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国家の分断と形成・カナダ#02/ケベック法と第2回大陸会議

もう少しケベック法Quebec Actの話をしたい。
1774年、イギリス議会で成立したケベック法(Quebec Act)は、13のイギリス植民地、特にペンシルベニアやバージニアなど西部開拓の最前線にいた人々にとっては、あまりにも侮辱的なものだった。ケベック法は、イギリス政府がこれまで異教徒とみなしていたカトリック教徒に対して、あっさりと宗教的自由を認めたという「裏切り」に映ったのだ。
「我々は英国人としての尊厳を守るために、血と涙を流して荒野を開拓してきた」・・そんな誇りを持つ植民地人たちにとって、ケベック法はまるで、自分たちの「英国人としての権利」を根本から否定するようなものだったのだ。
このケベック法は、同じ年に成立したボストン港閉鎖法、マサチューセッツ統治法、司法改正法、宿営法とあわせて、「不寛容法(Intolerable Acts)」と呼ばれるようになった。
これらの法令は、13植民地の人々の怒りを一気に燃え上がらせ、ついに彼らを連携へと向かわせてしまう。
アメリカ独立史の最初の一歩となる事件だね。
こうしてイギリス政府に対する初の本格的な集団的抗議の場として、第1回大陸会議First Continental Congressが1774年に開催されることになったのだ。それはまるで、点けなくてよかった丸太に、英国が自ら火を点けてしまったかのようだ、と僕は思う。愚策が最悪の結果を(イギリスにとって)呼び込んだのだ。

それが武力衝突に至ったのは1775年だった。レキシントン・コンコードの戦いがその火蓋だった。もともと英国を敬愛していた植民地人たちは、もはや銃を手に取り、「母国」と戦わざるを得ないところまで追い込まれていった。そしてこの戦いを皮切りに、アメリカとイギリスの関係は修復不能となり、事実上の内戦へと発展したのである。まさに、愚策が最悪の結果を・・
そのさなかに開催されたのが、第2回大陸会議Second Continental Congressだった。実はこれは気の良い"会議"ではなかった。独自に軍隊を編成し、通貨を発行し、他国との外交にも乗り出す・・つまりも実質的には独立国家アメリカの暫定政府としての役割がこの"会議"だったのだ。参加していたのは13植民地になった。
その中に若きジョージ・ワシントンがいた。若き近代のカエサルだ。・・そのうちそんな話もしようかな。
この第2回大陸会議によって、13植民地はアメリカ大陸の「アメリカ」の名のもとに、すべての北アメリカ英領植民地を糾合するという構想を打ち立てたのである。
じつは、そのとき、あの「ケベック」すらも、将来的にはアメリカの一部になりうるという野望を彼らは抱いていたに違いない。
https://www.amazon.co.jp/Second-Continental-Congress-We-People/dp/0756536391
第2回大陸会議は、すぐに軍事遠征を決定した。そして1775年の秋、ジョージ・ワシントンが東部戦線の総司令官へ「歩から金へ、歩成り」して、リチャード・モンゴメリーとベネディクト・アーノルドが率いる2つの部隊が、北からケベック(現在のカナダ)への侵攻作戦を開始している。モンゴメリーはモントリオールを攻略し、アーノルドは困難な冬山行軍の末にケベック市に到達。12月31日、両軍はケベック市への総攻撃を敢行している。しかし、このケベック侵攻は、ジョージ・ワシントンの気負いが先走ったものだった。この作戦は、猛吹雪の中で実施された無謀なものであり、モンゴメリーは戦死、アーノルドは負傷、アメリカ軍は大敗を喫している。そしてカナダの住民からも期待されたほどの支持を得ることもできなかった。
この遠征はアメリカ革命初期における最大のジョージ・ワシントンの敗北のひとつとして記憶されている。
・・その結果を置いたとしても、愚策ケベック法がもたらした反発は、単なる制度的な不満ではなく、新世界における秩序の主導権をめぐる戦いの火種になったことは間違いない。

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白石誠 無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました