戦国武将「浅井長政」乱世の生き方―小谷城跡を訪ねて―後編
山城が語る戦国武将の生き様
戦国時代に起きた極めて異例な社会現象の主人公である数々の武将の生き様、そして、その人間模様を探り、自分を含め現代人に重ね合わせれば、乱世の生き方から治世の生き方の大切なヒントを得ることができる。勝ち負けに注視すると、結果論に終わってしまう。それでは、意味がない。

「黒金御門」をくぐった先に「千畳敷」と呼ばれるだけあって、大曲輪が広がっている。大広間跡とされており、浅井三代と家臣が一堂に会したことを想像すると、小谷城が計算された壮大な山城であることが実感できる。長方形に伸びる曲輪が奥行きを感じさせ、そこに建物が連なり、その先を見上げると、本丸の天守があり、浅井長政の謦咳に接するときが近づいていることに期待が膨らみ、いざ本丸へ。


天守において、浅井長政と対峙するも無言のまま。
誰もが知りたい、織田信長に反旗を翻した理由を沈思黙考する。
織田信長が朝倉氏を攻めないという約束を反故にして、戦をしたこと。或いは、信長が長政を家臣の如く扱ったこと。それとも、長政の祖父である浅井虎政(すけまさ)以来朝倉氏との深い繋がりがあり、これを重んじたこと。他方、織田信長が浅井長政とともに観音寺城を攻めて六角氏を滅ぼしたにもかかわらず、その南近江の領地を信長が独占したことへの浅井長政とその家臣の不満。さらに、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長に恐怖を感じ、友好的な朝倉氏を選択したこと。
諸説根拠はあり、いずれもなるほどと思う。また、これらの事情が重畳的に作用したことは否めない。

「近江を制する者は天下を制す。」と言われた要衝の北近江に居城を有(も)つ浅井氏、長政は、その三代目であり、隔世遺伝によって初代浅井虎政の気質を引き継いでいると言われ、将来有望と目される。織田信長は、長政を決して捨て駒とは考えていなかった。
信長にとって、長政は如何なる存在であったのか。
柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、木下秀吉の如き家臣であったのか。それとも、徳川家康の如き同盟者であったのか。感覚的には、その中間であったのではないか。長政は、小谷城で生まれ育った一国一城の主であるが、信長との年齢差は11歳、具体的には、弟分のように思っていたのではないか。それは、義理の弟という形式的な存在とは異なる。
他方、徳川家康はどうか。信長との年齢差は9歳であるが、家康は、名門守護大名の今川義元の人質として大事に育てられ、信長が勢力を拡大する上で、重要な存在であったことが、長政を家康と同一視していなかった理由と考えられる。
つまり、信長は、長政を自分について来る弟分と思っていた。森蘭丸と重ね合わせていたのかもしれない。だからこそ、長政が朝倉義景と手を結び、信長と敵対した第一報を信じることができず、その後も長政の翻意を求めたのだと言える。
それならば、長政は、うまく立ち回って、信長にくっ付いて行けばよい。わがままが鎧兜を身に付けて爆走している信長であるが、蘭丸のように、信長の懐に入ってしまえば、良いではないか。
しかし、この考えは、信長が勝つという前提であり、負けるという前提であれば、長政が朝倉義景と手を結び、信長と敵対したことは正解となる。「金ヶ崎退き口」がそれを証明している。

あと一歩、朝倉・浅井連合軍が、織田信長・徳川家康連合軍を追い詰め、殿軍(しんがり)の明智光秀・木下秀吉、そして、徳川家康を撃破して、信長の首を打ち取っておれば、長政の賭けは正しかった。朝倉義景の詰めの甘さを指摘したいところであるが、お家の事情は、外から見ていたのでは分からない。
この織田信長の撤退した路は、熊川宿から朽木へと、この朽木は、私が比良の北端「蛇谷ヶ峰(じゃだにがみね)」から下山する地で、雪山も含めて幾度も足を踏み入れている場所である。
このとき、九死に一生を得た信長は、軍を立て直し、同盟の徳川家康軍との連合を以て、朝倉義景・浅井長政連合軍と姉川合戦で死闘を展開し、徳川家康軍の活躍もあり、織田信長・徳川家康連合軍の勝利に終わった。
この先、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ち、10年に亘る大坂本願寺との石山合戦(織田信長包囲網)へと戦は続き、越前朝倉氏一乗谷壊滅、そして、小谷城総攻撃・浅井長政の自刃へと、歴史が物語るとおりである。

