触に感じる神の冷たさに寒さが増幅される。俺はスーツの上の肩から羽織っていたロングコートを羽織りなおすと、かさつく指先で地層のように積もった予算書を捲る。目線が滑る。そしてまた捲る。
来年度の予算を決める、二回目にして最後の局長説明が明後日の13時から控えていた。説明者は俺だ。決して数字が得意ではないが、だからといって失敗していいわけでもない。
できることなら逃げていたい―ーそう思いつつ、社会人生活は早十五年。思えば数字と睨めっこする仕事の方が多かった気がする。数百億円規模の予算書や決算書を、四苦八苦しながらも作ってこれた。予算期間中に酷い風邪を引き、PCを打つ手が背中から駆け上がる悪寒で何度となく止まり、苦しい息を必死でかみ殺す日もあった。それでも自分がどんな時も「必要最低限以上」を担保できる人間であることを、俺は経験上知っている。
そう、数日の機能不全くらいなら屁でもない。次の週、二倍の火力で取り返せばいいだけだ。常日頃から地道に勉強し、やるべき仕事を最小単位まで因数分解し、それぞれ得意な部下に振る。俺自身が必死に手足を動かすこともあるが、究極的には俺の仕事は上がって来た情報に対する「判断」だ。嫌味たらしく語ったことはないが、国家の歯車の一つとしての俺は同期より頭一つ抜けて優秀で、それは俺を構成する最も強固な誇りのはずだった。
―ー平気だ。あと48時間以上ある。いくらでも取り返してやる。
そう念じながら今日一日、一体何度、PCの同じ場所を延々とスクロールしただろう。部下から送られたエクセルの数字は何度確認しても、責任をもって「問題なし」と言える気がしない。机の引き出しに入っている目薬の減り具合は過去最高速度を更新している。モニターを見すぎて眼疲労が限界だから―ーーーそう思って提出されたデータを全部印刷してみたが、視線は相変わらず紙の上をスケートのようにすべってゆく。首筋をもんでみたが、痛気持ちいいだけで集中力は戻らない。
予算を統括する課長補佐は、俺だった。在籍年は一番長く、数字と文字のみに落とし込まれた無味乾燥の事業内容記述から、誰よりも具体的で血の通った事業として説明できるはずなのだが、今はまるで初めて見た企画書のようにすら思えてしまう。
―ー職場がざわついてたせいだ。昼飯のせいだ。
ぎゅっと目を眼をつぶって、俺は頭の中の残像を振り払おうとした。
……そうだ、今日はとりわけ煩かった。
折しも、昨日京都出張から戻ってきたばかりのメンバーが、出張先で仕入れた馬鹿話を披露して室内がどっと沸いていた。わざわざ有給を取って前泊したというのに、歴史的名所を見るでもなく、男二人で京都サウナ巡り。「なに二人でととのってんだよ、二条城とか行けよ!」の誰かの突っ込みに、笑いのさざ波がますます広がる。
「それならやっぱり、歴史好きな井ノ上補佐が行くべきでしたよ」
だって、京都でサウナなんてもったいないじゃない?と、俺が特に目をかけている部下の山岸が、隣の席から俺に微笑みかけてくる。普段なら飛びつきたい種類の雑談なのに、喉から出てくるのは「まあでも、予算が終わらないから……」という、会話を強制終了させる気の抜けた音だった。ちっとも乗ってこない俺に対し、山岸は怪訝な顔で大きな瞳を曇らせたが、再びつまらなそうに電卓をたたき出す。ぼんやりと彼女の揺れるポニーテールの毛先を眺めながら、ここ一週間ほど、自分のすべてが完全に上滑りなのを認めないわけにはいかなかった。俺は指先をきっちり着込んだベストの上に滑らせる。昨年の正月セールで買った薄いベストの下で、胸が意味もなく苦しい。触ってどうなるわけではない。わかっているのに、俺は祈るような気持ちで何度となく心臓の上を指先でひっかいた。腕時計は丁度11時を指していて、午前8時に続き、本日二度目の定刻メールチェックを告げる。
