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教職の職分と全人格の混同

現代の学校組織において、教員という職種はもはや単なる契約に基づく労働ではない。それはある種の「特権的な献身」を強いる宗教的な儀式に近いものに変質している。

一般の事務職であれば、机を離れた瞬間にその職責から解放され、一人の市民としての私生活へと戻っていく。そこには公と私の明確な分断がある。しかし教員の場合、帰宅後も、あるいは眠りに就く直前まで、脳内では生徒や学級という名の対象が支配し続けている。これは、職務が個人の内面や私生活を全方位的に侵食している状態であり、近代的な労働の概念からは著しく逸脱していると言わざるを得ない。

自己を消失させる無形の拘束

なぜこれほどまでに、教員は己の人生を職務に捧げてしまうのか。そこには、組織内に充満する「目に見えない合意」が存在する。

休日を部活動に捧げ、私時間を生徒への配慮に費やすことが、組織内での正当性を担保する唯一の手段となっている。この無言の要求に従わない者は、プロフェッショナルとしての資質を問われるような圧力を受ける。

ここにおいて、教員は「自律した個人」であることを放棄し、組織という巨大な有機体の一部として機能することを強いられる。彼らが感じている苦悩の本質は、過重労働そのものよりも、むしろ「自分自身の人生を生きている」という手応えの喪失にあるのではないか。

虚構の献身がもたらす歪み

この全人格的な没入は、一見すると崇高な教育的熱意に見える。しかし、その実態は「個」の解体である。自分の人生を棚上げし、他者の人生(生徒の成長)にのみ自己の存在意義を見出す構造は、極めて危ういバランスの上に成り立っている。

本来、教育とは自立した大人が、これから自立しようとする若者に接する場であるはずだ。しかし、教員自らが組織の論理に呑み込まれ、私生活を失い、一人の人間としての輪郭を失っている状況で、果たして健全な教育が成立しうるだろうか。

教員がおかしくなる源泉は、個人の能力不足などではなく、この「私」を許さない組織構造の倒錯にある。我々はこの異常な献身の構造を直視し、彼らが「教師」である前に「一人の人間」であることを取り戻すための論理を再構築しなければならない。

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