和魂洋才・和魂漢才。Chemistry=化学を思い浮かべながら
Chemistryの語源は、エジプト語の𓆎𓅓𓏏𓊖 (kēme / kēm)だ。これは「黒い土地」つまりナイル川の肥沃な黒土を指す。
これをギリシャ人は.χημεία (khēmeía) または χυμεία (khumeía)と呼び、錬金術を指す言葉にした。
アラビア人たちはالكيمياء (al-kīmiyā)と呼んだ。
これに定冠詞「al-」を付けると「al-kimiya」になる。それがラテン語の「alchimia」を経て、最終的に英語の“alchemy”となった。17世紀以降、錬金術が科学的思考へと移行する過程で、“alchemy”から“chemistry”が分離・発展したのである。
ではなぜ、錬金術が出自であるChemistryに明治の学者たちはなぜ「化学」と和名付けたのか?
こうした翻訳語の成立には、江戸末期・宇田川榕庵をはじめとする蘭学者の語彙選定が深く関わっていたことは、以前書いたことがあるが、その話の続きと思って話します。。
宇田川榕庵は、物が性質を変えることを「化す」と日本語化し、「化応」「化成」などを訳語として造語した。彼の造語は、明治初期に編纂された『和英語林集成』(J.C.ヘボン)などでも "chemistry = 化学" という訳がとして利用されている。
実は、これはたいへん興味深いことなのだが・・宇田川榕庵は、オランダ語の化学書を翻訳・再構成して『舎密開宗(せいみかいそう)』という書物を著している。このタイトルの「舎密(せいみ)」は、“chemie(化学)”の音訳である。
榕庵は、「舎」に“香り”や“蒸気”のような意味を、「密」に“精妙”“精緻”といった意味を託しながら、この語を造ったと考えられている。すなわち彼は単に音を写したのではなく、物質の変化や反応に伴う微細な現象を漢字の意味層と響きに重ねて再構成したのである。
榕庵が“chemistry”の概念を日本語に翻訳する際には、単なる直訳ではなく、それをいかに日本語の世界観・語彙体系に融合させるかという深い工夫があった。彼の翻訳スタイルには一貫して、「西洋知」をそのまま移入するのではなく、東洋的な思想・言語感覚と結びつけて、実用に適したかたちに整えるという哲学が貫かれていたのだ。
当時、榕庵だけでなく、杉田玄白・前野良沢(医学語彙)、箕作阮甫(百科全書的語彙)、須藤時一郎(天文学・暦学)といった優れた知識人たちが、それぞれの分野で西洋語彙の日本語化に取り組んでいた。
彼らが接していた西洋文献は、当時の漢籍を遥かに超える最先端の知識体系であり、それは彼らにとってまさに文明の衝撃であった。だからこそ、彼らはその内容を「真綿のように吸収せん」とし、次々に翻訳語を生み出していった。したがって、彼らにとって翻訳語の創出とは、単なる語句の置き換えではなく、未知の思想世界を自国語のうちに呼び入れる知的作業だったのだ。
この「言葉を生み、思想を移植する」という心は、のちの明治の学者たちへと確かに受け継がれていった。
明治新政府が西洋文明を本格的に導入しようとしたとき、彼らがまず直面したのは、制度でも技術でもなく「言葉が足りない」という問題だった。
哲学、国家、経済、自由、権利。それらに当たる日本語は、まだ存在していなかった。だからこそ、彼らは新たな語を生み出す知的な土木作業に立ち上がったのである。
西周(にし あまね)は哲学を「万物の理を究むる学」と定義し、「主観」「客観」「理性」「心理」などの語を整備した。加藤弘之、津田真道は、ドイツの法制思想を参照しながら、「国家」「憲法」「権利」といった政治語彙を漢語で翻案した。中村正直はJ.S.ミルの思想を訳し、「自由」「独立」「道徳」「文明」などの近代語を生み出した。
彼らの仕事は、まさに宇田川榕庵らの仕事の延長線上にある。すなわち「外国語を、ただの音や直訳で写し取るのではなく、日本語の思考様式と論理に沿って再構成する」という姿勢である。