ため息をつきながらメールソフトを立ち上げ、ベルトコンベアーを管理する猛烈にスクロールを開始する。弾幕みたいなメール攻撃。
「【依頼:12/19〆】市立病院における障がい者雇用率について」
「【至急回答】自民党からの予算要望について(車いす購入の件)」
「【12/18(水)19:00~】5年ぶりに同期会します!!@日比谷うおきん」
「先日は大変お世話になりました(××市病院経営本部)」
「【情報共有】各市町村課から積算書への問い合わせがあった場合」
「【質問】予算計上時の税抜き表示について」
俺は内心舌打ちしたかった。
―ーくそ忙しい時期に関係ねえ照会かけてきてんじゃねえよ。
―ー俺のどこに飲んでる暇があんだよ。
ーー特段、世話した覚えもねえよ。てか、もう予算予算うるせえよ。
やさぐれた思考が眉間にだけ漏れるまま、スクロールを進める。とりあえず緊急以外は後回し! 後回し! 猛烈な勢いでとりあえずタイトルだけを眺めていて、はたと指を止める。
【ご相談】予算流用について(起債)
送信元 <<西園怜奈>>
----俺は即座に立ち上がった。立ち上がってから何やってんだと一気に血が引いた。どうされました?と尋ねられるから「いや、課長戻ってきたかなと思って」とわざと廊下の方に首を戻す。そんなの言い訳だ。ほんとはただの脊髄反射だ。レーダーが西園怜奈をとらえたときだけ起こる誤作動にすぎないんだ。だからこそ「そうか、課長が戻るのは午後か、ごめん山岸。朝礼で言ってたな」と論陣を張りつつ席に座る。
メールが届くのは先月以来。限りなく胸がざわついていた。指の項で心臓のあたりをぐりぐり押さえながら、覗き込まれないよう細心の注意で彼女の予定を全庁の共有スケジュールで確認する。奇跡だ。この後、午後まで予定が入ってない。
俺はメモ帳と電卓をポケットに突っ込むと、今度こそ立ち上がった。
「17階に呼ばれたから行ってくる。昼までには戻る。戻らないときは直接会議室に行く」
わかりました、という部下たちの三重奏を後ろ背に聞きながら、何が昼までだと自嘲する。会話を20分以上引き延ばせたことなんてないくせに。その後飯でも行きますか? なんて僥倖あるわけないと知ってるくせに。
西園怜奈のいる部署は、一つ下の17階。業務上の相談なら、呼ばれない限りはメールやteamsか電話で対応することが多いし、少なくとも超繁忙期の俺がわざわざいま、この瞬間に17階に足を向ける義理はどこにもない。が、俺は自分が全フロアの金を統括する役職であることを神に感謝しながら、もどかしい気持ちを抑えて階段を駆け下りる。
フロアに入る前に、トイレに寄って鏡を見た。が、知り合いがやってきたので間髪を入れず「お疲れさま」と言って飛び出した。わざと大回りして知り合いに自分から悠々と挨拶をした。すぐにはいかない、あくまで目の端で彼女を見つけ―ーよかった、離席していない、誰も彼女に話しかけていない、だから落ち着けと自分に念じつつ、余裕をもって、少しずつ彼女に歩み寄る。
俺には管理職としての義務がある。
この強力なプロパガンダが怖気ずく心をいつも少しだけ軽くしてくれた―ーたかが中途採用程度の女だが、こうやって足で稼ぐのは担当課員の仕事だが、変に専門性がある中途採用者が「でも、前職ではこうでした」とかめんどくさく騒ぎ出す前に、俺が責任をもって直々に面倒の芽を叩き潰した方が後々手間が減る。と、彼女が振り返った。長いまつ毛に縁どられた大きな瞳に、一瞬感情が跳ねる。俺の胸も痛いまでに跳ねる。
「井ノ上補佐!すみません、わざわざいらしていただいて……」
「いや、直接行って話したほうが早いですから」
努めて平坦な声をだしたーーー見ろ。どこが美人だ。こんな女、駅のホームのサイネージ広告と一緒だ。全部のパーツがデカくて派手なだけだ。くるくるとよく表情が切り替わるから、物理法則上で目が離せないだけだ。
