🌙【ちょっと待ってて、台湾】第一章 第三話①野柳のつまずき
先回の話:
台湾人のコウと日本人の悦子は、台湾の北海岸をドライブデートすることになった。金山の古い参道で、百年続く名物の鴨肉を味わいながら、悦子はコウとランチタイムを過ごした。台湾語が飛び交う人混みの中で、自分だけが少し外側にいる寂しさを覚え、それでも彼の隣は心地よかった。夢を語り合い、何気ない仕草に胸を高鳴らせるたび、「これ以上好きになってはいけない」という理性だけが、必死にブレーキをかけ続けていた。悦子には日本に彼氏が待っているからだ。それでも、午後はまだ終わらない。むしろ、本当の物語はここから始まろうとしていた。
車は二人を乗せ、小さな港町に入って行く。6月の初頭、キンキンに冷えた車内の中から、白く照り返す船の船腹を見ていた。何台ものイカ釣り船の沢山の鉄線が空に向かって無数に伸びている。光に釣られて、網につかまったのは私だったのかしら?そんな錯覚に陥るほどだった。
港町の周りは、所狭しと古いコンクリート製の建物がそびえ、かき氷やら、朝ごはんの屋台やら、カフェスタンドなどが軒を連ねている。ごく普通の小さな港町だ。
「悦ちゃん、野柳の港に着いたよ。もうすぐだ。」
「こんな普通の港に、あの公園があるの?」
「そうだよ。もうちょっとで駐車場だ。」
突然フロントガラスの前が、港町のごちゃごちゃとした風景から、すっきりと広いエリアに様変わりした。カラフルなたくさんの観光バスが整然と並んで停車していた。
「野柳地質公園駐車場」と標識が掲げられている。
車を駐車し、二人は、まぶしい日差しの中、入り口ゲートまで歩いていく。周りは韓国人や中国人観光客でひしめいていた。服装が明らかに違うから、一目でわかる。
「台湾ってこんなに外国人来てたんだね。なんだか不思議!」
「そのセリフ、悦ちゃんが言うとなんだかおもしろいなぁ。」
「確かに!ははは!」
さすがに国定公園だけある。駐車場もゲートもきれいに整備されている。
コウは、入り口で二人分のチケットを買うと、日陰でパンフレットの地図を開いた。
「この公園、それぞれのエリアごとに違った奇岩があって、いろいろ名前がついているんだ。」
「私、あの有名な『クレオパトラ(女王頭)』は写真やWEBでは見ているけど、生で一度くらい見てみたかったのよね。どこにあるのかな、あれ、結構この公園、奥に長いんだね」
「そうなんだよ。一番先まで行くとかなり時間がかかるから、途中まで先ず行ってみようか!」
「うん、そうだね!」
♢
野柳の国定公園には実に様々な形の岩があった。
にょきにょきと生えるアイスクリームやキノコのような形の石。
波の中から顔を出す、キャンドルのような形の岩。
メインの歩道には、ステップが敷かれていたが、多くの場所はざらざらとした岩地で、起伏も激しい。
悦子は一つの奇岩に近づこうとしたが、その時、靴が滑って倒れてしまった。
「あぁっ!」
——古いスニーカーで来たのが良くなかったなぁ。滑っちゃったよ。イテテテ。
「大丈夫?立ち上がれる?」
コウがさっと手を伸ばす。
悦子はお尻の砂を払いながら、自分で立ち上がろうとしたが、地面の傾斜が激しくて、また転びそうになる。
「意外に転びやすいからね」
そう言って、コウは悦子の手を引っ張った。
「ありがとう!」
悦子の手にはまだ砂がついていた。
その砂をコウがパンパンと払ってくれた。
「手をつないでいこう。危ないからね」
そうして、久しぶりに二人は手をつないだ。あの滝を見た時以来だ。
♢
「悦ちゃんの手、あったかいね」
「コウ君の手、おっきいね」
なんだか気恥ずかしくて、おたがい足元を見たままだったが、腕と腕が触れ、おたがいの体温がより近く感じられた。
夏の日差しは暑いのに、ドキドキで風が涼しく感じる。
「……あのさ……連れてきてくれてありがとう!」
そう言って、うつむきざまに、悦子は反対の手をコウの腕に添えた。
その瞬間、上腕のたくましい筋肉に甘えたくなった。
気が付くと、悦子は腕を絡ませていた。
ハッとしてコウを見上げると、そこには、満面の笑みがあった。
フフっと微かに笑いながら、二人は数秒見つめ合った。
腕を組んで歩いたその海岸は、先ほどよりも、明るく見えた。
奇岩たちが、まるで生きた精霊のように、今は楽しくダンスしている。
「あの岩、『お転婆姫』だって。悦ちゃんだね。」
「私もう大人よ。お転婆ではないわ。」
「一人で外国まで来て、十分お転婆に見えるぞ」
「えぇ、そうなの?」
「そうだねぇ。クレオパトラの女王様よりは、お転婆姫かもね!」
「えー、美女がいい!」
そんなことを言いながら、二人は指を絡ませ、腕も絡ませて歩いた。
時折視線を絡ませ、そして、二人は同じ方向を見て歩いた。
その時、
「あ・・・そうだ、悦ちゃん、
ちょっと待ってて」
突如、組まれた腕が解かれ、コウはふと入り口の方に駆け出した。
——えっ!また始まった。『ちょっと待ってて』。思い立ったらすぐ走り出しちゃうんだもん。でも、きっと、期待を裏切らないよね。うん
少し胸の中に酸っぱさを抱えつつも、悦子は一人近くのベンチに腰掛けた。
周囲からは、台湾人観光客団体の笑い声や、韓国人団体の韓国語ばかり響いていた。悦子は一人ぼっちだ。さっきまで手をつないでいた右手をじっと見た。まだ大きな手のぬくもりが微かにある。絡ませた腕もまだ暖かい気がする。でも、風が通り抜けていく。さっきまで明るかった奇岩たちが、少しばかりうつむいていた。
♢
10分ほどして、コウが走って戻ってきた。また汗をかいている。
——やっと戻ってきた!
その瞬間、悦子の心の雲は一気に晴れ、口元に笑みがこぼれた。
「ごめんごめん!待たせたね!車に入れっぱなしだった!」
汗ばんだ首元からは、太い黒い紐がかかり、その厚い胸元には、大きなキヤノンの一眼レフがぶら下がっていた。
「俺実は、写真好きなんだよね。」
そう言うと、右手でカメラを手に取った。
「えぇ、そうなの?知らなかった!」
「博物館のHPや展示パネルの写真も、実は、俺が撮影したんだ。」
そう言って、コウはカメラのレンズを悦子に向けた。
キュルキュルと光る大きなレンズに見つめられて、すこし顔を逸らす。
「悦ちゃん、あっちの方に、『クレオパトラ(女王頭)』が待ってるんだよ。ほら、あの岩のある当たり。わかる?」
コウは先の方を指さした。
「どこかなぁ?」
悦子が遠方の岩をきょろきょろと見上げると、
パシャパシャパシャ
シャッターが何度も押された。
「ほら、いい写真が撮れた。」
そうして、コウは撮影した写真を悦子の目の前に見せた。
ハートの奇岩の前で、悦子が青空を見上げていた。
「生き生きしているだろう!こういう自然な顔が好きだよ。生きている姿。何もしなくていいんだ。そばで笑ってくれれば。」
そう言うと、コウは手のひらで悦子のほっぺたをちょんちょんと触った。
少し驚いた悦子は、その頬を触ったまま、目を見開いてコウを見上げた。背が高い。
その瞬間、ザラッ
今度は、コウが転びそうになる。
「コウ君、転ばないでね。キヤノンが壊れちゃうよ」
そう言って手を差し伸べたのは、悦子だった。
二人はもう躊躇しなかった。
二人はまた腕を組んで、二人で歩道を歩いた。まるで、ずっと前から腕を組んでいるように。
時折、シャッター音がパシャパシャと鳴る。
二人の心のレンズは、海に、岩に、波しぶきに向かって、そしてそれぞれの横顔に向かって、幾度となくシャッターに収められた。
🌙
【野柳②へ続く】
▽先回の話
▼バックナンバーマガジン