結局、長政の決断は、丁に張ったが、半の目が出たのである。長政とて、戦国武将、まったく勝ち目のない戦をすることはなく、六四の勝ちと判断して行動を起こしたであろう。いくら後付けをしたところで、命を懸ける勝負をしたものでなければ、その真意を知ることはできない。知りたければ、乱世で、「生き死に」を経験するしかない。
いずれにしても、浅井長政なる有能な武将を失ったことは、信長のみならず、痛恨の極みである。
私が浅井氏の家老であったならば、殿を守れぬことを覚ったとき、敵軍に突っ込み、憎っくき秀吉に一太刀をと、滅多斬りにされて、首をはねられるであろう。それで本望。
「三成に過ぎたるもの二つあり、佐和山の城と島左近」と言わしめた島左近に己を重ね合わせ、妄想する。「長政に過ぎたるもの二つあり、小谷城と三木仁平」すると、歴史が甦り、頗る愉快な気分になり、自分にとって、この山城が単なる観光地でなくなる。こんな歴史の愉しみ方があってもいいだろう。
因みに、徳川家康について、「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭と本多平八」と。家康が武田軍との戦で窮地に追い込まれたとき、徳川四天王の一人である本多平八郎忠勝が己の命を盾にして家康を救った「一言坂」のたもとに、翌日武田軍の武将が落書したことが今に伝わる。私が戦国武将の名を挙げるとすれば、真っ先に本多平八郎忠勝を口にする。
ところで、乱世における結婚は、治世とは異なり、政略結婚が常であり、そこに愛はない。戦国時代のみならず、古くは、天智天皇(てんじてんのう)の弟大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)は、天智天皇の4人の娘である大田皇女、大江皇女、新田部皇女、鸕野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)と結婚している。これは、兄弟の権力争いを避ける目的があり、両者の年齢が近かったこともある。大化改新から壬申の乱へと、正に激動の時代であった。
本丸で長居をしているうちに、織田軍の先鋒を務める木下秀吉の急襲が迫っていた。

本丸を回り込むように西側に進むと、「御局屋敷」が下方にあり、「御馬屋」から防御のための「帯曲輪」が続いている。いざとなれば、局も一戦交える心構えが伝わり、三木仁平もうかうかしてはおられない。

その先を進むと、大堀切がある。これは、本丸の北側を防御するため、深く大きく堀を造っており、ここで南北に区切られているのは、おそらく山の地形・傾斜の違いであろう。現地では、堀が崩れており、規模の大きさを感じることはできないが、復元図で見ると、確かに、本丸の防御の役割を果たしていたことが分かる。

その北側に、中丸(なかのまる)があり、三段の曲輪と大堀切から反り上がる虎口(こぐち、出入口)が堅固な防御を物語っている。

さらに上へと進むと、京極丸があり、これこそが浅井三代を滅ぼす最大の要因となる。ここもまた大きな曲輪であるが、守護大名京極氏の居所として、浅井氏が造営したもので、京極氏がその名前の由来である。
復元図によると、西側に桝形虎口があり、その西には、清水谷が尾根と平行して天然の防御壁となっている。この桝形虎口の下に繋がる「水の手」からなんと、秀吉軍が夜襲によって、攻め込んだのである。これによって、京極丸は、占拠され、その上部にあった小丸が本丸から切り離され孤立し、小丸にいた浅井長政の父久政は自害した。本丸の上方が秀吉軍に征圧されたのであるから、もはや勝敗は決したも同然。
ところで、この奇襲で想起するのは、源義経の戦法である。「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」を初め、数々の武勇伝には、当時の戦の作法を度外に置いた義経独特の戦術がある。性格的にも、武士としては些か変わっている人物であるが、義経四天王の一人「佐藤継信」は、源平合戦において、義経の御命代わりとなり、源氏を勝利へと導いた。大将のために命を賭する家臣がいなければ、戦に勝つことはできない。
秀吉もまた、義経と同様、その京極丸虎口への奇襲を成功させることができたのは、秀吉のために命を賭する有能な家臣がいたことを忘れてはならない。秀吉は、天下人となり、その命を忘れて、大切な家臣が亡くなり、それを幼い後継者が相続するとそのお家を存続させず、取り潰すことをしていた。そのとき、石田三成に、「それでは、殿のために命を賭するものはいなくなります。」と諫言されて、その愚行を改めた。氏素性の知れぬ者が天下を取ることができた大きな要因が此処に在る。
この秀吉軍の活躍によって、硬直状態から浅井氏が一気に瓦解し、浅井長政の自刃によって、小谷城とともに浅井三代が終焉した。そして、木下秀吉から羽柴秀吉へと名を改めた。
三代目の若きお殿様にとって、たたき上げの武将は、抗することのできない怪物であった。長政には、背負うもの、守るものが大きすぎた。
長政が降伏しなかったのは、降伏した後の信長の行動が明らかだったから。
歴史は、名のある者のために、名も無き者によって創られる。そして、歴史好きは、歴史を愉しむことができる。露と消えた名も無き者に感謝しつつ、供養塔に合掌する。
29年という短い生涯であるが、450年以上経った今も浅井長政の存在は、生き続けている。
浅井長政には、「心が青い」と書く「情」が輝いている。
「命一つの使い道生きて活かすも死して活かすも生き切ったるが人の道」
「浅井長政」天晴れなり。