「いつも本当にすみません、次から私が伺います」と言いだした彼女を「いや、もののついでなので気になさらず」と制する。昔からの同僚や部下がひしめく俺のフロアで、やって来た彼女を前に、「井ノ上補佐」の仮面の下から「井ノ上恭弥」が漏れでているのを隠し通すのは至難の業に違いない。「でも……」と言いかけた彼女を、無表情でポケットからメモを取り出しつつ「あ、鉛筆忘れたから貸してください」と言って遮った。「……またお忘れなんですか」と彼女は息が漏れるように笑った。そして自分の引き出しを開けると、よくとがった鉛筆をつまむ。指先に目が行く。薄いピンクのネイル。トンボのHB鉛筆が二本の指でつままれた。ワイシャツの下で息が詰まる。鉛筆がそっと近づく。早く渡さないでくれ。ちゃんと鉛筆より指先が少し飛び出た状態で渡してくれ。爪先だけでいい。少しでも俺の掌をこすったらーーーー一瞬、彼女が指の動きを止めた気がした。冷たい六角形の鉛筆の感触が掌に広がる。じわじわ広がる失望に歯噛みしながら「流用の申請出してもらってるけど、正直あの額で足りますか?」と、間髪を入れず彼女の大きな目を覗き込みながら次の作戦を展開した。彼女のまなざしの中に僅かに失望がよぎったのは気のせいか。気のせい以外に何があるって言うんだ……そう思いつつも「よければ積算の根拠を確認しますが」と言葉を重ねる。積算の根拠なんて、極論は所管課が把握さえしていればいい。俺は言われた額を査定すればいいのだから、こう親切にしてやる義理はないし、所管課だって手の内は知らせたくないだろう……でも結果的に、全庁的にメリットになり、ひいては国益にかなうなら……頭の中で言い訳が駆け巡りながら、結局はこれが一番、彼女のデスクの前で滞留時間が長くなるための常とう手段なのだった。ただし、後ろのスケジュールが詰まっていない時しか使えない。要するに、今日は使える。
彼女の目線がさっとフロアのフリースペースに目をやった。僅かにほっとした表情をして、彼女は「ちょっとお待ちください……あ、先に向こうにおかけ頂いていても」とPCに向かってデータを探しだした。絹糸みたいに細い、こげ茶色の髪の毛が耳元で揺れている。眺めのイヤリングも揺れている。俺は手持ち無沙汰を装ってフロア全体を見渡しながら、今日はこのあと、一体どこで顔をほころばしてくれるだろうとか、さっき見た微細な表情の揺れを脳内でスローモーションでかみしめていた。データを用意した彼女がノートパソコンを抱え、メモとキラキラした高そうなボールペンをつまんでバーバリーのペンケースに詰め込むのを見て、そういえば、彼女自身が鉛筆を使っているのは見たことがないなと思った。
出会いは今年の4月。コロナ以降、久しぶりに復活した17階、18階合同新年会は、珍しく飯も酒も旨いイタリアンだった。3月に、大学卒業以来の愛車を買い替えたこともあり、酒代を節約していた俺にとっていい酒飲み放題は天啓で、酒豪の後輩ふたりと、ステーキをつまみにここぞとばかりにワインをあおりまくっていた。後輩がトイレに立つ。と、ちょうど一服からから戻って来た課長が、相変わらずうわばみみたいな奴だな……と心底呆れ顔をしながら「17階の新人さん、病院から来たって」と開いた席に割り込んできた。
「へえ、どこの病院ですか? プロパーの人?」
「×市の市民病院。事務職で10年くらいいたらしい」
「なら実務は生え抜きですね。なにしてたんです」
「病院経営は起債含めて一通り触って来たらしいよ。ほら、あの人。黒いジャケット着て藤波補佐んとこで話してる女性」
それが西園怜奈だった。俺が掌でつかんだら少し余りそうな胸だ。その上にこげ茶色の長いストレートの髪がかかっている。すっきりとした輪郭の中に、大きなパーツが品よく並ぶ。理屈上、かわいい部類なのだろう。だが、ワインをひたすら手酌であおりながらしばらく観察していたが、男が「守ってあげたい」と思うより、硬いジャケットのその下、薄いブラウスの下まで探ってみたいと思わせるどこか底の知れなさを感じる女だった。その女が、少しでもこの場になじもうと笑顔で周囲に話しかけている。しかし時折、所在無げな迷子になったようなまなざしであたりを眺めている。俺は立ち上がった。