榕庵が“chemie”を「舎密」とし、物質の微細な変化と匂いを感じとったように、西周は“philosophy”を「哲学」とし、智慧をもって世界の理を語る営みと再定義した。
つまり、翻訳とは輸入ではなく、再創造であるという思想が、明治の碩学者たちに脈々と流れていたのである。
彼らは異国の概念を日本語に変換する過程で「日本ということばで世界を語る」道を切り拓いた。その結果、明治以降の日本語は、単なる生活言語ではなく「近代を考えるための知的装置」として鍛えられていったのである。
このような翻訳の姿勢は、実のところ明治に始まったことではない。もっと古く、遥か奈良・平安の時代にまでさかのぼる。すなわち漢語という外来の言語に「レ点」や「返り点」を付け、和語の語順で読みこなすという、日本人にしかない知の技法である。
「訓読」という行為は、単なる読み替えではなかった。それは、外国語を外国語のまま使わずに、日本語という母語の秩序で取り込み、意味と響きを再構成するという、きわめて日本固有の高度な文化的翻訳だった。
たとえ「天子詔曰(てんし みことのりして のたまわく)」であろうとも、そこにレ点が打たれれば、日本語の文法と論理で自然に通じるようになる。
明治の知識人たちが、英語やドイツ語やラテン語から新しい語彙を翻訳する際にも、実はこの「訓読」の精神が脈々と生きていたのではないだろうか。僕はそう思う。
外国の概念を、単なる音訳ではなく、日本語の語順・発想・漢字文化と組み合わせて意味を創る・・その姿勢は、万葉仮名を生み、訓点を打ち、和漢混淆文を築いてきた、日本人特有の言語操作術の延長にある。
つまり、翻訳とは、語を換えることではなく「読む秩序をつくること」なのだ。
こうした西欧語の翻訳が、輻輳的になにをもたらしたか?
原文不一致がもたらす阻害をあからさまに晒されてしまったのだ。
日本語は、あくまで「話す言葉」であり、「書く言葉」は漢文(あるいは和漢混淆文)であるという分離が当然のように存在していた。つまり、話しことばと書きことばは、ほとんどが違う言葉の利用がされてきた。千年以上にわたってそれが続いていたのである。
ところが西欧から運び込まれたモノ。技術も概念も、翻訳語を用いて、科学や政治、哲学を日本語で論じようとしたとき、この言文の断絶は決定的な問題になった。たとえば「自由」「国家」「化学」「権利」──こうした新語を用いて日常の言葉で論じるには、話し言葉と書き言葉を接続する必要があった。
こうして自然発生的に生まれたのが「言文一致運動」である。
坪内逍遥や二葉亭四迷らによる文学的実験から始まったこの運動は、その背景に今まで存在しなかった翻訳語が大きく価値として聳え立っているのだ
すなわち、新しい翻訳語で書かれた知識や思想を、話し言葉のような文体で国民に届けるという目的のために、言文一致体という「書きことばとしての国語」が鍛えられていったのである。
その文学的な"趣"を明治時代に生まれた翻訳語は持っていた。
「権利を有する者は…」「政府は国民の同意に基づき…」といった文体には、漢文訓読のリズムが色濃く残って、四書五経の素養がはっきりと感じられる。
明治の碩学たちの和魂洋才が、その背景に深く和魂漢才が有ることを痛感する。
西洋の知を移しつつ、それを支えるのは漢文の構文法であり、字義の選択であり、句読の音律であり、そして何より、「儒のことば」に内在する道義的な緊張感である。
明治の翻訳語は、見かけこそ近代の顔をしているが、その言霊の奥底には、千年かけて積み上げられた東アジアの書き言葉の記憶が宿っている。言葉というものが、時間を超えて文化の深層を運ぶ器であることを、これほど雄弁に語る事例はそう多くない。
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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました