🌙【ちょっと待ってて、台湾。】第一章 第三話②岸壁を降りる瞬間
日本に恋人を残したまま台湾で働き始めた悦子は、台湾人のコウとの日帰り旅を続けていた。笑い合い、食べ歩き、野柳地質公園へたどり着いた二人は、女王岩が聳えるエリアへと向かう。初夏の強い陽射しと潮風の中で、二人の距離は次第に近づいていく。
二人は腕を組みながら小さな橋を渡った。その橋の左側にも、キノコのような奇岩が生えるエリアがあった。ここにかの有名な「女王岩(クイーンズヘッド)」奇岩がそびえているのだという。
「パンフレットを見ると、このあたりなんでしょう?」
「そうだよ、あのあたり人が多いだろう?」
たしかに左側の奥で何人かの人が記念写真を撮っている。人だかりは酷くて、とても二人で写真が撮れそうな感じはしない。
二人は腕を組みながらそのクレオパトラまで歩き始めた。
「コウ君、どうしてだと思う?こんな奇妙な岩がたくさん見られるのは、この地質公園だけでしょう?港の方にはどうしてこういう岩は無いのかしら?パンフレット見て不思議だなって思ったのよ。」
「……うーん。どうしてなんだろう。台湾も日本と同じ地震が多い場所だろう?この公園の部分は、土地が隆起しているんだよ。それに地面もこんな砂岩っぽかったら、確かにすぐに風化しそうだよね。でも、なんで港の方には見えないんだろう?僕も考えたことなかった。」
「コウ君にも知らないことあるのね。」
「さすがにここは僕のテリトリーではないからな。好きだけどね、地質学とかも。だから、そう言うところでは、僕はカメラ小僧になるのさ!」
「なるほどね!写真はコウ君の好奇心を閉じ込めてくれるのね!」
目の前にそびえるクレオパトラは、小さな柵に囲まれていた。
少し離れたところに写真撮影スポットがあり、そこに人が並んでいる。
「近くで見ると、けっこう大きいね。もっと近づいたら、逆に怖いぐらいかも。」
「日本では、エジプトの女王のクレオパトラって言うのかな?台湾では、イギリスのエリザベス女王を想像する人が多いみたいだよ。これだけ大きいんだもん、威厳を感じるよね・・・・」
「コウ君、写真撮らないの?」
「人が多すぎて、気に入った構図で撮れそうにないなぁ。」
「確かに、そういうものかもね。
ねぇ、コウ君、この女王様の岩、どんどん風化しているんだよね。」
「うん。そうらしい。だからバリケードが築かれているんだよね。首が折れないように、大学の研究者とかが、いろいろ対策をしているらしいけど、でも俺はさ、これはいつかは折れる運命なんだから、寿命が尽きるままに自然に任せておいた方がいいと思ってるんだよね。寂しいけど、それが美しいかなと思ったりね。」
「いつかは、首が折れちゃうってこと?」
「そうだよ。多分、俺らが生きている間には、いつかね。どんどん首が細くなっているらしいよ。だから、確かどこかにレプリカを作って置いてるはずだよ。あ.……あ。ほらコレコレ。」
コウはパンフレットのレプリカの写真を指差す。
「確かに、本物は首が細すぎるわ。見ていると少し息苦しい気がする」
「だろ。女王として生き続けるっていうのは息苦しいのかな」
「やっぱり、私、クレオパトラでも、女王でもなくてよかったわ!ね。」
「そうだね!お転婆娘だろう?」
「そうそう!」
そう言って、コウの腕から悦子はひゅっと飛びぬけた。
―――さっきのお返しよ!
「悦ちゃん、走ると転ぶぞ!」
「ちょっと待っててー!」
悦子は駆け足でメイン道路まで戻ると、その先の第三エリアを目指して早足で歩いた。韓国人、台湾人、中国人、その他の国の人を肩で切って歩いた。太陽は刺すように鋭いが、早足の悦子の全身に海風が涼しく流れていく。
奇岩帯の海岸線はだんだん下がり、メインロードは堤防のように海から少し高くなり始めた。
遠くの方に、いくつも四角く割れた岩が並んでいた。
「豆腐岩だわ・・・・岩なのに、豆腐なのね。」
東シナ海の海は、野柳の岩肌に容赦なくぶち当たり、白いしぶきを上げていた。亜熱帯の眩しい太陽に抗うかのように、海は怒っているかのようだ。
そして、波の涙を一身に浴びて、岩は豆腐のように濡れている。
悦子はその岩を見ながら、太陽を背中に感じた。自分が今北を向いていると思った。一瞬、この濡れた岩肌の先の大切であるはずの何かを思い出しそうになったが、背中から抗うものがやってくるのを感じた。
「・・・ちょっと待ってよ。突然走るのは、ずるいなぁ。」
コウの息が少し上がっている。
「さっきのお返し。コウ君も突然いなくなったもん。
ね、あの岩、豆腐岩って言うんだね。なんか面白いなと思ってみてたの。岩なのに豆腐って。」
コウはそんな悦子の横顔を見据えると、自分のリュックサックを足元に降ろして、メインロードのステップを飛び降りた。高低差は1メートル以上あった。
ダンッ
コウは少し先に駆け足で進んでいくと、岩の上に登って、岸壁の写真を撮り始めた。
「ちょっと、ずるい!私も行きたい!」
コウはその声を聞きつけると、ゆっくりニヤニヤ笑いながら、もったいぶるように歩いてきた。そして、下から悦子を見上げると、眩しさのあまり、コウは左手で目の上にひさしを作った。
「本当に、降りるの?」
「うん。」
「じゃ、このメインロードに腰掛けて」
悦子が腰を下ろすと、コウがもう3歩近づいてきた。
「飛び降りておいで、ほら」
そう言うと、コウはカメラを地面に置いて、悦子の足元で手を広げた。
「え、私、重いよ」
「降りないの?」
「・・・・・・意地悪。降りる!重いよ!」
気恥ずかしいような、息苦しいような、花が咲いたような、そんな胸の内を抱えたまま、ゆっくりとお尻をメインロードからずらして、滑り降りた。
足が地面に着く前に、コウが悦子の腰をしっかり抱きとめた。
不安定な地面に両足が着地するのを見届けると、抱き合う二人の間を風が駆け抜けた、悦子の髪の毛が額にパラっとかかる。それをコウの太い指が、沿うように払った。
「転ばなかったね」
「重かったでしょ?」
「うん。重かったよ。でも、大丈夫。俺、力あるから。」
そう言って、二人は笑った。
二人を遮るものは何もなかった。
ただ海風と潮騒だけが二人の間を柔らかく駆け抜けていく。女王は細い首を伸ばして二人をこっそりと見守っていた。
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