「挨拶してきますよ。結構関わりそうですし」
その時、はっきり目があった。猫みたいな目だな、そう思った。すぐにそらされるかと思いきや、視線が交差したままとどまっている。
「ああ、こいつだ」と俺の中の何かが騒ぐ。グラスを片手に彼女の方へ向かいながら、「とりあえずライン教えて」と聞くような年でも立場でもない今の自分を早くも歯がゆく感じていた。今年から充て職でまわってきたセクハラ担当窓口の俺が、初対面で「この後二人で抜けない?」と抜かすのも論外。結局、俺がすがったのはやはり好きでもない俺の「数字」という社会人の看板だった。
「ご挨拶が遅れました、予算担当をしている補佐の井ノ上です」
「西園怜奈と申します……!はじめまして」
ほっとしたかのように、目じりが下がり顔中に笑顔がほころぶ。俺は照れ隠しに「金関係で困ったら、なんでも相談してください」と言う言葉で、陽だまりのような笑顔の影響を最小化しようと試みた。所在無げな顔と、笑顔の間の断絶があまりに大きい。胸が苦しくて、自分の声が押しつぶしたようなものであったことに気づいていたが、どうにもならない。何を話したかも定かでないまま、大きな猫の瞳だけ脳裏に刻み付けて帰路に就いた。
夏には、フロアをまたいだ大きな女子暑気払いがあったらしい。山岸が、「西園さんはハンバーガーが好き」という話を携えて戻ってきたその日の昼休み、俺はバーガーキング(公式LINE)と生まれて初めてLINEでお友達になった。次の日、お友達になったのに食いに行かないのは仁義が廃るので数年ぶりにバーガーキングの列に並んだ。本当にバーガーキングが好きなのかは知らない。だが、昼休みに往復できる徒歩圏にハンバーガーを出す店はここ以外にないから、確率論的にこれしかない。それ以後、俺はコンビニサラダとおにぎりを食う回数を減らし、週の半分は昼休みと同時の職場近のバーガーキングに向かう習慣を導入した。いつも混んでいるから、食った後に昼寝をする時間が大幅に減る。今までは10分で昼食を食いおわると速攻で眠っていた。けれど「肉を食うと元気が出るから。もう若くないし」と言ってバーガーキングに通う最近の昼寝時間は5分に満たない。「井ノ上補佐、まだ37じゃないですか……あ、でも確かに若者じゃないかも!」と言う笑い声を聞きながら俺は短期集中で机に突っ伏す。
しかし、山岸が大収穫をもたらしたのは「ハンバーガー」と「西園はお昼は外に買い行くことが多いらしい」という情報だけ。もう年末になるのに、俺は彼女がどこに住んでいるのかも知らない。
今日も今日とて、バーガーキングは混んでいた。
コートを着込んだこのあたりの勤め人が列を作って並ぶ中、最後尾に並んだ俺はコートの中に突っ込んだスマホを掌で握りしめていた。店員が動く音と無駄に陽気なBGMとは対照的に、俺も含めて客は押し黙って並ぶ。そんな店内で、いきなり「やっぱイルミ見ないで帰るとかないわ」と場違いに高い声がした。思わず振り返ると、アイドルの缶バッジをモザイク画みたいにぎっしり敷き詰めたトートバッグを持った二人組。ミニスカートの下から、肉感的という誉め言葉では収まりきらない太ももが、黒の二―ハイソックスからあふれている。
「えー、でも昨日の現場でおなか一杯じゃん。疲れたし」「東京まで出てきたんだよ?丸の内でイルミ見ないで帰るとかないっしょ」「寒くない?」「若いから関係ないし。ほら、お店出てるらしいよ!グリューワイン飲も!」「なにそれ?」
―ー何がイルミだ、勝手に行けよ。
甲高い声の応酬は、俺は自宅の最寄り駅を彩る、けばけばしいだけの原色イルミネーションを思い出させた。「電飾をつけることに意味がある、センスは知らん」みたいな、見た目ですぐわかるふてぶてしさ。俺はため息をかみ殺しつつ視線を強制的に前方に向けた。老いも若きも混じった店員たちが忙しく立ち働くカウンターの後ろには、数秒おきに切り替わる、にぎにぎしいバリューセットのサイネージ広告。原色満載で「580円」の文字がでかでかと踊る広告を見ていると、忘れたいのに、つい先日眺めたばかりの彼女の顔が脳裏に浮かんでくる。俺はぎゅっとスマホを握りしめた。
―ー何やってんだ、俺は。あんな女、バーガーキングのクーポンと同じだ。
朝起きると、スマホのたくさんのライン通知の中で、赤が基調のLINEクーポンが届いている。見たくもないのに自然と目がひきつけられ、食いたくもないけど割引だからと言い訳して列に並び、知りたくもないのにバリューセットの値段を知ってしまう―ーーーくるくるとよく変わる表情の彼女は、やっぱり、目の前で移り変わるサイネージ広告。吸い込まれるように目が離せない。離せなくって、目が焼けそうで、それでも覗き込みたい俺はいつだって「バリューセット590円って物価高の割には検討してますね」みたいな、役割に覆われた糞みたいな会話を繰り出してしまう。本当は「そういえば、ハンバーガー好きなんですか?山岸から聞きました」って聞きたいのに。その一言が言えたなら「実は俺も好きで、学生時代はファーストキッチンで一時期バイトしてました。西園さんは?」みたいに突破口が開けるというのに。もしかしたら彼女からのカウンター攻撃で「今度行きます?」みたいにも……。
レジで俺の番が来た。スマホで「バリューセット100円引き」クーポンを提示している間も、耳をそばだてなくてもすぐ後ろの二人組は今なおイルミネーション談義が終わらない。
「てか、彼氏いなくてもイルミ見に行くうちらやばくね?」
「ぬいが彼氏だから問題ないし!」
はじける笑い声を聞きながら、俺は彼女の右手薬指に時々、指輪がはめてあることを鈍い痛みとともに思い出していた。しかしいまどき、働く女が指輪の位置や意味になんかにこだわるだろうか? 俺の同期の夫婦だって、結婚指輪を状況によって今日はつけたり、つけなかったり。そもそも、既婚だとしてハンバーガーについて一般的な質問をしたところで、誰がどう咎めるというんだ?--誰も咎めるはずがない。今まで俺を助けてくれた「有能な予算担当課長補佐・井ノ上恭弥」という看板だけが、役にも立たない自尊心を引っ提げて「出世株のお前がそんなにあの女に興味があるのか」と水を差す。
頭の中で、イルミネーションの下を誰かと歩く西園が思い浮かぶ。イルミネーションを見て、心から美しいと思ったのはいつが最後だろう。西園と一緒に歩いても、地元の駅の趣味の悪いイルミはやはり、目にうるさい電飾に変わりはないのだろうか。ようやく出てきたバリューセットの包みを受け取りながら、こんなクーポン、明日は絶対使わねえよと、思う。
店の前の信号機がちょうど変わったばかりで、最近めっきり見なくなったUBER EATSのバイクが、そのあと黒塗りセダンが二台続けて通り過ぎる。
まだ赤だから。俺はガラスの自動扉の向こうの行列を振り返る。黒と紺とグレー、時々ジーンズの集団。革靴やスニーカーの合間からいつもの黒いパンプスが見えやしないか。
刺すような冷気が頬をなぶり、俺はあたたかい包み紙を抱きしめるようにそっと腕の中で抱えなおした。油と肉とパンの混じった、ファーストフードの香り。勇気を出していつもより15センチほど近づいたときに微かに感じる、彼女のハンドクリームの香りとは違う、腹の底から引き込まれるジャンクな香り。
食いたいわけじゃないんだ。ただ目に入るだけなんだ。
肩を並べていたスーツの群れが、我先に歩き出すーー青だ。
革靴の底で、俺は横断歩道を思い切り蹴り上げた。
(了)
